2011年4月29日金曜日

人生に「うまくいっている」も「うまくいかない」もない(セッションより)

人生をうまくやりたいと思わない人はいないでしょう。
誰でも自分の人生を幸運と平穏に満ちた人生で終始させたいと思っています。

それはいつでも健康で、富に溢れ、楽しい事が順風満帆に続く人生。

しかし実際には、少なくとも私は、一生に渡って順風満帆な人にお目にかかったことはありません。みんな山あり谷ありの人生を送っている。
喜ばしい事、苦しいこと、悲しいこと、楽しい事。

陰陽、バイオリズム、周期、それだけでなく。

他人から見れば、どんなにか強くて幸運で幸せそうに見えている人でも、どこかに必ず悩みや闇を抱えています。それはたいてい他人に話す事ではなく、あるいは敢えて隠して生きていますから、普通の人には分かりません。
が、分かる人にはすぐに見えてしまいます。
それらを全て分かった上で、その人を認め愛する事ができる人には見えるのです。

でも悲しいかな、たいていの人は、完璧と思っていた(思い込んでいた)人の、ほんの些細な欠点や弱点に幻滅し、評価を180度変えてしまうのです。
これは蒙昧の心なのですが、大衆の心というものでもあり、致し方のないことかもしれません。

昨日までのヒーローが、些細なミス、スキャンダル、時には小さな犯罪(事実かどうか分からない)で突然落とされ叩かれ、それまでの全ての功績を台無しにされてしまう事件が後を断ちません。
とても残念なことです。

このことは、それをあげつらおうとする人達も、それに乗っかって評価を変えてしまう人達も、全てが妬み、ひがみという蒙昧の中に囚われている証左の一つといえるでしょう。

あなたはその中に加わってはなりません。


「影も日向もなく、本当に非の打ち所がない」などという人は存在しません。

「一点の曇りもない」人など一人としていません。


あなたの人生に闇やトラウマがあるように、誰にでも闇や悩み、どうすることもできない弱点や恥、人生の浮き沈みがあるのです。

自分だけにあるのではありません。
全ての人にあるのです。

物事には必ず陰陽があるように、私たち自身の人生も、陰陽によって成立しています。

もしも「一点の曇りもない順風で平穏な人生が理想であり、そうなるべきだ」などと思っているのなら
それはテレビのドラマやCM、マスコミの情報にかなり毒されていると思って下さい。

もしそういう人生があるとすれば、それは停滞でしかありません。

よく、大望を持つ人にのみ試練や闇はあると言われますが、私の見方からすると、あまり関係ないように思います。

もちろん、何かを成し遂げようと思う人には必ず嵐と機会がやってきます。
しかし、何も成し遂げようと思わない人にも、なぜか必ず変革を迫る嵐がやってくるのです。

どちらにせよ嵐(陰と陽の入れ替わり)があるのなら、より楽しく局面のある人生を選択した方がいい。
楽しく、喜びに満ちたものを探しに出かけよう。
それが嵐を乗り切るエネルギー。

それは待っていても来ない。
嵐を乗り越えた先にあるもの。

人生には、うまくやっている人生も、うまくいかない人生もないのです。
誰にとっても同じ価値のある理想の人生などありません。
あなたの人生は、あなたにしか作り上げることはできない。
平凡な人生など存在しません。

あなたにとってのみ価値のある人生を探して下さい。
テレビにもネットにも、周囲にも影響されない、オリジナルの理想を。

(セッションより)

薔薇(バラ)の庭


光の中を、漂っていた
何の心配もなく
いろんなものが
話しかける
ともだち
僕らも、話しかける
輝きは、今も懐かしく
その時も、もうとても懐かしかったのだ







油彩/F20/2003



2011年4月17日日曜日

芸術と政治

芸術家や、芸術を希求し指向する人は
お互いに政治的でない限り
人種や国籍を問わず世界のどんな人とも仲良くできます。

政治的でないといっても、それは芯がないということではありません。
いろんな政治信条があり、哲学も違います。
宗教も。もちろん歴史認識も。

当たり前のことです。

そういう違いを乗り越えて
というよりも、そういう違いを言葉や態度で表してみたり
自分と違う立場である相手の領域に踏み込むのではなく
芸術という共通の言語を通じてのみ会話する能力。

真の芸術家には、そういう能力が備わっています。

愛、美、富、平和、調和、健康、喜び、自由
これらを希求して止まぬ姿勢、生き方こそが芸術の姿。
これを求めて戦い抜く限り
芸術は決して死なない。
芸術家はそのお手本にならなければならない。

特定の政治思想に自分を染めることなく
常に自由であらねばならない。
政治思想、体制、因習や常識や、ルールやモラルからもさえ
自分を解放して、真の自由を希求しなければならない。

逆に、ひとたび政治的な自分を決めてしまえば
芸術はたちまち光を失い
創造はただの手慰みに変わってしまう。
果ては芸術家本人もルサンチマンの犠牲となり
攻撃と防御に汲々とし
愛や美は見えなくなってしまう。

だから
芸術家は、何事にも支配されず
誰にも支配されず
その代わりに何事も、誰をも支配しない。

敵は他者にあらず、自らの心の中にあり。

2011年4月4日月曜日

天命

人には天命というものがあり
その天命に沿って生きた時に
これはちょっとスピリチュアルな話になりますけれど
人は初めて一つの魂として昇華のようなものを遂げていきます。
少しだけ自分自身の事を話します。
私は2002年から2003年にかけての期間
かなり長い瞑想の生活を送っていた事がありました。
その期間、当然様々な気づきやメッセージも受けるのですが
その中で天命について受けたメッセージは
特に繰り返しが多く
またエネルギーの強いものでした。
それから周期的に
また断片的に
そのメッセージは私に降って来るのです。
言葉にする事がとても難しいのですが
(気付きやメッセージの多くは言葉ではなく閃きとして瞬時に大量に来るため)
でき得る限り、それをここに記します。
天命
それは、あなたの魂と世界とを結ぶ掛橋だ。
それは常に隠されている。
それは常に試練と共にやってくる。
それはそう簡単には見つけることができない。
それは自分で見つけなければならない。
それを見つける作業は苦しく試練に満ちている。
それは極限状態で見つけられる。
それはやりたい事の中にヒントがあり、しかしそれは答えではない。
それは喜びに満ちたものであると同時に、逃げが許されず、全くもって楽でない道だ。
それを見つける時期は、早過ぎる事も遅過ぎることもない。
それを見つけた時、あなたは過去と現在に絶望を感じ、同時に希望を感じるだろう。
そして甘美な喜びに包まれて恍惚となるだろう。
それは常に自分の輝かしさや甘美な時の過ごし方と関係がある。
それは安寧とは無縁である。
それを全うしようとするときも、度々極限状態におかれるだろう。
それによってあなたに課せられる苦悩や障害は、克服ではなく手放すものである。
それは全く考えなくても知恵が出るものである。
それに沿って生きる時、あなたは生きる喜びと、爆発するような高揚感に満たされる。
それは最高の犠牲心を生む。
それは自我とは無縁でありながら、個であることを厳しく要求される。
私が言葉にできるのはここまでです。
こんなにしつこく書いてみても
まだ何か表現は足りない気がしています。
そして、こういう事に気づいたからといって
私自身でさえも自分の天命について、完全に明確になった訳ではないのです。
つい数年前までは本当に混沌として分からないものでした。
最後に、私の天命は何でしょうか。
それは、美と祈りです。
美しきものを探求すること、そして祈ること。
この2つの事によってのみ人の役に立ち得るという
絶望感と希望感がないまぜになったようなもの
それを、私は日々天から(神から、仏から)打ち付けられています。
それ自体は決して悲観でもなければ逃げ出したいものでもありません。
それはむしろ私にとっては甘美なものなのです。
この2つの事象は、とても曖昧です。
美といってもとても広い。
さらにここから自分だけのものを見つけなければならない。
祈りについてもそうです。
ただ祈るという事だけなら、誰でもやっている事です。
それを天命とするとはどういうことなのか。
ゼロから考えて、試していかなければなりませんでした。
しかしそれらは、全て過去または現在に、自分がやって来た事の中に
そのヒントが隠されています。
天命を見つけるためには結局
それらを再度、片っ端からやり直してみるしか他に手がないのかもしれません。
最終的には、苦悩にのたうち回りながら
「自分にはこれしかないのだ」
と、まるで自暴自棄のような言葉と共に出て来る可能性が
とても高いと私は思っています。
天命とは何か
生涯をかけて、宇宙の真理のために、人への愛のために
何をすべきかという事に他ならない
それは我欲を越えたものだ
自我や常識、利欲による計算思考が入ったとき
それは輝きを失い、天命に至る道は全く機能しなくなる
我欲を越えてこそ、天命は全てを私たちに与えてくれる
天命を全うする才能と能力がありながら
天命を知ろうとしない者には試練が与えられ続け
天命を全うしようとする道には常に試練が与えられる
どっちにしても、人は試練の中をもがきながら進んでゆくのです。
どうせなら、したい事の中に天命を見つけて下さい。
どうせいろんな人に迷惑や世話をかけながら生きるのですから。
私もです。いつも、とてつもなく。
それを思って、あなたも生きて下さい。