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2023年9月18日月曜日

瞑想と呼吸

【瞑想と呼吸】

先日、お世話になっているとあるサロンのオーナーとお話をしている時に、瞑想の話になりました。


いろんな質問に答えているうちに、自然に

「瞑想はするのではなくて、『なる』んです」と答えていました。


考えてみると、ここ10年ほどは意識的に「瞑想するぞ」と思ったことが一度もないことに気がつきました。


それでも日常的に瞑想感が強いのは、普段からぼーっとしてるか、いよいよ瞑想名人の域に達したのかな?とか、帰り道いろんなことを考えていました。


そしてはたと

「あ、絵を描いてる時か」と思い至りました。


最近自分でも絵が変わってきたなというか、シンプルな構図と複雑な色の組み合わせが多くなってきたのはそのせいなのかもしれないと。


それから数日後、とある伝統芸能の達人の動画に出演させてもらった折、彼が「ルーブルでモナリザを見た時は胸式呼吸、雪舟を見た時は丹田呼吸になった」とおっしゃっていました。

「サトさんが絵を描いている時はどこで呼吸してますか?」と振られて、思わず


「僕は絵を描いている時、気がつくと無呼吸になってます」と、なんともとりつく島のないような答えになってしまいました。


で、それも後から「あ!」と気付きまして。


僕の場合、取り掛かるまでが長くて、描きモードに入るまで4時間も5時間も、下手すると三〜四日「何もしてない」状態が続くことがしばしばなのです。

始まれば速いんですが、始まるまでがとにかく長い。


もしかするとこの「何もしない時間」というのは、知らないうちに呼吸を整えている時間、瞑想なのかなと。


それが瞑想といえば瞑想なのか、いや、それともただの無駄な時間なのかは分かりません。


とにかく、そういえば呼吸が整うというか、自分の波動がすっかり静かになったところで、あとは息を止めてわーっと描くわけです。


個展近くなって、また昼夜逆転してきました。


2023年9月10日日曜日

共にまだ見ぬ地平へ

【共にまだ見ぬ地平へ】

僕が画業に専念すると決めた日以来、様々な人が応援してくれました。

そして実に驚くべき事に、それは今日まで一日も欠かす事なく続いています。


作品を購入してくれるのはもちろん、個展開催のために骨を折ってくれたり、人の縁を繋いでくれたり、展示に欠かさず足を運んでくれたり、励ましてくれたり、寄り添ってくれたり、所有のサト作品をSNSで取り上げてくれたり、中には残念ながらお目にかかることも叶わなくなってしまった方もいますが、現在進行形でいまでも数えきれない方から様々な形でかけがえのない恩を頂いています。


今の僕があるのは、この方々の応援のおかげ以外の何物でもありません。

その幸運に恵まれたことを心から感謝せずにはいられません。


この御恩は、自分がしっかりとアートの地平の先を踏みしめ、サトチヒロのアートを応援していて本当に良かったと思ってもらえることでお返ししようと、日々決心と覚悟を新たにするのです。


その地平の先とはなんでしょうか。

それは

「世界のアートの中心地日本という国で、みんなと共にアートの新世界を踏みしめる」

ということです。


日本はアートの国になります。

(ポテンシャルとしては既になっている)

そして東京をはじめとする日本の各都市は、世界のアートの中心を担う事になるでしょう。


そして、作る人も見る人も、全てのアートを愛する人々が、アートによって立つ、豊かになるという社会が到来します。

それが僕の見ている「アートの地平、新世界」です。


今、僕はとても貴重な体験をしています。

これまでのような、アートが単に発表の場が与えられるとか、アーティストとオーディエンス、限られたマーケットだけの関係に留まらない、観る側、所有する側が主体となる一つのアート運動、イズムが起きつつある、アートが媒介するトランスフォーム体験です。


「なんのこと?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。この事についてはまた機会を改めて詳しく書きたいと思います。


ともかくこの体験は、これまでの日本にはなかった、いやおそらく世界にも類を見ない、全く新しいアート文化の誕生を予期させる動きです。


この潮流は、やがて日本中に広がるだろうと思っています。いや、シンクロして各地で同時進行で始まっているかもしれません。


そしていずれ世界の美術史にページが割かれる日が来るでしょう。

日本は、パリやニューヨークに負けない世界のアートの都になる素質を十分に持っているのです。


この体験をリアルタイムでより多くの人と分かち合いたいのです。


ただし、ただ絵を描いているとか発表して見てもらうというだけでは、このムーブメントは大きくはなりません。一人一人の自然で無理のないトランスフォームが欠かせません。


僕もその一助になろうと、銀座アートストンギャラリーのオーナー先崎氏をはじめとし、アンバサダーになっていただいているお客様やアーティスト、キュレーター、またアートに直接関わらない異分野の方々、経済界や文化人の方々と、日々様々な意見交換をし、いくつかの企画も立ち上げています。


一例として、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、今年1月から、有料ですがアーティストのためのワークショップを開催しています。


といっても描き方の教室ではありません。アーティストが創作活動を持続発展させていくためには、正しく自分のアートや考え方を知ってもらうこと、アートを応援してくれる人達とのコミュニケーション、アートの社会的役割、努力に応じて用意されたチャンスをしっかりと掴むことができる技術や考え方、意識、観察力が必要です。


まずはアーティスト自身それを身につけようと始まりました。動画の配信やイベントも行っています。どなたでもいつでも参加可能です。


それらは自分だけが身につけるだけでなく、分かち合い共有する事でさらに大きな力となります。

このワークショップの当面の目標は、これらを共有した方々が、さらに大きな流れを作って下さることにあります。


遠くないうちに、アートを作る側でない、オーディエンス、アートファン、これからアートに触れたい方のための企画もお知らせするつもりです。


まだまだ小さな流れに過ぎませんが、やがてこの「新しいアートムーブメント」が大河となって大海へ注ぐ姿が、僕にははっきりと見えています。


「共に新しいアートの新世界に立とう」


この考えに賛同して下さる方は、いつでもお気軽にコンタクト下さい。


これからもどうか変わらぬご支援、応援を何卒よろしくお願い申し上げます🙇‍♂️


2022年11月5日土曜日

画家一代、音楽家二代、デザイナー三代

 画家一代、音楽家二代、デザイナー三代

まだ学生の頃「画家一代、音楽家二代、デザイナー三代」という言葉があって、やたらと意識していた時期がありました。

ネット検索しても出てこないところを見ると、古い世代の書籍か、あるいは限られたアカデミズムの中で言われた言葉に過ぎないのかもしれません。「デザイナー」の部分は正確には「建築」だったのかもしれませんが、僕が見知った範囲では「デザイナー」でしたので、デザイナーで話を進めます。

この言の意味するところは、それぞれひと門のものになるまでは、これぐらいの「代」はかかるよということです。


デザイナーの素養は親ガチャの典型

絵描きは例を挙げるまでもなく初代で成功している人がたくさんいます。
ただこのことは後述しますが、かなり近年、複雑な思いで捉えています。

音楽家を育てるには、親の代が音楽の素養を持ち、それなりに子どもに音楽教育を施せる環境であること。有名どころではベートーヴェンやモーツァルトなど。

これにはかなり納得行くところがあります。
身の回りもそうだし、僕の知る限り、クラシック、ロック、ジャズ、演歌、民謡その他全て、親の世代で音楽に全く興味のない方で音楽家になった例を挙げるのが大変なぐらい知りません。

最後のデザイナー三代というのは、デザイナーの素養の多くは、教育というよりは生まれ育った家庭の経済、文化レベルに依存するのだという例えです。良い環境で育ち、良い物を使って文化的な生活をし、社交を経験して人とのつながりを肌感覚で見据え、またかなりの教育投資を受けていないと、人が手にして使うものをどう構成すべきかという本質が見えてこないのだそうです。親ガチャの典型です。

残念ながら僕はデザイナーとしてはまあそれなりに生活の糧になるようなレベル止まりでそれほど高貴な成果(笑)は残せていませんし、人の感性に訴える綿密な設計というものについては未だに全く自信がありません。

まあ、それでも今は経験を通じて、デザイナーも人様の役に立つためだったら「意識体験と勉強と研究」さえ怠らなければ良いデザインは生み出せるという考え方に変わっています。



絵描きになるにはお金がかかるという事実

さて、「絵描き一代」に戻ります。僕はこの「絵描き一代」にかなりの疑念を抱きながら「そんな簡単に言っていいのか?」といつも考えてしまうのです。

今から僕が書く文章は、定説や常識の逆のさらに裏を見ているような文章ですので、あくまでも正しい正しくないではなく、思考の参考までにお読みいただければと思います。

近年のアートは、相当な知的水準、技術訓練と感性、そして投資が必要な分野となって久しく、少なくとも美大を卒業し院まで進みアーティストデビューの「頼りない」切符を手にするまでに、莫大な親からの投資が必要なことが当たり前になってきています。

投資金額がそのままアーティストとしての名声や立ち位置に影響する。

もちろんその裏にはアーティスト自身の血の滲むような努力があっての話です。

が、です。

さらにそんなにまでして頑張ってきたアーティストの作品を見せられていつも感じさせられる共通の感想があります。

「まて。これって……、デザインじゃね?」

この場合の「デザイン」という言葉の使い方にご注意ください。

デザインにはターゲットがあります。

アートにはターゲットはありません。

デザインには関係ある人とない人がいます。

アートは否が応でも作者から時代への概念的関係を迫るものである。

さらに言います。

デザインとは、ターゲット(役立つ)が絞られた中でのみ価値が創造される。役に立たないデザインは淘汰される。

ところでターゲットが絞られたアートは現状、ターゲットの絞られた価値創造市場の中では莫大な富を生むが、人類の恒常的価値とは無縁のものとなっています(今のところ)。つまり、関係ない人にとってはどこまでも関係のない世界で終わる。

まあ、アートをそんな大上段で捉えるつもりはありません。
河原や路傍の石を見るようにアートも見るべきという僕の基本概念は変わりません。

眼の前にあるものがアートでもデザインでもどっちでもよろしい。

関係ない人に関係ないのは絵もデザインも一緒。人類には関係あるけど。


アートではなくデザインさせられる人たち

が、やっぱり「ん?これってデザインじゃね?」と思う作品からは、なにかこう得体の知れない「市場臭」がする。

長年のデザイナー経験から来る、独特の嗅覚がそうさせる。
それは、ある特定の人には僕はこの人の作品を紹介説明はできるけれど
別のある人にはとてもそれが価値あるものとは説明できないと感じるからです。

そこでそんな経験豊富な僕は考えるのです。

そうか!
アーティストも今や三代かかるアレなんだ!

アートは逆境を跳ね除け、美に対する止むに止まれぬ枯渇感から生まれる挑戦や、無邪気に野山で遊んでは夕日に見とれているぼんやり人間のものではなく、今やターゲット顧客層の気持ちを汲める、かゆいところに手が届く「こんなのいかがですか?」を提案する商品価値を問われるものになった!

アーティストもデザインの市場創造システムに組み込まれたのです。
彼らはデザイナーなのです。

河原で見つけたきれいな石を拾い上げて小躍りしながら家に持ち帰ってみんなにワクワクしながら見せるのではなく、ショベルカーで乗り付けていって川底まで掘り返し、ベルトコンベアーでじゃんじゃん街に送り込んでガラガラ磨いてお店に並べるのです!
アイデアだね!
アーテイストになるために、川底採掘権やショベルカーの操縦まで必要なんだ!

アイデアや驚き、新しさはとても大切なことです。技術も大切だ。

でも……

静寂から聴こえるあの音は? 詩は? 空を見た時のドキドキや締め付けられるような切なさは?

個人的見解です。
僕は「絵描きは1.5代」だと思います。

0.5はなにか。それは自分の人生をどう生きどう捉えたか、そしてそれを通じて世界や自然をどう見たか……です。

それは画面に必ず出る。
作家本人が気づいてなくても。


お互い、がんばろうね。

という…お話でした。







2022年10月31日月曜日

個展への思い〜現時点でやれることはやった感謝の4週間

個展を見に来てくださったみなさん、ありがとうございます!

 2022年10月3日から30日まで約1ヶ月間という、自分史上最長の個展を体験しました。

ロングラン個展だと、作家は週に1度か2度在廊…というような持久戦で臨むようですが、僕は今回、全日程在廊を目指し、無事実現することができました。

おかげで多くの方々との出会い、交流はまたしても僕の宝となりました。

「アート」という敷居の高さを乗り越えて、電車やクルマで銀座に向かい、ギャラリーに足を運んで、サトチヒロの作品を見てくださったというのは、本当にもう「感謝」というような言葉では足りないほどにありがたいものでした。

個展のたびに身体がガタガタになりますが(笑)それでも個展というものは、何にも代えがたい珠玉のものです。



なぜ個展にこだわるのか?

僕は数年前まで出品していた公募展に出品することもやめ、アートストンギャラリーを除く企画展も殆ど参加しなくなりました。その代わり、個展をとにかくやれるだけやろうと決心したのが、コロナ禍の真っ只中、2020年のことでした。そして今年はとうとう、オール新作での個展が実現しました。

僕がなぜこれほどまで個展にこだわるのか?

改めてここに書いておきたいと思います。


1.アートは宇宙と宇宙を繋ぐコンセントである

まず、アートは自分にとっては僕の宇宙の自己表現であると同時に、社会あるいは見てくれるお客さんの宇宙、世界観とのコンセントと言えるものです。そこに到達するためにまずたくさんの方に見てもらいたいと思っています。それは一点や二点ではダメです。世界観そのものが、その場を支配している空間が重要なのです。制作している時点では無の境地でいる僕も、個展に出品する作品にはその世界観を大切にしています。


2.サトチヒロ作品をじっくりと味わい、時間をかけて向き合って欲しい

さらに一定時間足をとめて、そのアートと向き合ってもらいたいと思っています。じっくりと向き合うためには、ある程度閉ざされた落ち着いた空間が必要です。



3.サトチヒロ作品との対話、そしてインプレッションを語り合える

さらにその作品との対話を通じて、自己投影による解釈を加えてもらえたら嬉しいと思っています。その素晴らしいインプレッションを聞くためには、自分が常に在廊している必要があります。出会いや縁というのは不思議なものです。


4.サトチヒロ作品を購入することで活動資金をサポートして欲しい

アートは子ども同然の存在であると同時に、創作活動を支えるための資金を生み出す商品でもあるという矛盾を抱えながら「買ってほしい」と思っています。お客さんがその作品を「独占したい」と思ったとき、そして値段を見て、そのアートやアーティストに投資する価値があると判断した作品は買われていきます。そしてそれが部屋に飾られた時、アートオーナーだけに許された、長く知的で甘美な美への旅が始まるのです。それに値するものを絶えず生み出したいと思っています。個展はその大切な機会です。




5.サトチヒロ作品に触れる事で幸せになってほしい

あ、もし仮に購入できなくても後ろめたく感じることはありません。サトが作ったアートが、一人でも多くの方の人生にとって希望となったり、発想思考の転換のきっかけとなったり、幸福を提供できる存在であってほしいと願っています。そして他の人にもアートの素晴らしさや役目を広めてもらいたいと思っています。ギャラリーをそのための場にしたいし、年に一度のアートフェスはその一環です。さらにサトチヒロの個展もまたその場になりたいのです。


6.個展はアーティストと美意識を共有できる交流の原点である

お客さん一人ひとりと「アーティスト対客」という垣根を超え、人間と人間の親交や友情を深め、それをずっと継続したいという夢があります。それは僕を介さない、お客さん同士の交流も含めてです。美意識やアート思考を共有できる人は、必ず仲良くなれます。それが僕サトチヒロのアートを通じてなら、なんと素晴らしいことでしょう。僕の個展がその場になれるならこれ以上の喜びはないのです。


来年は、もっと皆さんが幸せになれるような、そんな個展を目指したいと思っています。

ご来場してくださった方々、ご購入くださった方々、そして応援を頂きながら残念ながらお越しいただけなかった方々も、心から御礼申し上げます。ありがとうございました。




2022年8月29日月曜日

アーティストはビジョナリーではあるけれど

 現代アートにおいては、アーティストのあり方の理想像はビジョナリーです。

ビジョナリーとは、先見の明、新しい価値観、世界観、変革を起こすビジョンを持つ人のことです。

それを視覚的な、あるいは聴覚的な作品に起こし、見る人(鑑賞者)に新しい視点の地平を提示できるということが、アーティストとしての理想のあり方でしょう。しかし、その理想は時として「見ただけ」では瞬時には理解できないことも多かったりします。

何故かというということは後述しますが、鑑賞者がアートを見て自分のものにするためには、何かしらのヒントや背景がどうしても必要なのです。

ですから、私は常日頃から、「作家は作品を説明できなければならない」といっています。

でも、この説明が決して得意ではない人もいます。

ビジョナリーを目指してアーティストになったわけではない人もいれば、また絵を描いているから、映像や立体を作っているからといってすなわち全てビジョナリーになれるとは限らないのです。当然です。

だから無理やりビジョナリーを目指したり、難しい理論を展開したりする必要はありません。

また、アートや技術を勉強すればビジョナリーになれるというものでもありません。技術の習得とビジョンとは全く別物です。全てのアーティストが到達しなければならないというものではないのです。

ただ、現代に生きているアーティストである限り、自作についての説明はできなくてはならないでしょう。やはり現代人は「説明」を求めているのです。

しかし、表現の説明は表現の説明で良いのです。

それをビジョナリーであらんがための説明とミックスしてしまうから、話がめんどくさくなります。

アーティストがビジョナリーであるためにはむしろ、アート以外についての遠い回り道の経験や学習が必要です。

視点、視野、価値観は異質なものに触れることで加速度的に広がり、新しいビジョンが見えてきます。一つや二つの価値観だけで生きているうちは見えてこないのです。

そういう回り道を無駄とか損と考えて、知識や理論武装による近道をしようとする人もいます。しかし私はビジョナリーに近道はないと思っています。また理論武装のテクニックを学ぶことは、デッサンを学ぶことと同じぐらい重要で、なおかつ突き詰める意味の薄いものです。

アーティストのなかにはそこに真剣になるあまりに、言葉や論理が難しくなりすぎる人もいます。その結果、意味のない作品に無理やり意味(のありそうな言葉)をつけてみたり、新しくないものを新しいと主張してみたりと、見る者聞く者に時間の浪費を強いて、より一層人々からアートを乖離させてしまう原因を作っているという側面もあります。なんとなくその辺が「作家説明」のベンチマークになってしまっているような気がします。

アートコンテクストにおける理論武装は確かに重要なことですが、それが独り歩きしてしまっているのでは、元も子もありません。

ビジョナリーによるビジョンとは、ビジョナリーの人生と多様な価値観が盛り込まれながらも常に隠されているものであり、なかなかすぐには判別判断できないものです。

それはやがてそれが社会の常識となってから客観的に分析されます。

それ以前に、アートとは、まずは見られて、触れられて、心や肌感覚で何かを感じてもらうことで完成します。

その何かを感じてもらうためには、アーティストの経験と深い考察が作品ににじみ出ていることがどうしても必要なのです。それは視覚から伝わる気です。それは一朝一夕では決して得られるものではないのです。

アーティストの説明責任とは、その気を伝える手助けに過ぎません。経験、視野と、その結果現れた画面の関連性についてを話すことであって、自己作品に評論家のような評論をつけることではないのです。

アートが必要以上に理論化してしまうのは、アーティストの責任ではありません。むしろ絵の描けない「専門家」が、なんでもかんでもアートを「言葉」に置き換えようとして、アートの無言語の世界に首を突っ込んできたおかげです。それと同じ共通言語をアーティストに強いているだけに過ぎません。

それに迎合して、美術史的視点から自作を無理やり説明しようとすることはやめたほうが良いでしょう。なぜなら歴史は歴史にとって不必要なものを淘汰するからです。歴史のジャッジは歴史が行います。


2022年4月15日金曜日

対象を観察する目

トは2022年コラボ展(アートストンギャラリー 銀座)の共同制作で観音菩薩的女性像を担当しました。@oimy30さんと@water_to_birthdayさんの描画を眺めているうちに、観音菩薩が画面に現れました。

一切モデルも資料もなく1時間ほどで描き上げたので多少雑ではありますが、それが逆に僕が最近感じる女神像からのインスピレーションがずっと強烈に続いているのだということを実感しています。
人物(や神仏)を描く方々の間には「人物を描くなら、顔と手は必ず描くべし」という鉄則があります。
僕もそれに賛同します。下手くそですが逃げません。
いくら「上手く」ても顔と手から逃げていては、それは人間を描いていることにはならないんです。
下手でもいいから描かなくてはならないどころか、下手だからこそ描かなくてはならないと思ってます。

いや、上手い下手など絵の魂の中ではどうでも良いことです。
その絵が人間や仏?神?を表現する限り、特にお顔は何を置いても重要です。

で、さらに強めに、それ以上に僕が重要だと思っていることは、……このことは僕の三人の師匠が異口同音に僕に伝えてくれた教えでもあり、かつ自分自身の体験でその裏付けを見た教訓でもあるので、この際書きますが……
もっとも大切なことは「写真を見なくても」「スケッチを繰り返さなくても」その対象を描けるようになることです。
「手癖」とは違います。
手癖とは訓練の賜物です。
しかし対象を観察し続けて見たものは、「真実」です。
たとえぎこちなくても、デッサンが狂っていても、本当に深く観察し得たものは、真実、内面が確実に絵に出ます。
アートが共感である以上、この観察眼こそがアーティストの命そのものと言っていいとさえ思います。
アーティストは、シャーマン(神託を伝える者)なのです。

写真は資料としては秀逸です。
僕も時として使います。
しかしそれに頼るあまり、二つの目で穴の開くほど観察し時の流れや内面にまで迫ることを忘れて、ただ資料のためのシャッターを切るのはかなり危険なことで、特に自然の光の移り変わりをこの目で見ていた後に、写真を見直してその「違う光、色」に引きずられて、当初の色のインスピレーションを見失うことも少なくありません。
まして対象に迫ることなく、ネットや他人の資料を拝借し、レンズのままの遠近法丸出しで何かを描くことなどあってはならないことと僕はいつも肝に銘じています。
プロならもちろんそんなのは見抜きますけれど、一所懸命に働いて、そのお金で絵を選んでくれるお客さん(サポーター)なら、もっと瞬時に直感的に見抜きます。
アートはその方の人生のパートナーなのだから。
それなので、僕は取材旅行に出かけても写真を撮らないことが殆どだったりします。
その目に焼き付けて、それが僕の中で変化して熟成していくのを待ちます。
モデルさんのことも殆どスケッチしたことがありません。スケッチはなるべく心がけてはいるのですが、デッサンやクロッキーは小学生までに散々やらされて飽きてるのと、それと似せて描くということにどうしても神経が入ってしまい、やっぱり、ただ見ていた方が、後からサラサラ描けたりします。。。

2019年11月15日金曜日

この絵の行き先はずっと決まっていた


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5日目が終了しました。残すところあと2日。 今日は大学時代サークルの後輩が、忙しい出張の合間を縫ってわざわざ寄り道して寄ってくれました。 そして、ネットで初めて発表した時から好きだと言ってくれていたこの作品を、遂に手に入れてくれました。 ずっとそんな気はしていました。 「やっぱり彼の元に行く運命だったんだなあ」 これ、今回展示はしてませんでした。 本当に偶然に持ってきて奥にしまっていたんです。 「絵が主を待ってる」 この事を体験するたびに、自分にももしかしたら少しぐらいは絵描きとしての天命がちゃんと用意されているのかも知れない、そう思うことが増えてきました。 ありがとうございます。 サトチヒロアンコール展 「魂のエネルギー、ふたたび」 東京都中央区銀座5-9-14 銀座ギャラリーあづま 11月17日まで 11:00〜18:30(最終日は16時終了)
Chihiro Sato(@cicerosato)がシェアした投稿 -

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