2011年8月31日水曜日

自画像2011


自画像2011/SelfPortrait 2011
F12/2011/Oil painted on canvas・佐藤千洋(ChihiroSatow)


全ての表現は
写実に立脚していなければならないことは確かだが
写実すればエラいという訳ではない。
写実的表現に終始しようとして行われた写実表現は
決して、何一つ、真実を捉えてはいない。
何一つ描かれてはいない。
それが写実的であることを誇れば誇るほど
それは嘘をついている。

だから私は、真実を描かなければならない。

真実とは、写実に立脚しながら
それを乗り越えて、それを否定して
全く新しい境地に到達して
初めて見えて来るもの。

私の目は真実を見る。




2011年8月26日金曜日

Portrait at the villa


Portrait at the villa (201107)

佐藤千洋(ChihiroSatow)

F30/2011/Oil painted on canvas

あなたと私の喜びは、決して定義も定量化もできないものです。
形式的な自慢やとりすました振る舞いで自分達の存在意義を
確認しあって安心することしかできないお上品な連中から遠ざかり
あなたと私は、本当の喜びを味わうのです。



※ご希望の方にはお譲り致します。

2011年8月4日木曜日

困難に立ち向かうか逃げるか。流れに身を任せること。

困難から逃げるな、避けるなと言います。
そのこと自体は、状況を打破するためには確かに重要な要素のように、一見聞こえます。

でもその前に。

困難には2種類あります。
ひとつは積極的に立ち向かう価値のある困難。
もうひとつは、今すぐ立ち向かってもあまり意味のない困難。

その困難が、立ち向かう価値があるのなら、あなたは状況を打破して前に進む事ができるでしょう。あなたを取り巻く環境や心の問題を一気に解決してしまうかもしれません。あなたの人生は挑戦と勝利に満ちる事でしょう。

もしそれが立ち向かう価値のない困難だったらどうでしょう。それに真正面から立ち向かうことは、あなたを疲弊させるばかりです。心配と労苦、不安で満たされるでしょう。自分のエネルギーを取られたと感じ、時間と労力の無駄を感じるかもしれません。立ち向かうべき困難が現れた時に、それに立ち向かい勝利を納めるほどの力も削ぎ落とされて、本当に辛くなってしまうかもしれません。

立ち向かうべき困難と、そうでないもの。その区別を流れの中で判断すること。
これが成立して初めて、私たちは困難とつき合うことができるのです。

では、困難をそのように区別するにはどうしたら良いのでしょうか。
立ち向かう価値のある困難は、必ずあなたの目標や、本当にやりたいこと、本音と関わりがあります。

例えば、あなたはある目的地に行かなければなりません。
そこにはあなたの愛する人、大切な人が、あなたの到着を今か今かと待っています。

しかしそこに行くためには、必ずある場所を通らなければなりません。
そこでは、もしもチャンスさえあればあなたから金品を奪ったり、嫌がらせをしようとする追いはぎが、あなたの通るのを今か今かと待っています。

この時、あなたは愛する人の元に向かうことを一瞬はためらうでしょう。
しかし、次の瞬間には、いろんな考えが頭を過ります。
「そこを通らずに目的地に行くにはどうしたらいいか」「追いはぎに遭遇しないようにするには」「防衛できないか」「戦うか」など。そしてあなたが会いたいと思う気持ちが強ければ強いほど、「あまり心配してもしょうがないか」という気持ちが芽生えて来る。「その時はその時だ」。
そして、意外と困難を軽く克服してしまい、あなたは大切な人に会える。


逆に、目的地にいるのが、あなたが借りたお金を返しに来るのを、今か今か、遅いぞと思って待っている相手だったとしたら、あなたの気持ちはどうなるでしょうか。
「追いはぎに会わないように」を考える気持ちよりも、その困難の大きさと、あなたの果たさなければならない責任との狭間で、緊張し、アイデアも出ず、あるいは気がヘンになってきてしまうかもしれません。
だいたい、困難を克服してもあなたが得られるのは、あなたの信用が保たれたという現状維持ぐらいなものです。せいぜいホッとするぐらい。

乗り越えようとする力が湧く困難には、必ず自分自身が「これのためならこれぐらい!」「よしやってやろうじゃないか!」と思える熱情の裏付けがあります。つまり、困難に飛び込むのにあまり抵抗がない、心の奥底ではあまり心配していないという心の状態が付いて回るのです。


このことは、その人の特性や「本当にやりたいこと」の本音が隠されています。


立ち向かってもあまり勝ち目のない困難や意味のない困難は、たいていの場合、自分があまり得意でない、好きでない分野の困難だったり、状況が理不尽であったり、社会的な何かに自分を無理に合わせる行為、あるいは正面を向き合うのが本当にキツいと感じるものだったりします。

責任、義務、信用。
とても大切なことであり、守るに値するものです。
しかし、それを人生の価値の中心に置いてはなりません。

その先にあるものを見る必要があります。
それが、目標であり、夢です。
夢、目標は、動機です。
それこそが困難を克服するエネルギーであり、社会に自分を合わせてゆくための理由でもあります。
ただ従うのではない、ただ立ち向かうのではない。
「○○のためなら多少のことは平気だ」という動機なのです。


これは千差万別です。人によって違うのです。
「あの人が克服できた」からといって自分も克服できるかどうかは別です。



では
立ち向かいたくないが、向き合わなければならない困難が、現実問題として目の前にあったらどうしますか?
積極的に立ち向かう事をやめて、一旦、自分をアイドリング状態にします。俯瞰できるまで。
それは、もしかしたら台風のように身を屈めていれば過ぎ去るものかもしれない。
火災のように逃げれば助かるかもしれない。
誰かが代わりにやってくれるかもしれない。
時間とともにその問題が変質し、克服するのが容易になっているかもしれない。
自分にそれを克服する能力やヒントが見つかるかもしれない。

一時的に責任や信用の問題になるかもという心配や、思考停止を心配するかもしれません。
しかし、本当にあなたがしたいこと、夢、目標がちゃんとあるのなら、それは思考停止でもなければ、責任の放棄にも何にもなりません。必ず然るべき解決がなされ、あなたの名誉は守られます。

あなたの人生に大切なものだけが残り、不要なものは去ってゆくでしょう。
あなたが理不尽だな、しんどいなと思う事ほど、流れに身を任せてしまい、力を抜いてみて下さい。

もちろん、2〜3日で答えは出ません。
もっと気長に。
今は今できることだけ、やりたいことだけやる。

そうしているうちに、いつのまにか解決していることもあるし
以前よりも、なんか自分で解決できそうな気がしてくる場合もある。
そして解決。

夢、流れ。
これらがあなたを守ってくれたのです。




さてところで、これを読んでいる人の中には「自分なら夢や目標など明確になくても、困難などない、あってもすぐに解決できる」と思ってしまう人もいるかもしれません。
そういう人は、生物学的若さを保持していると言えるでしょう。
私流に言えば、まだ天命を受けてないとも言えます。このことは後で説明します。


魚類の多くは、一生の大半を「流れに逆らって」過ごします。水の流れがあると、本能的に(というより生物学的に言うところの走性によって)流れに逆らって泳ごうとします。そして、寿命を迎える寸前になって、その本能が失われます。生のエネルギーが枯渇し、流れに身を任せるようになるのです。そうして魚は一生を終えます。


人間も、動物として生きた場合には似た様な習性があります。
若さの溢れる時期には、常に流れに逆らって生きるエネルギーを持っています。
それが、理由なき困難に立ち向かうことのできる力、能力です。


しかし、それはある日突然失われます。
魚と違う人間の悲劇は、その能力が失われた後も、寿命は尽きずに、さらに数十年も生きながらえてしまうというところにあります。


昨日までの自分は、故なき困難にいくらでも立ち向かうことができた。徹夜でもして、乗り越えて来た。なのに突然できなくなってしまった。何故だ?となる。これが老いなのか?


もしも、魚と同じように、他の動物と同じように、流れに逆らえなくなった時点で、自分の人生はおしまいだ、意味がなくなったと考えるのなら、その人は人間とは言えません。


人間は、流れに身を任せられるようになってからも存分に生きる事ができます。流れに身を任せても、逆らっても自由自在の本当の人生が始まるのです。
日頃私のセッションを受けていらっしゃる方は、もうお分かりでしょう。


人生の第二ステージです。


それは、老いではありません。終了でもありません。
本来の天命を見つけて、その天命に従って生き、世の中を変えて行くという仕事を要求されているのです。
それは確かに、生物学的な老いと共にやってくることが多いようです。
一般的には、「厄年」と呼ばれるものととても連関する例が多いようです。


しかし中には10代でその天命を知って生きる人もいます。
人ぞれぞれです。


未だに故なき困難と立ち向かって疲弊しているという自覚があるなら、天命についてじっくりと考えてみて下さい。
それを見つけるヒントは、状況的制約を全て無視して本当に自分がしたいこと、そして流れに身を任せてみること。


私はいつも同じ事を言っています。
夢想でもいい、妄想でもいい。


その中に必ず、素晴らしい天命が隠されている。
あなたを輝く未来に向かわせる唯一の力です












2011年8月2日火曜日

目に見えない風景

普段、私たちが何かを見ている時、例えば目の前に建っている建物の向こう側にある、もう一つのビルや空や森の風景は、目の前の建物の陰に隠れて目には見えていません。


だから私たちは物の向こう側にあるものを「見えないもの「ないもの」として捉えます。


けれども、実際にはそれはあり、私たちの目との間にある対象物にいろんな影響を与え、またそこを通じて私たちの目や脳、精神にも大きな影響を与えているということは、あまり知られていません。


物の向こう側にある、目に見えていない風景は、時間軸で言えば残像、空間で言えば対象物を飛び越えて、または透過して私たちの目にしっかりと飛び込んできているのです。


全ての空間はそのようにできています。その建物の裏にある風景は目に届きます。これは空間を歪ませたり飛び越えて、または原子と原子の合間を縫って透過してきます。


時間軸で言えば、その建物ができる以前に建っていた古い建物が見えます。そこに住んでいた人の姿も見えます。全ての目に映る風景には、地球がただの空間だった頃からの色と氣と風景がしっかりと映り込んでいるのです。


しかしこれらは、私たちの視覚にはほとんど影響は与えません。意識することもできません。
そして同時に、潜在意識や氣の部分にはしっかりと届き、非常に大きな影響を与えています。


目に見えない風景はとても大切なのです。目に見えないからと言ってなかったことにすることはできないのです。


私が絵を制作する時は、常にこのことに注意して制作しています。私の絵の層には、幾重にも重なった様々な氣と描写が隠されています。


私たちの成り立ちも同じです。
私たちがお互いに見えるものは、皮膚と表情です。


けれどもそこを透過するものは、内臓であり、血管であり、骨です。さらに、その向こうには背後の風景が、見ている人には伝わります。
美しい場所に立っているなら、美しい背後の風景も伝わります。


それと同時に、私たち自身が考えていること、意識していることも伝わります。
さらに育った環境や両親の存在、生まれた場所も伝わります。
先祖の姿も伝わります。歴史が映り込んでいます。




私たちが見ていて「見える」と思っているものは、ごく限られた一部分だけで、本当は見えているものの後ろには、膨大な情報が隠されているのです。


そして、それらの背景そのものが、「今の自分」「今のその物」の真実を作り上げているということを、私たちはもっと認識しなければなりません。


どんなに見栄えが良くても、背景や歴史、本質が何もないものは、結局のところ薄っぺらいもの、嘘で終わってしまいます。


外見を飾り立てたければ、形を気にするのではなく、まずは中身、あるいは背景、歴史に気を配る必要がある。


これは私が様々なデザイン、絵画、人に触れて、年を追う毎にますます確信を持つに至っている事実です。


歴史と言いましたが、過去の事について「嘘も百篇言えば本当になる」というような事を言う人もあるようですが、これは結局のところ全く通用しません。
これによる結果は非常に恐ろしく、そして哀れなことです。
過去の嘘とわかっている事を真実のように何度も繰り返しても、時間軸における景色は全くかわりません。
それどころか、時間軸の風景に歪みを起こそうとする行為は、未来に作用します。
アファメーションの原理です。


例えば実際にはあったかどうか分からない「被害を受けた」という一断面を歴史や事実として強く認識し、それを繰り返すと、それは近い将来に本当にそうなります。


その人を存在させるための背景とは、そこまで作用します。


だから、美しい言葉を話し、美しい人と会い、美しい場所に住み、美しいものを食べ、美しい景色を見、美しい未来を信じる事が、とても大切なのです。しかもそれらは、「見てくれの美しさ」ではありません。中身の詰まった、豊かな美しさです。その美しいものの向こう側にも、美しい風景が広がっているものを見てください。中身のない空っぽの綺麗さはあなたをも空っぽにしてしまいます。


背景が美しいものに触れてください。
目に見えないものが美しいものに触れてください。


それが本当に美しいもの、あなたを美しくし、満たすものだからです。













2011年8月1日月曜日

MEMENTO MORI とCARPE DIEM

私たちの思考や言動の殆どは、外界からの刺激に対する反応に過ぎません。
その時に起きる身体や外界に返す信号(波動)が「氣」です。

氣は一度生まれ外界に放出されると、新しい刺激によって変質しない限り
そのまま他の人や自然界に新しい影響を与えます。これがカルマと呼ばれるものの一形態です。

このカルマが、自分自身を幸せにもし、不幸にもすると同時に
見知らぬ誰かを幸福にしたり、不幸にしたりする力をも持っています。

例えば、一人ひとりの氣が良い国は栄え
あまりよろしくない刺激を呼び起こす氣が充満している国は衰えてゆきます。
富の氣を充満させた国は発展し、貧の氣を充満させた国は衰退します。
喜びの氣を充満させた国は居心地がよく、怒の氣を充満させた国は荒れます。

しかしその氣の最初の出所は、自然現象であったり、気候であったり、地の氣であったりします。それは引いて言えば、宇宙の、天体の動きが元になっていたりするかもしれません。

最終的にその刺激を受けて、もっとも大きな氣を発し、人間が生きる「場」に充満させるのが、人間の魂、精神です。

どんな人も、この氣の刺激から逃れることはできません。


例えば、これはちょっと政治的な話ですが、日本を嫌いな国があったとします。彼らの国の言い分は「日本が過去に自分達に悪いことをしたから」というものです。しかしその大半は事実ではなく、むしろ実際に彼らが受けているのは、自国に住む自分の仲間達の「怒」の感情であり、「貧」の感情です。それはもはや憤怒に近いものですが、それが自分達に向かわないように、外部に排出しよう排出しようとする、言ってみれば自浄作用の一種の様な事になっているわけです。
しかしこの感情、氣の渦巻きとて、元々は彼らの人間性云々のせいではないのです。
この氣を呼び起こす氣の大元が、どこからやってくるかというと、自然、地の氣、天体からなのです。

民意、民度はこうして醸成され、戦争とは、こうして起きます。

日本は、風土的に元々持っている自然の氣は決して悪くはありませんが、地理的にはその憤怒を受けやすい条件にあります。ですから刺激も激化しやすく、氣の渦巻きも、一度起きると大変な事になりがちです。

救いなのは、台風や偏西風が、東の洋上に常に抜けて行ってくれるという点です。台風が少ない年は、逆に氣の滞りに気を付けなければならないかもしれません。

そうしてもう少し自省的に言うならば、もしも私たちが、日本を救い、世界を救いたいのなら、まずは自分自身の反応、言葉、氣を発するこの装置そのものの扱いに十分に注意しなければらない、ということです。


良い氣、望ましい氣は、その瞬間瞬間の人の充実感、歓喜への渇望から生まれます。
それは人の氣の中でもっとも強く激しいもので、周囲に対して、日常与える氣の力の何十倍ものエネルギーを持っています。

日本が世界に誇る文化や志向とは、このような「氣の変質」によって生まれました。
良いものはすぐに日本の氣となり、そうでないものもどうにか変質化してよきものにかえようとする努力。

怒を怒で返してはなりません。
それでは彼らに同化してしまうでしょう。
そうして先の大戦は起きたのです。

怒は私たちと無関係の氣の流れから生まれたエネルギーです。
それがカルマとして渦巻くのを放っておくのではなく、歓喜によって自分達のエネルギーにし
私たちはさらに発展、繁栄することができます。


外界から刺激を受けた時に、それが例えばもしもよろしくない氣だったとして、それに対してダイレクトに「怒」や「悲」を感じる氣だとします。
もしもここで、ダイレクトに外界にその反応を返すことはごく自然なことですが、しかし大きなカルマとなって充満し始めます。

もしもそれをテクニックや努力によって充実感や歓喜に変えるためのエネルギーにできるとすれば、外界の良くない氣は浄化され、変質され、何十倍もの強いプラスのエネルギーとなって私たち自身や外界に帰ってゆきます。


それは一体どのようにして可能になるのでしょうか。
それは、私たち一人一人が、「瞬間」に意識を集中して、今を生きる事に他なりません。

私たちは未来を向いて生きています。そして過ぎ去った過去を記憶しています。この事自体はとても素晴らしい事です。

しかしそのせいで、「今」という瞬間をまるで未来や過去の従属物のように扱う傾向があります。
それ故、目の前の事をおろそかにしたり。意味なく立ちはだかるものに顔をしかめてしまう傾向があります。

しかし未来を司るために、、、というよりも、将来、自分に望ましい氣が到来し、カルマの浄化が行われ、未来を幸福に、歓喜によって生きるためには、「今この瞬間」、私たちは自分を燃やし尽くし、毎日死ななければならないのです。
こうすることによってのみ、人間は生きるという行為を自分から発信してゆけるのです。

これはパラドックスのように見えます。
一回のブログでは到底説明できませんので、今は象徴的な2つの言葉でそれを代弁しようと思います。



ローマの諺、名言の中に、とてもとても有名で、私も大好きな言葉、座右の銘と言っても良い言葉が2つあります。

ひとつは、メメントモリ(MEMENTO MORI)と、いう言葉
「死を覚えておけ」つまり、人はいつか死ぬのだから、今を精一杯に生きようという意味です。
帝政ローマのことわざであるだけに、日本では何故か刹那的に生きろと誤解して解釈されがちですが、全然違います。

その瞬間瞬間を、全身全霊を込めて、有意義に生きる大切さを言ったものです。
日本人は特に、安寧を求めるが故に「今苦労しなければならないのだ」と思いがちの人が多いのです。
しかし、もっと大切なことは、「今、この瞬間を歓喜と全霊によって生きること」だけが、幸福な未来を作るという真理です。

もう一つの言葉で言えば、カルペディエム(CARPE DIEM)。
意味は「その日を摘め」

つまり「未来や過去に何かを託すのではなく、その日を生きなさい」という意味の、ローマ時代の詩の一説です。聖書にも出てきます。
「今を生きる」という邦題のついた、ロビンウィリアムス主演の映画にもなりました。

この2つの言葉は、「今」というものの大切さを強く訴えています。
重ねて言いますが、今を生きるということは、一時的快楽や安寧を求めよという意味ではありません。

それらも大切です。しかし本筋ではありません。針が振り切れたものの見かたです。

今が良ければ未来も過去も考えなくて良いという事でもありません。
今が良ければ未来もよく、過去もよく、今が辛ければ未来も過去も辛いのです。

であれば、今をしっかりと「良くする」ことをすればいいのです。
刹那を生きる、今を生きるということは、今の自分が、いつ死んでもいいように、目一杯の可能性と目一杯の歓喜を持って、味わい尽くし、生き抜く、という意味なのです。

何かをしている時に、明日の心配をしてはなりません。
明日の心配のために、今していることを無意味と思ってはなりません。

あなたが無意味と思えば、この瞬間はあっという間に無意味になってしまうでしょう。

それでも神様は、そうならないようにどうにかあなたを押し留めて、今日のどんな行動さえも、明日の何かの結論に結びつけてくれようとはしますが。


もししたいことがあるなら、「今」してください。そして、歓喜を味わう覚悟をしてください。
あなたが実際に味わうべきなのは、未来のための苦悩ではなく、常に今この瞬間の歓喜なのです。

疲れて眠ることさえも、否定せずにとことんやってください。
眠ることは死であり、再生です。
目が覚めたら生まれ変わります。


そうして「今」の氣を浄化し、歓喜に変えることこそが、全体の氣の流れを変えることにつながります。
そうして怒に対して怒で返す何十倍、何百倍もの圧倒的な影響力で、怒の正体を屈服させることができるのです。

創り続けよ手を動かし続けよ

藝術に宿る氣の根源は
生みの苦しみ
試行錯誤
苦難
焦点の合わされた集中力
パラノイア
シリアスな何か

それら全てが集合し、陽転し、結実し、結晶化する
大気や見るものを浄化するエネルギーとなる。

それは宇宙へと繋がる。

宇宙は、藝術家の想像力によってできている。

地球のサイクルとともに
生まれたり、残ったり、消えたり、また再生されたり。

月とて太陽とて永遠ではない。

けれども藝術は、宇宙を創り出す、最初のエネルギー。
消えてもいい。
また作ればいい。
そうして永遠を創り出す。

自由と尊厳に満ちた全ての自発的創造。

自由であることを恐れず
基準や定量化と戦え

作り続け、描き続け、手を動かし続けよ
出来不出来や進歩なんかに囚われず

藝術家の仕事は、想像と創造
その行為自体が、創造主だ。

創り続けよ、手を動かし続けよ。