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2023年9月18日月曜日

水晶の絵に至った第3の道

 


「どうして水晶を貼ろうと思ったのですか?」この答えに、普段僕は2つの理由を挙げています。

今日は、その2つではなく、普段はあまり人に言わない3つ目の理由をお話しします。

僕は元々静物画出身ですが、好きなのは風景画でした。ただ、ある時から、カタチを取るのをやめ、見たままを描くのもやめて、見たものが自分の中で熟成されカタチを失った色の世界観を描こうと決めてから、特に旅行取材の時には、絵のための写真を撮らない、スケッチもしないという二つの原則を守るようにしています。

写真は形状や状況は正確に写し取ることが出来ますが、匂いや自分の肌感覚とはちょっと違い、そこに引きずられがちになるため。スケッチは上手く描けてしまうと、モチベーションがきれいさっぱり消えてしまい、油彩に仕上げようとすると全く勝手が違うという個人的な理由です。忘れたら忘れたでいい、形状やディテールにこだわるのではなく、空気感を表現したいという思いです。

このことはいわゆる絵画的表現の面白さとは別の概念を持たないと作品が成立しないという副作用を伴うため、初めはとても苦労しました。

ものの見た通りの形を脱する…とは印象派からキュビズム、抽象まで一貫した命題ですが、それでも巨匠達は何らかの形状に拘り、最終的には形而上的な思惟によってそれを解決しようとしました。

僕の今の水晶の絵に見られる作風は、その形而上的な捉われから脱するにはどうしたらいいんだろう?と考えた結果です。

明確な形はなくても、空間認識、肌感覚、個人的経験を直感的に呼び覚ますことができるための解題です。

水晶はそこに一役買っています。形状が曖昧になり、色が感覚的にブーストし、空気感、肌感覚を伝えてくれます。これは実際に水晶の絵に対面した方ならお分かりいただけると思います。

ただしそれは水晶以前、色による綿密な描画法あってのものです。単に「キラキラキレイだから水晶を貼れば良い」というのでは、水晶の絵はうまくいかないのです。水晶を貼らなくても成立かつ水晶を貼った時にどうなるかを予見した描画が必要です。

表題の写真はその一例で、水晶を貼らなくても成立しかつ水晶によってそれが完全化するように描いています。

この描画のために、常に自分の感覚を研ぎ澄ませるだけでなく感性の原点に立ち戻る必要もあります。

アートをやってると、往々にして美意識を拗らせたりします。音楽でもそうなのですが、知りすぎるとちょっとやそっとの「美」とか、音楽ならありきたりのコード進行に飽き足らなくなり、知的ゲームの中に埋没しちゃうのです。これは僕の絵にとっては少し邪魔になります。なるべくシンプルなコードで聴かせる必要があるのです。

美意識こじらせになりそうな時は、取材に出かけても自省のために必ず、幼少期から思春期の頃に見た風景、空気を思い出すようにしています。

素朴で知識の何もかもが不足していた時期に得た風の冷たさや陽だまりの暖かさ、空気の味、空の色……。それらは今でも、どんな人にも当たり前に身の回りに存在します。でもその中での人との出会いや、一人ぼっちで物思いに耽っていた肌感覚は、一人一人違います。その一人一人違う肌感覚や記憶を呼び覚ますものを一つの画面で表現したいと思っているのです。

僕の幼少の頃好きだった風景の肌感覚の一つをご紹介します。言語化するとこんな感じ…というものです。

☆☆☆☆☆

鬱蒼とした竹と椿の深緑の、細い市道を抜けると、赤土が剥き出しになった高さ6〜7mほどの崖が見える。その崖の脇の藪に丸い石を積み上げただけの粗末な石段を二十段も登りきると、視界いっぱいの青空と一面の野原に囲まれる。

向こうには有刺鉄線で囲まれ、白と赤で塗り分けられたラジオの中継アンテナが高く聳え立っているのがみえる。そこまで行けば、港町も望むことが出来る。

崖の上には一本の黒松の木がぽつんと立っており、そこからは赤い畑や白い家々や向こうの薄群青に光る山々まで見渡せる。

丘の北側にはなだらかな斜面が広がっている。やっぱりそこも一面草に覆われて、駆け降りて転んでも痛くないから、子供達のお気に入りの遊び場になっていた。

時折風が北の向こうの田んぼから登って来ると、丘の草原が下の方から一斉にざあっと騒ぎ立てて、その時だけ賑やかな秋の虫達の声をすっかりかき消してしまうのだった。

☆☆☆☆☆


瞑想と呼吸

【瞑想と呼吸】

先日、お世話になっているとあるサロンのオーナーとお話をしている時に、瞑想の話になりました。


いろんな質問に答えているうちに、自然に

「瞑想はするのではなくて、『なる』んです」と答えていました。


考えてみると、ここ10年ほどは意識的に「瞑想するぞ」と思ったことが一度もないことに気がつきました。


それでも日常的に瞑想感が強いのは、普段からぼーっとしてるか、いよいよ瞑想名人の域に達したのかな?とか、帰り道いろんなことを考えていました。


そしてはたと

「あ、絵を描いてる時か」と思い至りました。


最近自分でも絵が変わってきたなというか、シンプルな構図と複雑な色の組み合わせが多くなってきたのはそのせいなのかもしれないと。


それから数日後、とある伝統芸能の達人の動画に出演させてもらった折、彼が「ルーブルでモナリザを見た時は胸式呼吸、雪舟を見た時は丹田呼吸になった」とおっしゃっていました。

「サトさんが絵を描いている時はどこで呼吸してますか?」と振られて、思わず


「僕は絵を描いている時、気がつくと無呼吸になってます」と、なんともとりつく島のないような答えになってしまいました。


で、それも後から「あ!」と気付きまして。


僕の場合、取り掛かるまでが長くて、描きモードに入るまで4時間も5時間も、下手すると三〜四日「何もしてない」状態が続くことがしばしばなのです。

始まれば速いんですが、始まるまでがとにかく長い。


もしかするとこの「何もしない時間」というのは、知らないうちに呼吸を整えている時間、瞑想なのかなと。


それが瞑想といえば瞑想なのか、いや、それともただの無駄な時間なのかは分かりません。


とにかく、そういえば呼吸が整うというか、自分の波動がすっかり静かになったところで、あとは息を止めてわーっと描くわけです。


個展近くなって、また昼夜逆転してきました。


2023年9月10日日曜日

共にまだ見ぬ地平へ

【共にまだ見ぬ地平へ】

僕が画業に専念すると決めた日以来、様々な人が応援してくれました。

そして実に驚くべき事に、それは今日まで一日も欠かす事なく続いています。


作品を購入してくれるのはもちろん、個展開催のために骨を折ってくれたり、人の縁を繋いでくれたり、展示に欠かさず足を運んでくれたり、励ましてくれたり、寄り添ってくれたり、所有のサト作品をSNSで取り上げてくれたり、中には残念ながらお目にかかることも叶わなくなってしまった方もいますが、現在進行形でいまでも数えきれない方から様々な形でかけがえのない恩を頂いています。


今の僕があるのは、この方々の応援のおかげ以外の何物でもありません。

その幸運に恵まれたことを心から感謝せずにはいられません。


この御恩は、自分がしっかりとアートの地平の先を踏みしめ、サトチヒロのアートを応援していて本当に良かったと思ってもらえることでお返ししようと、日々決心と覚悟を新たにするのです。


その地平の先とはなんでしょうか。

それは

「世界のアートの中心地日本という国で、みんなと共にアートの新世界を踏みしめる」

ということです。


日本はアートの国になります。

(ポテンシャルとしては既になっている)

そして東京をはじめとする日本の各都市は、世界のアートの中心を担う事になるでしょう。


そして、作る人も見る人も、全てのアートを愛する人々が、アートによって立つ、豊かになるという社会が到来します。

それが僕の見ている「アートの地平、新世界」です。


今、僕はとても貴重な体験をしています。

これまでのような、アートが単に発表の場が与えられるとか、アーティストとオーディエンス、限られたマーケットだけの関係に留まらない、観る側、所有する側が主体となる一つのアート運動、イズムが起きつつある、アートが媒介するトランスフォーム体験です。


「なんのこと?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。この事についてはまた機会を改めて詳しく書きたいと思います。


ともかくこの体験は、これまでの日本にはなかった、いやおそらく世界にも類を見ない、全く新しいアート文化の誕生を予期させる動きです。


この潮流は、やがて日本中に広がるだろうと思っています。いや、シンクロして各地で同時進行で始まっているかもしれません。


そしていずれ世界の美術史にページが割かれる日が来るでしょう。

日本は、パリやニューヨークに負けない世界のアートの都になる素質を十分に持っているのです。


この体験をリアルタイムでより多くの人と分かち合いたいのです。


ただし、ただ絵を描いているとか発表して見てもらうというだけでは、このムーブメントは大きくはなりません。一人一人の自然で無理のないトランスフォームが欠かせません。


僕もその一助になろうと、銀座アートストンギャラリーのオーナー先崎氏をはじめとし、アンバサダーになっていただいているお客様やアーティスト、キュレーター、またアートに直接関わらない異分野の方々、経済界や文化人の方々と、日々様々な意見交換をし、いくつかの企画も立ち上げています。


一例として、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、今年1月から、有料ですがアーティストのためのワークショップを開催しています。


といっても描き方の教室ではありません。アーティストが創作活動を持続発展させていくためには、正しく自分のアートや考え方を知ってもらうこと、アートを応援してくれる人達とのコミュニケーション、アートの社会的役割、努力に応じて用意されたチャンスをしっかりと掴むことができる技術や考え方、意識、観察力が必要です。


まずはアーティスト自身それを身につけようと始まりました。動画の配信やイベントも行っています。どなたでもいつでも参加可能です。


それらは自分だけが身につけるだけでなく、分かち合い共有する事でさらに大きな力となります。

このワークショップの当面の目標は、これらを共有した方々が、さらに大きな流れを作って下さることにあります。


遠くないうちに、アートを作る側でない、オーディエンス、アートファン、これからアートに触れたい方のための企画もお知らせするつもりです。


まだまだ小さな流れに過ぎませんが、やがてこの「新しいアートムーブメント」が大河となって大海へ注ぐ姿が、僕にははっきりと見えています。


「共に新しいアートの新世界に立とう」


この考えに賛同して下さる方は、いつでもお気軽にコンタクト下さい。


これからもどうか変わらぬご支援、応援を何卒よろしくお願い申し上げます🙇‍♂️


2023年9月9日土曜日

創作とアンビバレンス

【優れた創作は、作家の人生のアンビバレンス(非整合性、葛藤)と無縁ではいられない】


…とはよく言ったものですが、説教臭い人生論はさておき、今日の夕飯は絶対に魚にしようと決めていたのに気がつけば火鍋屋にいたとか、ヒゲを剃るはずなのに顔を洗っていたとか、とにかく生きている限り、自分の言動に整合性がとれていることなど珍しいものです。


ベートーヴェンがゲーテの振る舞いに激怒して訣別した(※)なんてのは彼のアンビバレンスを説明するには全然生やさしい事件に過ぎませんが、彼は訴訟や難聴、借金など、あまりにゴタゴタした私生活と困難や絶望を繰り返しながら、その一方であまりに美しくそしてエネルギーに満ち溢れた旋律の数々を生み出し、それまで王侯貴族のためのものであった音楽を一般市民のための音楽にまで昇華させ、古典主義音楽を完成させました。


そんな楽聖ベートーヴェンの葛藤に比べれば凡俗中の凡俗に過ぎない僕のそれなどノミの地団駄に過ぎませんが、やはり制作していると、勝手に生まれる色彩やカタチは、自己の非整合性と戦ってる感がいろんなところで出るなあと、妙に感じ入るのです。


まあ、どんな葛藤があろうが最終的に美しいもの、自分でヨシとするもの、そして誰かを幸せにできるものに昇華されていくのであれば、何でもいいんです。


(※註釈)

当時はまだ王侯貴族からの召し抱えが無ければ安定収入が得難い時代。安定収入を渇望しながら、ゲーテの貴族たちにおもねる振る舞いに激怒してゲーテと訣別してしまうという、彼の反骨精神、反権威主義的姿勢を代表する武勇伝。


2023年8月25日金曜日

波動装置としての絵

小学校1年生の時に画塾に通い始め、師事していくうちに、絵を描く事は僕の幼い人生の一部になっていた。
それにもかかわらず、僕の僕自身の絵に対する肯定感は長い間低いままであった。

幼なじみや同級生は「チヒロは昔からとても絵が上手かった」と言ってくれるが、自分ではとてもそんな風には思えず、また図画工作や美術の教科書に載っている子供らしい絵だとか、中学生らしい絵とか、そういう全国レベルの子供たちの絵と自分の絵を比べてはいちいち落胆していた。

ただ、無心に描いた絵は自分でも好きだし、周囲からも賞賛される事は多かった。
時々「誰が描いたんだろう?」と自分でも訝しがるような出来の時もあった。
で、一旦それに気を良くして、もっとうまく描きたいと思って描き始めると、やっぱり気に入らない絵しか出来上がらない。

このことは長いこと自分の中での謎であり、このジレンマに小中高の間中悩み続け、そのうち絵を描くことが嫌になり、大学受験直前まですっかり中断していたこともある。

けれども、そのブランクやスランプのあとに絵筆を持ち描き始めると、自分でもびっくりするような素敵な絵が出来上がる。
決してうまい絵、自分の理想とする絵ではないのだけれども、なんとも味のある、じわじわ好きになるような絵だ。

誰でも、自分でこう描こうとか、誰かに褒めてもらおうとか、そういう気持ちが一切消えている無心の絵は、素晴らしいものが出来上がる経験を一度はしている。

もしそれだけなら「うまく描こう」をやめれば済むことである。

しかし僕はさらにその先に「自分が描いたとは思えないもの」が現れるのを頻繁に体験している。
自分が描いたとは思えないのに愛着が湧いてくる。絵が向こうから勝手にやってきて画面に勝手に描かれる。そしていつの間にかその時の自分に必要不可欠な絵になるのを感じる。
これが何なのか知りたかった。そしてそれを知ることができれば、もう絵を描くことで悩まなくて済むのだ。

そしてやがて得た一つの答えは「波動の描写」だった。

このことに僕は神秘的な何かで意味付けするつもりは一切ない。それは今も昔も同じである。ヒーリングやカウンセリング、パワーストーンを扱っているので「何か降りてきてるんですか」とか「描かされているんですね」と言うような質問を受けることもあって「そうですね」と適当に返事をすることもあるが、正確に言えばそのどちらでもない。

ただ、やっぱり僕の絵は向こうから勝手にやってくるのである。ただそのニュアンスを手短に伝えることはとても難しい。
「波動」それは一種の「ゾーン」と言えなくもないが、誤解してほしくないのは、瞑想とか坐禅とか、そういうもので短時間に得られるものともちょっと違うし、描いているうちに起きるゾーンエクスタシーとも違う。

幼少に絵を描き始めてから、今までもだが僕にとって絵を描くと言う作業はとっても億劫な出だしを伴うもので、真っ白のキャンバスを目の前にして制作作業に取り掛かるまで本当にバカみたいに時間がかかるものだ。

ところがある日突然、描きたいという気持ちが強くあるわけでもないのに、自分でも意識せず猛烈に描き始める瞬間が訪れる。やがて何時間も過集中状態が続き、画面にのめり込む。これは普通に言う「ゾーン」だ。でもその時点では何も起きない。
ここで意図を発揮してはいけない。
一段階目の無心ゾーンの時点であれこれ考えて手を加えても何も奇跡は起きない。

奇跡が起きるのは、仕掛かって一旦筆を置いてその数日後だ。

絵を見ていると突如画面にいろんなものが踊り出してくる。

その時、初めて自分がある種の波動と共振しているのを自覚する。
気持ちというより、精神の統一状態から解き放たれてなにかを手放した瞬間、絵との共振が起きている。

それから一手間だけ加える。加え過ぎてもいけない。
そうして、向こうの方から絵が勝手にやってきて画面に乗っかって作品は完成する。

「こうしてやろう」とか「こんなアイディアを試してやろう」と言うような思いは一切生じさせてはならない。経験上、そういう頭で考えた絵はろくなものにならない。これは他の人の絵にも通じる。考えた絵というのは、どこか魂胆が見えて絵が彷徨うことになる。

テーマを決めてうまく書こうとして訓練することもほとんどない。若き日のデッサンは必要不可欠だが、それにいつまでも頼った絵は、やはりつまらない。
成り行きで画面は構成され一発描きで必要なものは全て画面に登場してくれる。このパターンに気がつき始めてから、ずいぶんと絵の質のばらつきが減った様に思う。

自分のために描いているわけではないけれども、誰かのために描いてるわけでもない。ただその後、描いたその作品が、ある日、ある人のもとに迎えられて、その人の人生をガラッと変える。そのことは紛うことなく事実だ。

そういうことが近年は頻繁に起こるようになった。そういう時、僕はきっと時空を超えて、未来のその人と繋がってその人の人生を彩るために描いたのだなぁと思っている。その人に出会う前から、その人が輝かしい未来を味わうのに必要なものを描いている自覚がある。

このことは偶然でも神秘的な大きな力のせいでもなんでもない。天や神に描かされていると言うような真偽の定かでない表現も使いたくない。

自分の作品が誰かの胸を打った時、あるいは人手に渡る時、それを「たまたま」と思ったことも一度もない。全ては必然的に繋がる。

僕の絵が手元に届いた途端に人生の調子を取り戻しつつある、さる作品オーナーの姿を見て強く思うのは、そうなるのは絵のおかげなどとはもちろん言わないが、そこに至る本人の意思や覚悟、エネルギーが、僕の絵を呼び寄せて、良き燃料になった……ぐらいのことは確かである。それを起こすのはシンクロニシティであり、波動の共鳴、共振である。

僕の絵は、波動そのものを発する装置なのだ。

つまるところ、未来のその人が求めている「その波動」が自分にあれば、絵は勝手に向こうからやってくる…ということだ。

そのために常に自分の魂の波動をある部分にチューニングしておくことだけは心掛け、怠らないようにしている。そして、うまくチューニングができた瞬間、無心の制作作業が一気に始まり、完了する。



2023年6月24日土曜日

アーティストの本質

アーティストになりたがったり、憧れたり、「やっとアーティストと自称できるようになりました」とか目をキラキラさせて言っている自称アーティストが後を絶たないが、アーティストなんてそんなたいそうなもんじゃないし、そもそも憧れてなるようなもんじゃない。絵師やイラストレーターになり損なったヤツが仕方なく堕落してなるようなものだ。

自分を律して研鑽を積み、誰にも負けない努力と才能を勝ち得た者は、絵師として社会に認められ、社会の一員として真正面胸を張って生きるのだ。
それができずに、堕落し、社会の規範から逸脱し、批判と蔑みの中であえぎ、怠惰とその改悛の中にのたうちまわっているような人間こそがアーティストなのである。

「私は模範的にきっちりとやっております」というようなのはアーティストでもなんでもない。

だが、アーティスト諸君よ。悲観してはならない。堕落し、規範から逸脱し、社会からつまはじきにされ底辺であえいでいたからこそ見える美の世界と言うものがある。
その美の世界こそが、日々つましく努力をして家族や社会や国に貢献している人々の視点を変え、生きる活力と励みと癒やしを呼ぶのである。真面目に生きている大半の人々の哲学に大きな影響を与える力を持つのである。

常識にとらわれず、常識を破り、道徳から離れ、本来の人間をむき出して生き、そしてその結果苦しみ、泣き、叫び、笑い、倒れる。その中からこそ、本当の人間の真髄、本質、生き様、愛、執着、そして生命力と言うものが生まれるのである。

そしてそんな劇物のような人生から生まれたからこそ、作品たちは光を放ち、価値観や視点の変革を促し、人類全体が良い方向に進んでいく清らかな流れとなることができるのである。

堕落せよ、そして描け、作れ。描き作ったら広く世に知らしめよ。人々の手に宝物として手渡すのだ。価値を上げろ、人気を獲得せよ。それが影響力である。どんなに優れた作品であっても、広く世に知られなくてはこの世に存在しないのと同じなのだから。


2023年3月4日土曜日

アートとデザイン、後日談

 以前の記事(http://mixchihirosato.blogspot.com/2022/11/blog-post.html)で、アートがデザイン化しているというような話を書きました。

デザインは初めから市場がありきで用途がはっきりしており、役に立つものは重宝されるが役に立たないものは淘汰される、アートは市場関係なく存在するけれど、近頃はアートの市場化著しく、どうもデザイン化している…というようなお話でした。

後日談…というか補足です。

まあ、こういうことを言ってる時の、大方の訳知りによるアートとデザインの区分けというのは、今のマスマーケティング全盛の時代における既成概念、便宜上の区分けで使っているに過ぎません。

アートとデザインとの間には、本来は壁などありません。

歴史的に見れば、アートが複製技術の進歩により大量生産できるようになった結果が、デザインだというだけの話なんです。で、アメリカ式マーケティングがグローバルスタンダードになったところで、デザインが高度理論化した、それに追従することを拒んだ、あるいはついていけなかった売れないデザイナーが続々と純粋アーティスト参入した……とは言いすぎかもしれませんが、まあそんなもんです。

アーティストの中には小難しい理論をひりだしてなんとか明確に区分けしようとしたりする人も後を経ちませんが、大方おそらく彼等が共通して言いたいのは、「アートはデザインより偉いんだ!」ということぐらいだと思います。

しかしながらアートの社会性というのは、そんなに狭い場所で優劣や上下関係をつけられるものではないのはみなさんご存じの通りです。

今や世界的な偉大なアーティストである葛飾北斎が生きている間、「俺はアーティストであって絵師ではない!」などと叫んだという記録や状況はどこにもないのです。

信仰の対象であったはずの仏像が文化遺産としてだけでなく、アートとしても価値を認められ、フィギュアすら販売されている、もう、時代が進んでしまえば文化的成熟を担う、貴重な財産となりうる。

デザインも骨董も博物もアートも区別などないのです。

つまるところ、たった1.5世代で染まってしまった我々アメリカンマーケティング世代の価値観で見れば峻別できるアートとデザインなる分類は、長い長い人類の歴史の中では、全く無意味な分類というわけですです。

逆に、今の「現代アートのデザイン化」現象を純粋にアーティストの視点から眺めたとき、むしろアートへの需要(必要性)がより高まり、またパーソナル化(あるいは消費財化)している現象なのかな?と僕は、あの時とあの後、ぼんやりと考えたのです。

「アートにも市場論理は働いてるんだ」という、考えてみれば全く当たり前の事実に、ハタと気づいて愕然としたんです。



しかも長い年月で俯瞰してしまえば、アートとデザインの区分けなんて、もっと意味ないんです。


やっぱり人は自分の作るものが人類の役に立ってくれることが嬉しい。

複製すら自由自在ですし、複製を前提にしたアートもどんどん出てきています。

ただ、旧来のやり方で歩んできたアーティストにとってはなかなか厳しい状況かもしれません。アートに瞬間風速が必要になってきてますし、トレンドの移り変わりもずいぶんと加速し始めているように思います。

そんな中、遅まきながらグッズ販売等に手を染めてらっしゃるアーティストもいらっしゃるようですが、若い頃から市場論理に揉まれてきたわけでもない方は、ずいぶん苦労されているようです。

個人的には「タダで配っちゃえば?」って思うこともありますが

あれ?

「自分の作品は決してタダで配ってはいけない」

という一家言を持つ僕が何を言ってるんでしょうね。

外注した複製グッズはアートではない?

ま、アーティストのこだわりなんて、そんなもんです(笑)

僕の作品?

複製は難しいです。







2023年2月25日土曜日

アーティストという存在は

アーティストという存在は、アートとは無関係に見える経験、言い換えれば自らに課せられたすべての三次元現象と、それに対する魂の振動を視覚化し、天が定めた他の誰かのために、アーティストの手を動かしめるその行為と結果だと、僕は常々思っています。

無から何かが生まれることはなく、またアーティストの浅はかな恣意的意図も介在することなく、天の配剤による資質のみが、魂の振動をディバイド〜増幅し、見る人に、その人の魂の新しい地平を伝えるのです。

生かされていることにいつも謙虚でありたい。

2022年12月20日火曜日

マミヤのコントラスト

 亡き父のマミヤ……はしばらく前に母が売り払っていた。


取り戻そう……と思って中古カメラ屋やネットオークションをだいぶしばらく彷徨った。


けれど、そのカメラは1950年代のマミヤの技術の粋を集めたような複雑な機構が売りで、調べていくうちに、おそらく手に入れられたとしても、60年後の今、まともに動くものを取り戻すのは無理だと分かった。


そこで僕は、父のものよりさらに4〜5年ほども旧い、性能は変わらないがややシンプルなモデルを手に入れることにした。


初めて現像から帰ってきた写真を見た瞬間

「あ、子供の頃に見た、あの光だ。」

と思った。



マミヤの光は、陽だまりだ。

「忠実故に平凡」と誰かが言ってたけど、僕にとってのマミヤはそうじゃない。

幼い頃の家の、マサキの生垣に反射した陽射しが、淡い緑と陰の深い深いコントラストを作り出し、その温度差まで伝わってくる。


生垣の陽だまりで感じた肌の温もりを今でも覚えていられるのは、父のマミヤのおかげだ。


そしてこの緑のコントラストは、今の僕の作風にも強く影響している。


僕のアート人生の大半は、色とコントラストの追求の歴史といっても過言ではない。


「黒を使うな」という最初の師匠の鉄の掟は、30代後半まで僕を苦しめた。

黒を使えない絵は、コントラストが甘くなる。

結果として色相環を無意識レベルで扱えるようになるまで叩き込むことになる。


もちろん今は4種類以上もの黒を使い分けて多用しているが、そんなこともあって黒という色を使わずにコントラストを上げる方法を10代は身につけた。


アクリルや水彩では、黒は「黒」だが、油彩ではピーチブラックやチャコールブラック、マーズブラックなど何種類もの黒がある。


プラス、僕はインディゴやペインズグレイ(国産と海外製とではこの色の意味するものはだいぶ違う)、さらにはプルシアンブルーを、混色やグレージングを利用して「黒」として使う。


それは、光のコントラストを確実に豊かなものにしてくれる「黒」達だ。


加えて「水晶」である。

水晶は、パワーストーン、パワーアートとしての役割だけを狙っているのではない。


光を集め、コントラストの極の一端を担う、大切な「画材」である。


強いコントラストは、強さと同時に優しさや懐の深い奥行きや暖かみも表現してくれる。


そんなコントラストを教えてくれたのが、幼い頃の、父のマミヤだった。



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2022年11月5日土曜日

画家一代、音楽家二代、デザイナー三代

 画家一代、音楽家二代、デザイナー三代

まだ学生の頃「画家一代、音楽家二代、デザイナー三代」という言葉があって、やたらと意識していた時期がありました。

ネット検索しても出てこないところを見ると、古い世代の書籍か、あるいは限られたアカデミズムの中で言われた言葉に過ぎないのかもしれません。「デザイナー」の部分は正確には「建築」だったのかもしれませんが、僕が見知った範囲では「デザイナー」でしたので、デザイナーで話を進めます。

この言の意味するところは、それぞれひと門のものになるまでは、これぐらいの「代」はかかるよということです。


デザイナーの素養は親ガチャの典型

絵描きは例を挙げるまでもなく初代で成功している人がたくさんいます。
ただこのことは後述しますが、かなり近年、複雑な思いで捉えています。

音楽家を育てるには、親の代が音楽の素養を持ち、それなりに子どもに音楽教育を施せる環境であること。有名どころではベートーヴェンやモーツァルトなど。

これにはかなり納得行くところがあります。
身の回りもそうだし、僕の知る限り、クラシック、ロック、ジャズ、演歌、民謡その他全て、親の世代で音楽に全く興味のない方で音楽家になった例を挙げるのが大変なぐらい知りません。

最後のデザイナー三代というのは、デザイナーの素養の多くは、教育というよりは生まれ育った家庭の経済、文化レベルに依存するのだという例えです。良い環境で育ち、良い物を使って文化的な生活をし、社交を経験して人とのつながりを肌感覚で見据え、またかなりの教育投資を受けていないと、人が手にして使うものをどう構成すべきかという本質が見えてこないのだそうです。親ガチャの典型です。

残念ながら僕はデザイナーとしてはまあそれなりに生活の糧になるようなレベル止まりでそれほど高貴な成果(笑)は残せていませんし、人の感性に訴える綿密な設計というものについては未だに全く自信がありません。

まあ、それでも今は経験を通じて、デザイナーも人様の役に立つためだったら「意識体験と勉強と研究」さえ怠らなければ良いデザインは生み出せるという考え方に変わっています。



絵描きになるにはお金がかかるという事実

さて、「絵描き一代」に戻ります。僕はこの「絵描き一代」にかなりの疑念を抱きながら「そんな簡単に言っていいのか?」といつも考えてしまうのです。

今から僕が書く文章は、定説や常識の逆のさらに裏を見ているような文章ですので、あくまでも正しい正しくないではなく、思考の参考までにお読みいただければと思います。

近年のアートは、相当な知的水準、技術訓練と感性、そして投資が必要な分野となって久しく、少なくとも美大を卒業し院まで進みアーティストデビューの「頼りない」切符を手にするまでに、莫大な親からの投資が必要なことが当たり前になってきています。

投資金額がそのままアーティストとしての名声や立ち位置に影響する。

もちろんその裏にはアーティスト自身の血の滲むような努力があっての話です。

が、です。

さらにそんなにまでして頑張ってきたアーティストの作品を見せられていつも感じさせられる共通の感想があります。

「まて。これって……、デザインじゃね?」

この場合の「デザイン」という言葉の使い方にご注意ください。

デザインにはターゲットがあります。

アートにはターゲットはありません。

デザインには関係ある人とない人がいます。

アートは否が応でも作者から時代への概念的関係を迫るものである。

さらに言います。

デザインとは、ターゲット(役立つ)が絞られた中でのみ価値が創造される。役に立たないデザインは淘汰される。

ところでターゲットが絞られたアートは現状、ターゲットの絞られた価値創造市場の中では莫大な富を生むが、人類の恒常的価値とは無縁のものとなっています(今のところ)。つまり、関係ない人にとってはどこまでも関係のない世界で終わる。

まあ、アートをそんな大上段で捉えるつもりはありません。
河原や路傍の石を見るようにアートも見るべきという僕の基本概念は変わりません。

眼の前にあるものがアートでもデザインでもどっちでもよろしい。

関係ない人に関係ないのは絵もデザインも一緒。人類には関係あるけど。


アートではなくデザインさせられる人たち

が、やっぱり「ん?これってデザインじゃね?」と思う作品からは、なにかこう得体の知れない「市場臭」がする。

長年のデザイナー経験から来る、独特の嗅覚がそうさせる。
それは、ある特定の人には僕はこの人の作品を紹介説明はできるけれど
別のある人にはとてもそれが価値あるものとは説明できないと感じるからです。

そこでそんな経験豊富な僕は考えるのです。

そうか!
アーティストも今や三代かかるアレなんだ!

アートは逆境を跳ね除け、美に対する止むに止まれぬ枯渇感から生まれる挑戦や、無邪気に野山で遊んでは夕日に見とれているぼんやり人間のものではなく、今やターゲット顧客層の気持ちを汲める、かゆいところに手が届く「こんなのいかがですか?」を提案する商品価値を問われるものになった!

アーティストもデザインの市場創造システムに組み込まれたのです。
彼らはデザイナーなのです。

河原で見つけたきれいな石を拾い上げて小躍りしながら家に持ち帰ってみんなにワクワクしながら見せるのではなく、ショベルカーで乗り付けていって川底まで掘り返し、ベルトコンベアーでじゃんじゃん街に送り込んでガラガラ磨いてお店に並べるのです!
アイデアだね!
アーテイストになるために、川底採掘権やショベルカーの操縦まで必要なんだ!

アイデアや驚き、新しさはとても大切なことです。技術も大切だ。

でも……

静寂から聴こえるあの音は? 詩は? 空を見た時のドキドキや締め付けられるような切なさは?

個人的見解です。
僕は「絵描きは1.5代」だと思います。

0.5はなにか。それは自分の人生をどう生きどう捉えたか、そしてそれを通じて世界や自然をどう見たか……です。

それは画面に必ず出る。
作家本人が気づいてなくても。


お互い、がんばろうね。

という…お話でした。







2022年10月31日月曜日

個展への思い〜現時点でやれることはやった感謝の4週間

個展を見に来てくださったみなさん、ありがとうございます!

 2022年10月3日から30日まで約1ヶ月間という、自分史上最長の個展を体験しました。

ロングラン個展だと、作家は週に1度か2度在廊…というような持久戦で臨むようですが、僕は今回、全日程在廊を目指し、無事実現することができました。

おかげで多くの方々との出会い、交流はまたしても僕の宝となりました。

「アート」という敷居の高さを乗り越えて、電車やクルマで銀座に向かい、ギャラリーに足を運んで、サトチヒロの作品を見てくださったというのは、本当にもう「感謝」というような言葉では足りないほどにありがたいものでした。

個展のたびに身体がガタガタになりますが(笑)それでも個展というものは、何にも代えがたい珠玉のものです。



なぜ個展にこだわるのか?

僕は数年前まで出品していた公募展に出品することもやめ、アートストンギャラリーを除く企画展も殆ど参加しなくなりました。その代わり、個展をとにかくやれるだけやろうと決心したのが、コロナ禍の真っ只中、2020年のことでした。そして今年はとうとう、オール新作での個展が実現しました。

僕がなぜこれほどまで個展にこだわるのか?

改めてここに書いておきたいと思います。


1.アートは宇宙と宇宙を繋ぐコンセントである

まず、アートは自分にとっては僕の宇宙の自己表現であると同時に、社会あるいは見てくれるお客さんの宇宙、世界観とのコンセントと言えるものです。そこに到達するためにまずたくさんの方に見てもらいたいと思っています。それは一点や二点ではダメです。世界観そのものが、その場を支配している空間が重要なのです。制作している時点では無の境地でいる僕も、個展に出品する作品にはその世界観を大切にしています。


2.サトチヒロ作品をじっくりと味わい、時間をかけて向き合って欲しい

さらに一定時間足をとめて、そのアートと向き合ってもらいたいと思っています。じっくりと向き合うためには、ある程度閉ざされた落ち着いた空間が必要です。



3.サトチヒロ作品との対話、そしてインプレッションを語り合える

さらにその作品との対話を通じて、自己投影による解釈を加えてもらえたら嬉しいと思っています。その素晴らしいインプレッションを聞くためには、自分が常に在廊している必要があります。出会いや縁というのは不思議なものです。


4.サトチヒロ作品を購入することで活動資金をサポートして欲しい

アートは子ども同然の存在であると同時に、創作活動を支えるための資金を生み出す商品でもあるという矛盾を抱えながら「買ってほしい」と思っています。お客さんがその作品を「独占したい」と思ったとき、そして値段を見て、そのアートやアーティストに投資する価値があると判断した作品は買われていきます。そしてそれが部屋に飾られた時、アートオーナーだけに許された、長く知的で甘美な美への旅が始まるのです。それに値するものを絶えず生み出したいと思っています。個展はその大切な機会です。




5.サトチヒロ作品に触れる事で幸せになってほしい

あ、もし仮に購入できなくても後ろめたく感じることはありません。サトが作ったアートが、一人でも多くの方の人生にとって希望となったり、発想思考の転換のきっかけとなったり、幸福を提供できる存在であってほしいと願っています。そして他の人にもアートの素晴らしさや役目を広めてもらいたいと思っています。ギャラリーをそのための場にしたいし、年に一度のアートフェスはその一環です。さらにサトチヒロの個展もまたその場になりたいのです。


6.個展はアーティストと美意識を共有できる交流の原点である

お客さん一人ひとりと「アーティスト対客」という垣根を超え、人間と人間の親交や友情を深め、それをずっと継続したいという夢があります。それは僕を介さない、お客さん同士の交流も含めてです。美意識やアート思考を共有できる人は、必ず仲良くなれます。それが僕サトチヒロのアートを通じてなら、なんと素晴らしいことでしょう。僕の個展がその場になれるならこれ以上の喜びはないのです。


来年は、もっと皆さんが幸せになれるような、そんな個展を目指したいと思っています。

ご来場してくださった方々、ご購入くださった方々、そして応援を頂きながら残念ながらお越しいただけなかった方々も、心から御礼申し上げます。ありがとうございました。




2022年8月29日月曜日

アーティストはビジョナリーではあるけれど

 現代アートにおいては、アーティストのあり方の理想像はビジョナリーです。

ビジョナリーとは、先見の明、新しい価値観、世界観、変革を起こすビジョンを持つ人のことです。

それを視覚的な、あるいは聴覚的な作品に起こし、見る人(鑑賞者)に新しい視点の地平を提示できるということが、アーティストとしての理想のあり方でしょう。しかし、その理想は時として「見ただけ」では瞬時には理解できないことも多かったりします。

何故かというということは後述しますが、鑑賞者がアートを見て自分のものにするためには、何かしらのヒントや背景がどうしても必要なのです。

ですから、私は常日頃から、「作家は作品を説明できなければならない」といっています。

でも、この説明が決して得意ではない人もいます。

ビジョナリーを目指してアーティストになったわけではない人もいれば、また絵を描いているから、映像や立体を作っているからといってすなわち全てビジョナリーになれるとは限らないのです。当然です。

だから無理やりビジョナリーを目指したり、難しい理論を展開したりする必要はありません。

また、アートや技術を勉強すればビジョナリーになれるというものでもありません。技術の習得とビジョンとは全く別物です。全てのアーティストが到達しなければならないというものではないのです。

ただ、現代に生きているアーティストである限り、自作についての説明はできなくてはならないでしょう。やはり現代人は「説明」を求めているのです。

しかし、表現の説明は表現の説明で良いのです。

それをビジョナリーであらんがための説明とミックスしてしまうから、話がめんどくさくなります。

アーティストがビジョナリーであるためにはむしろ、アート以外についての遠い回り道の経験や学習が必要です。

視点、視野、価値観は異質なものに触れることで加速度的に広がり、新しいビジョンが見えてきます。一つや二つの価値観だけで生きているうちは見えてこないのです。

そういう回り道を無駄とか損と考えて、知識や理論武装による近道をしようとする人もいます。しかし私はビジョナリーに近道はないと思っています。また理論武装のテクニックを学ぶことは、デッサンを学ぶことと同じぐらい重要で、なおかつ突き詰める意味の薄いものです。

アーティストのなかにはそこに真剣になるあまりに、言葉や論理が難しくなりすぎる人もいます。その結果、意味のない作品に無理やり意味(のありそうな言葉)をつけてみたり、新しくないものを新しいと主張してみたりと、見る者聞く者に時間の浪費を強いて、より一層人々からアートを乖離させてしまう原因を作っているという側面もあります。なんとなくその辺が「作家説明」のベンチマークになってしまっているような気がします。

アートコンテクストにおける理論武装は確かに重要なことですが、それが独り歩きしてしまっているのでは、元も子もありません。

ビジョナリーによるビジョンとは、ビジョナリーの人生と多様な価値観が盛り込まれながらも常に隠されているものであり、なかなかすぐには判別判断できないものです。

それはやがてそれが社会の常識となってから客観的に分析されます。

それ以前に、アートとは、まずは見られて、触れられて、心や肌感覚で何かを感じてもらうことで完成します。

その何かを感じてもらうためには、アーティストの経験と深い考察が作品ににじみ出ていることがどうしても必要なのです。それは視覚から伝わる気です。それは一朝一夕では決して得られるものではないのです。

アーティストの説明責任とは、その気を伝える手助けに過ぎません。経験、視野と、その結果現れた画面の関連性についてを話すことであって、自己作品に評論家のような評論をつけることではないのです。

アートが必要以上に理論化してしまうのは、アーティストの責任ではありません。むしろ絵の描けない「専門家」が、なんでもかんでもアートを「言葉」に置き換えようとして、アートの無言語の世界に首を突っ込んできたおかげです。それと同じ共通言語をアーティストに強いているだけに過ぎません。

それに迎合して、美術史的視点から自作を無理やり説明しようとすることはやめたほうが良いでしょう。なぜなら歴史は歴史にとって不必要なものを淘汰するからです。歴史のジャッジは歴史が行います。


2022年3月15日火曜日

神様が降りてくる方法

 僕がいつも思ってることですが、絵は自分が「こう描こう」と思って首尾一貫してもだいたいダメなんです。

計画的な絵ほどつまんない。デザインじゃないんだから。

意図的に描いて、意図的に運んで、技術で描いた絵はすぐに分かっちゃう。

上手だね、でもつまんない絵。

じゃどんな絵が面白いかっていうと

神様が降りてきて、勝手に描かされた絵が一番面白い。

神様が降りてきて描かされた絵は、それ自体が光ってる。

超越している。

上手い下手関係ない。

神様が降りてきて描かされた絵こそが芸術だ。

でも、描かされてるなんて安易に言っちゃだめだよ。


…みたいなことをいうと

「へえ、じゃ神様が降りてくるにはどうしたらいいんですか」って聞かれます。


えーと、それは


まず、毎日描くことです。

アイデアが湧いてるうちは神様は降りてこないので、アイデアが枯渇するまで描く。

そうして、もう自分でアイデア出そうなんて頑張っても出ない状態になって

ただとにかく描く。

デタラメに描く。

デタラメは下手っぴだ。

へたっぴでもいい。

キレイに描けたらもっといい。


それから、描かない。

描きたくなっても描かない。

ひたすら違うことをします。

ぼーっとしたり、遊んだり、旅に出たり。

絵とやりたくないことをやらない限り、何をしてもいい。


もうやることがなくなってつまんなくなったら、それからまた描き始める。

もうネタなんかない。


でも、旅に出たからなんか出てくるかなあ。

遊んだ時のことを思い出してみて。


パレットになんか色を出してみる。

キャンバスに塗ってみる。

叩いてみる。

こすってみる。


そうするとそのうち、神様の声が聞こえてくる

「ここはこう見える」

「ここはこう描くのだ」


お?ほんとだ。

そのとおりに描いてみる。

言われたとおりに。

変にテクニカルにいじらずに、セオリーなんか無視して筆やナイフや指を走らせる。

それがそう見えたならそのように

テーマもモチーフも、神様が勝手に考えてくれるから

なんにも考えなくていい。


あんまり欲張らずに。

「わあ!キレイだなー」と思う。


自分の手は自分で動かしてるようでいてそうじゃない。

神が教えてくれる。

それが、神が降りてくるという本当のこと。



2022年1月26日水曜日

ポストコンテンポラリーへのヒント

マルセル・デュシャン以降のコンテンポラリー(現代)アートにおける最大の弱点は、意識的にせよ無意識的にせよ、結果として見る者の思想の文脈を規定してしまっているという点にあると、常々僕は考えています。

作家のコンセプトが明確であればあるほど、その枠組みの中で解釈しなければならない、背景に流れるコンテクストを知っていなければならない、それを分からない者は排除される、鑑賞者に感性の自由が許されないという、美の追求という人間の意識進化にとっては歴史上類を見ないほどの途轍もなく大きなハードルを抱えているのです。

「これはなんだ?」という鑑賞者の疑問が、「なるほどそういうことか」に至るまでの過程が作者の敷いたレールから外れることは許されない。作者の思う通りに思考し、思う通りに意識を変革しなくてはならない…

このことは作家の哲学、経験、思想が常に鑑賞者の意識を啓蒙出来るほど先進的で優れていなければならないことを意味します。

しかしアーティストとはそんなに優れた人たちなのでしょうか?私はそうは思いません。

私の知る限り、例えば環境問題の啓蒙を試みる作家の多くは、その主張が一方的な視点でしか物事を捉えることが出来ずに自己矛盾を抱えたままです。
アート以前に、物事を論ずるために持つべき基本的な知識や論理的思考が圧倒的に足りないのです。

そういう状態で作られたアートが持っているメッセージ性は、特定のカルト的な考えを持つ人々には強く受け入れられることでしょう。しかし広い世界の目で見れば一過性の錯乱に過ぎません。

そして何よりそれらに共通している致命的な欠陥は、時代や主張を問わずに残されるはずの「美しさ」が欠如しているという点です。

普遍的美しさを広く訴えることのできないマテリアルは、時代の現象としては記録されることはあっても、美としてはカウントされないのです。

「なんだこれは」という違和感の先にあるものが「美しさ」「美」「愛おしさ」ではなく、「作者の企図」のみであり、それを理解しないでは作品を通じた顕在意識化というたった一本の道さえも見つけられない…というのが現代アートが約一世紀に渡ってたどり着いた荒野であるというのは言い過ぎでしょうか。

そういうものを継続的に見せられている「大衆」は鑑賞者としての価値観、感性に常に自信が持てない状態を強いられています。
アートを見るたびに不安感を抱くようになっていると言っても良いかもしれません。

この現代アートの荒野から、本来全ての人が持っているはずの美への感性を取り戻す、救出、救済を試みる、というようなテーゼだけでも、僕はやりがいのある「抵抗」ではないかと思っています。





2020年11月19日木曜日

美のエッセンス

どんなに技巧をこらしても、自然の美しさをそのまま写しとってそれが自然に勝るなんてことは不可能なんです。
でも、その自然の美しさのある一瞬や、凝固して純化されたエッセンスのようなものは、人間なりに解釈して色や絵にすることはできる。それはもしかすると大自然の美を超えているかもしれない。

自然の美の前にひれ伏すことができる人であればこそ、エッセンスの美を味わうことができるのです。