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2023年12月19日火曜日

祈り

【祈り】

誰かの幸せを祈る時、全身全霊で祈って

それが成就することを

僕は祈った瞬間にもう知っている


人知れず暗闇で祈り、祈り、祈り

わずかな光の中で筆を走らせる


ある日突然、絵が描けなくなるかもしれない

やり残しはどんなに理想的な去り方でも免れない

それでも後悔だけはしないように描く

そう思いながら、描く

祈りながら、描く


僕の祈りと心の模様は必ず絵に現れて

光を放ち、誰かを幸せにしたり

希望の灯を灯したり

愛を伝えて広まってゆく


そうして僕という存在は消え

愛だけが残る

希望だけが残る

笑顔だけが残る


残されたわずかばかりの命は

あなたへの愛と引き換えに

燃えて絵となる


2023年9月18日月曜日

瞑想と呼吸

【瞑想と呼吸】

先日、お世話になっているとあるサロンのオーナーとお話をしている時に、瞑想の話になりました。


いろんな質問に答えているうちに、自然に

「瞑想はするのではなくて、『なる』んです」と答えていました。


考えてみると、ここ10年ほどは意識的に「瞑想するぞ」と思ったことが一度もないことに気がつきました。


それでも日常的に瞑想感が強いのは、普段からぼーっとしてるか、いよいよ瞑想名人の域に達したのかな?とか、帰り道いろんなことを考えていました。


そしてはたと

「あ、絵を描いてる時か」と思い至りました。


最近自分でも絵が変わってきたなというか、シンプルな構図と複雑な色の組み合わせが多くなってきたのはそのせいなのかもしれないと。


それから数日後、とある伝統芸能の達人の動画に出演させてもらった折、彼が「ルーブルでモナリザを見た時は胸式呼吸、雪舟を見た時は丹田呼吸になった」とおっしゃっていました。

「サトさんが絵を描いている時はどこで呼吸してますか?」と振られて、思わず


「僕は絵を描いている時、気がつくと無呼吸になってます」と、なんともとりつく島のないような答えになってしまいました。


で、それも後から「あ!」と気付きまして。


僕の場合、取り掛かるまでが長くて、描きモードに入るまで4時間も5時間も、下手すると三〜四日「何もしてない」状態が続くことがしばしばなのです。

始まれば速いんですが、始まるまでがとにかく長い。


もしかするとこの「何もしない時間」というのは、知らないうちに呼吸を整えている時間、瞑想なのかなと。


それが瞑想といえば瞑想なのか、いや、それともただの無駄な時間なのかは分かりません。


とにかく、そういえば呼吸が整うというか、自分の波動がすっかり静かになったところで、あとは息を止めてわーっと描くわけです。


個展近くなって、また昼夜逆転してきました。


2023年8月18日金曜日

「そんなに言うならやってみろ」

大学時代、学生の間でどこからともなく、古いヨーロッパの諺と称して(真偽は分からない)こんな言葉が聞こえて来た。 「絵描き一代音楽家二代デザイナー三代」 食えるようになるまで、絵描きは一代でものになるが、音楽家は親子二代、デザイナーは親子孫三代に渡って頑張らなくてはならないと言う意味だ。 生まれた境遇や教育環境のことを指していっているのだが、いかにも「ヨーロッパwww言いそうwwww」な流言ではある。 実際には現代は、音大や美大も用意されているし、系統だった情報や知性やセンスに触れることも、その気になりさえすればいくらでもできる。一代であっても努力と才能で素晴らしい音楽家やデザイナーになっている人たちはたくさんいる。 しかしながら凡人にとっては、努力を積み重ねていくうちに、努力だけでは如何ともし難い壁というものを何度も感じることがあるものだ。 僕は早くからバイオリンやギターで音楽教育を受け、自ら進んで絵の師匠に付き、はたまた大学では工業デザインを専攻し、社会に出てからは成り行きとは言えデザイン事務所法人を長年経営してきた。 なので先述の3つのことは全部、割と本気でやってきた。その上で、あの言葉には長年反発しながら、また時には実感として「ああそうだな」と、身に染みているところもある。 自分にとってせめてもの救いなのは、現在一番力を入れている「絵描き」については一代でものになるらしい、というところだろうか(笑) 言葉の呪縛とは恐ろしい。たとえ根拠のないものであっても「そうらしい」と言う言葉に多感な10代が触れてしまえば、どんなに反発してもその言葉の呪縛から自分を剥がしていくのは、実に骨の折れる作業になる。 そんなだから僕は随分と長いことフラフラしていた。 母は、家でピアノを子供たちに教える仕事をしていたから、二代目の僕は音楽家にはもしかするとなれたのかもしれない。 実際、妹の方は難関と言われた音大のピアノ科を卒業し、主婦となった今でも細々ながらも音楽の仕事を続けている。 本人は才が無いと自分で言っていたが、高校時代に彼女が弾くショパンの「幻想即興曲(嬰ハ短調)」には、間違いなくショパンの熱情が映り込んでいた。 「映り込むぐらいじゃなれんのよ」と言われそうだが(笑) しかし、兄の僕はといえば音楽は聴くものであって、世の中で要求されるような音楽を作る才も演奏能力も、どんなに努力しても人並み以上に上達する事はなかった。 父は、公船の機関士だったが、僕が物心ついた頃には、陸に上がり実業高校の教師となっていた。 僕が大学に入り、得意な絵画の方に進むのではなく、工業デザインを選択したのは、父の背中を見ていた影響かもしれない。 しかしお世辞にも優等な学生とは言い難く、大学に入ったらやめようと思っていたはずの音楽を、友人に誘われるまま再開し、次第にバンド活動に耽溺、4年間をほとんどデザインとは無縁の状態で過ごしてきた。 それでも音楽家にはならなかった。いや、なれなかった。 2年間の教員生活を経て、とうとう僕は大学まで行かせてくれた父に「教師は続けたくない」と告げた。 僕にはやりたいことがあった。 父はと言えば、終戦後ソ連軍の占領下にあった樺太から命からがら引き上げ(ソ連から見れば逃亡、見つかれば銃殺かシベリア送り)、下北半島の不毛の開拓村で掘っ立て小屋から再スタート、さらに一家を助けるために漁船員になり、そこからさらに苦学しやがて公船の機関士になり…という、戦後復興日本を絵に描いたような苦労人であった。 そんな苦労人の父は、子供の勉強や努力といったものに対して実に手厳しい人ではあったが、不思議と僕の進路については「ああしろこうしろ」とは言わなかった。 母にとっては随分と希望や失望もあったろうが、父は「やりたいことがある」という僕に「そんなに言うならやってみろ」と言ってくれた。 おかげで僕は随分と自由に自分の人生を考えられるようになった。もちろんその自由と引き換えに失うものも多いことは分かっていた。 自由とは自己確立と自己選択である。そしてその選択には責任やリスクがついて回る。困難も失敗も織り込み済みである。それを跳ね除ける強靭さも要る。 父は自由に自分の人生を選択できる境遇には無かったが、自己の存立、確立のために、絶えず自己選択し、境遇、環境と闘い抜いて、最終的に「教師」という地に到達して来た人である。教師となってからも随分と武勇伝はあったようだが、僕の知る限り概ね平和で穏やかな後半生である。掛け値なく、境遇を跳ね除け人生の闘争に勝利した人生であった。 しかし彼は「人より何倍も勉強した」とは言っていたが、決して「苦労した」とは自分で言ったことがない。 そんな父の「やりたいようにやってみろ」という言葉を放つ目は決して甘い親の優しい目だったわけではない。 時代環境に翻弄され、闘争の連続であった自分の時代とは違う意味で「用意された環境を捨てるなら、お前も自力で闘ってみろ」と言ってくれたのだと、僕は今でも思っている。 前述したように、その後の僕の自由は、謳歌だけでなく常に失敗や困難と背中合わせだった。失敗の多くは自分の覚悟の足りなさから来るものが断然多く、父のそれに比べたらまだまだ甘いのは重々承知だ。 しかしそんな迷いや困難の数々も、月並みな言い方で言えば見事なまでに点と点が結ばれて線となり、今や気付けばそれが広大な多角形を作り出して、僕の創作や人々へのささやかな貢献に、多大なベネフィットを与えている。 結果的にそれらは失敗でも困難でもなく、乗り越えた先の僕の大切な財産となったのだ。 今僕は、人としての喜びも痛みも恥も哀しみも人並み以上に味わうことができている。 覚悟というものの本質についても今では少しは分かるようになり、あの時決断しなければ到底到達できなかったであろう人生観や哲学にも幸運にも出会うことができている。それが自己創作の深部に多大に貢献していることは疑いの余地がない。 そしてそうし続けて来れたのは、自己選択とそれに呼応して節節に助けてくれた人々のご恩の結果である。 そう感じた時、僕は初めて父が歩んで来た場所の一部に自分も足を踏み入れられたような気がした。 人とは結局、それぞれに与えられた境遇や宿命を自己確立という意志の力でねじ伏せ乗り越えていく存在に他ならない。 そこに時代も環境も関係ないのである。 どんな境遇に生まれようと、人は自己責任を全うし自己選択する限り、一代にして自己を確立できる。しかしその人が背負うものの重さはその人にしかわからないし、誰も代わりに背負ってくれる人はいない。それを教えてくれたのが父のあの一言であった。 結果、迷いも失敗も全て誰のせいにすることもなく自己に帰することで糧とし、また「苦労した努力した」などと吹くこともなく済んでいることは、本当にありがたい事である。 迷い戸惑い乗り越えた先に見えるものの価値は、本人にしか分からない隠された宝石である。 達成や喜び、また逆に困難や岐路に立つ度、偉すぎな父を思い出しても、俯く事なく少しはそう思えるように、最近は、やっとなってきた。

2023年8月11日金曜日

ジャッジ

善or悪、高いor低い、良いor悪い、陽or陰、白or黒、幸運or不運、清いor汚い。
分けてしまえば、それはそのように振る舞い、そうでない方を憎悪する。
しかし、実際には二値とはプロセスに過ぎない。

ひとつのものが全く異なるいくつものプロセスを通り、一つの結果に帰結する。

プロセスに気を取られそれを観察、ジャッジしようとすれば、一つのプロセスを結果のように受け取ることしかできない。


だからジャッジしてはならない。
観察してはならない。

みな一つのところに行くのだから。


(2004年「セッション」より サトチヒロ)

2023年6月24日土曜日

アーティストの本質

アーティストになりたがったり、憧れたり、「やっとアーティストと自称できるようになりました」とか目をキラキラさせて言っている自称アーティストが後を絶たないが、アーティストなんてそんなたいそうなもんじゃないし、そもそも憧れてなるようなもんじゃない。絵師やイラストレーターになり損なったヤツが仕方なく堕落してなるようなものだ。

自分を律して研鑽を積み、誰にも負けない努力と才能を勝ち得た者は、絵師として社会に認められ、社会の一員として真正面胸を張って生きるのだ。
それができずに、堕落し、社会の規範から逸脱し、批判と蔑みの中であえぎ、怠惰とその改悛の中にのたうちまわっているような人間こそがアーティストなのである。

「私は模範的にきっちりとやっております」というようなのはアーティストでもなんでもない。

だが、アーティスト諸君よ。悲観してはならない。堕落し、規範から逸脱し、社会からつまはじきにされ底辺であえいでいたからこそ見える美の世界と言うものがある。
その美の世界こそが、日々つましく努力をして家族や社会や国に貢献している人々の視点を変え、生きる活力と励みと癒やしを呼ぶのである。真面目に生きている大半の人々の哲学に大きな影響を与える力を持つのである。

常識にとらわれず、常識を破り、道徳から離れ、本来の人間をむき出して生き、そしてその結果苦しみ、泣き、叫び、笑い、倒れる。その中からこそ、本当の人間の真髄、本質、生き様、愛、執着、そして生命力と言うものが生まれるのである。

そしてそんな劇物のような人生から生まれたからこそ、作品たちは光を放ち、価値観や視点の変革を促し、人類全体が良い方向に進んでいく清らかな流れとなることができるのである。

堕落せよ、そして描け、作れ。描き作ったら広く世に知らしめよ。人々の手に宝物として手渡すのだ。価値を上げろ、人気を獲得せよ。それが影響力である。どんなに優れた作品であっても、広く世に知られなくてはこの世に存在しないのと同じなのだから。


2022年11月5日土曜日

画家一代、音楽家二代、デザイナー三代

 画家一代、音楽家二代、デザイナー三代

まだ学生の頃「画家一代、音楽家二代、デザイナー三代」という言葉があって、やたらと意識していた時期がありました。

ネット検索しても出てこないところを見ると、古い世代の書籍か、あるいは限られたアカデミズムの中で言われた言葉に過ぎないのかもしれません。「デザイナー」の部分は正確には「建築」だったのかもしれませんが、僕が見知った範囲では「デザイナー」でしたので、デザイナーで話を進めます。

この言の意味するところは、それぞれひと門のものになるまでは、これぐらいの「代」はかかるよということです。


デザイナーの素養は親ガチャの典型

絵描きは例を挙げるまでもなく初代で成功している人がたくさんいます。
ただこのことは後述しますが、かなり近年、複雑な思いで捉えています。

音楽家を育てるには、親の代が音楽の素養を持ち、それなりに子どもに音楽教育を施せる環境であること。有名どころではベートーヴェンやモーツァルトなど。

これにはかなり納得行くところがあります。
身の回りもそうだし、僕の知る限り、クラシック、ロック、ジャズ、演歌、民謡その他全て、親の世代で音楽に全く興味のない方で音楽家になった例を挙げるのが大変なぐらい知りません。

最後のデザイナー三代というのは、デザイナーの素養の多くは、教育というよりは生まれ育った家庭の経済、文化レベルに依存するのだという例えです。良い環境で育ち、良い物を使って文化的な生活をし、社交を経験して人とのつながりを肌感覚で見据え、またかなりの教育投資を受けていないと、人が手にして使うものをどう構成すべきかという本質が見えてこないのだそうです。親ガチャの典型です。

残念ながら僕はデザイナーとしてはまあそれなりに生活の糧になるようなレベル止まりでそれほど高貴な成果(笑)は残せていませんし、人の感性に訴える綿密な設計というものについては未だに全く自信がありません。

まあ、それでも今は経験を通じて、デザイナーも人様の役に立つためだったら「意識体験と勉強と研究」さえ怠らなければ良いデザインは生み出せるという考え方に変わっています。



絵描きになるにはお金がかかるという事実

さて、「絵描き一代」に戻ります。僕はこの「絵描き一代」にかなりの疑念を抱きながら「そんな簡単に言っていいのか?」といつも考えてしまうのです。

今から僕が書く文章は、定説や常識の逆のさらに裏を見ているような文章ですので、あくまでも正しい正しくないではなく、思考の参考までにお読みいただければと思います。

近年のアートは、相当な知的水準、技術訓練と感性、そして投資が必要な分野となって久しく、少なくとも美大を卒業し院まで進みアーティストデビューの「頼りない」切符を手にするまでに、莫大な親からの投資が必要なことが当たり前になってきています。

投資金額がそのままアーティストとしての名声や立ち位置に影響する。

もちろんその裏にはアーティスト自身の血の滲むような努力があっての話です。

が、です。

さらにそんなにまでして頑張ってきたアーティストの作品を見せられていつも感じさせられる共通の感想があります。

「まて。これって……、デザインじゃね?」

この場合の「デザイン」という言葉の使い方にご注意ください。

デザインにはターゲットがあります。

アートにはターゲットはありません。

デザインには関係ある人とない人がいます。

アートは否が応でも作者から時代への概念的関係を迫るものである。

さらに言います。

デザインとは、ターゲット(役立つ)が絞られた中でのみ価値が創造される。役に立たないデザインは淘汰される。

ところでターゲットが絞られたアートは現状、ターゲットの絞られた価値創造市場の中では莫大な富を生むが、人類の恒常的価値とは無縁のものとなっています(今のところ)。つまり、関係ない人にとってはどこまでも関係のない世界で終わる。

まあ、アートをそんな大上段で捉えるつもりはありません。
河原や路傍の石を見るようにアートも見るべきという僕の基本概念は変わりません。

眼の前にあるものがアートでもデザインでもどっちでもよろしい。

関係ない人に関係ないのは絵もデザインも一緒。人類には関係あるけど。


アートではなくデザインさせられる人たち

が、やっぱり「ん?これってデザインじゃね?」と思う作品からは、なにかこう得体の知れない「市場臭」がする。

長年のデザイナー経験から来る、独特の嗅覚がそうさせる。
それは、ある特定の人には僕はこの人の作品を紹介説明はできるけれど
別のある人にはとてもそれが価値あるものとは説明できないと感じるからです。

そこでそんな経験豊富な僕は考えるのです。

そうか!
アーティストも今や三代かかるアレなんだ!

アートは逆境を跳ね除け、美に対する止むに止まれぬ枯渇感から生まれる挑戦や、無邪気に野山で遊んでは夕日に見とれているぼんやり人間のものではなく、今やターゲット顧客層の気持ちを汲める、かゆいところに手が届く「こんなのいかがですか?」を提案する商品価値を問われるものになった!

アーティストもデザインの市場創造システムに組み込まれたのです。
彼らはデザイナーなのです。

河原で見つけたきれいな石を拾い上げて小躍りしながら家に持ち帰ってみんなにワクワクしながら見せるのではなく、ショベルカーで乗り付けていって川底まで掘り返し、ベルトコンベアーでじゃんじゃん街に送り込んでガラガラ磨いてお店に並べるのです!
アイデアだね!
アーテイストになるために、川底採掘権やショベルカーの操縦まで必要なんだ!

アイデアや驚き、新しさはとても大切なことです。技術も大切だ。

でも……

静寂から聴こえるあの音は? 詩は? 空を見た時のドキドキや締め付けられるような切なさは?

個人的見解です。
僕は「絵描きは1.5代」だと思います。

0.5はなにか。それは自分の人生をどう生きどう捉えたか、そしてそれを通じて世界や自然をどう見たか……です。

それは画面に必ず出る。
作家本人が気づいてなくても。


お互い、がんばろうね。

という…お話でした。







2022年5月10日火曜日

禍福は常に同居している

カウンセリングとかリーディングでは、抱えて来られる悩みや問題にいくつかの偏りがあります。それらを寄せ集めて煮詰めていくと「どうやったら自分は幸せになれるか」という一つのシンプルな問いに辿り着くことが多いです。

それでセッションのたびに「幸せになれますよ」「幸せになる権利がありますよ」と何度も繰り返していたことがありました。

しかしこの「幸せ」というのはやっかいな言葉で、具象化がとても難しい概念で、また主観によってどうにでも変化してしまう代物です。

「幸せになりたい」ということは、その方は幸福感を味わってないのでしょうか。話を聞いて行くと、どうもそうではないのです。

ただ、幸福感を上回る不幸感、不達成感が自分を襲う。それがあまりに強いために、他の幸福感がまるで消えてしまったかのように感じる。「これさえなければ…」「これさえ手に入れば自分は幸せなのに」と思ってしまう。

例えば仏教では、これを「執着」と呼びます。

執着の原因は「苦」です。

苦には様々な種類があり、それが起きる原因についてもさらに様々な分類がされています。説明が面倒なのでここでは省きますが、この「苦」は人間が生きている限り止むことはなく、常に我々につきまといます。どんな境遇で生きている人にも等しく必ずこの苦は存在します。しかし苦が生きている限り続くとは言っても、わたしたちは、常に流れの中に生き、とどまることはありませんから、幸せもまた去っていき、不幸もまた去っていきます。幸せの中にとどまることも、不幸せの中にとどまることも、誰もできません。

一度手にした幸せは誰しも手放したくないものです。この幸せの中に留まろうとする意識が「執着」なのです。この執着は幸福さえも「苦」にしてしまい、不幸感の原因となります。

また逆に、不幸せを手放したくないなどと思う人もいません。一刻も早くこの不幸感から脱したいと思うでしょう。でも実はこれもまた「執着」であり「苦」なのです。

どういうわけかわたしたちは、幸福はすぐに去っていき、逆に不幸からは永遠に抜け出せないのではないかという思いに駆られがちです。

そしてもうひとつ不幸感にとどまってしまうときの心の特徴があります。それは自分がすでに手にしているはずの幸福への感謝を忘れてしまっているという点です。(感謝についてはまた別の機会に書きます)

執着は幸福感を打ち消してしまう最も手強い敵です。そのなかでも一番やっかいなのは「これさえあれば」「これがなければ」「あの人に比べて自分は」という類のものです。

まあ、もっとも私達が普通に生きている限り、何かに執着するのは仕方ありません。

万物は流転していくものだという観点は大切でも、何もかも執着をなくしてしまうことはできないものです。

でも執着によって襲ってくる不幸感はとりのぞきたいものです。

執着を打ち消すのではなく、まず先に、今自分が抱えている別の「幸福」について考えてみることです。それから、なぜその執着が起きているのかについて考えるのです。

やがてその執着(不幸感)が実は今持つ幸福の上になり立っていることに気が付きます。

もしもその幸不幸に関連性を見つけることができるのなら、その執着は自分にとっての大切なエネルギーですから、打ち消したり捨て去ったりしなくてもいいのです。

「禍福は糾える縄のごとし」

(禍に因りて福となす。成敗の転がり、譬えれば糾纆(きゅうぼく…撚った縄)のごとし「因禍爲福 成敗之轉 譬若糾纆」by司馬遷)という言葉があります。

幸福と不幸は常に同居しています。

そして必ず時とともに流転します。

2022年3月23日水曜日

文章を書くことの効用

 「書く」ということの衝動というのは、どこかリビドーのような部分があって、まあ知的作業なのでリビドーとは違うんだけど、とりあえず知的なリビドー的な部分があります。

他にやることがなかったりすると、世の中や自分の身の回りに対して何か言いたくなる、何か言いたくなるけれど、実際に言ったりするとまとまらなかったり、あるいは人間関係になんとなく齟齬が生まれたりするから「書いたほうがいいや」ということを分かっている人は、なんか書くのです。

それは日記だったり、SNSだったり、ブログだったり、あるいは小説だったり漫画だったり……それぞれ。

逆に忙しくてリアルで手一杯だったりすると、何も生まれない。書けない。

あるいはツイッターなどで一日のうちにちょこちょこ書いたりしてると、これもまたまとまった文章が書けなくなる。短文を書くことで自分の知的リビドーのエネルギーが発散されちゃう。満足しちゃう。

さて、これを逆にして考えてみます。

何かしたいけれどそのエネルギーがない、あるいは何もやれることがない時は、その時の思いを書いてみれば良いのです。

誰に見せるでもない、プラスとかマイナスとか、良いとか悪いとか考えずに、世の中に対して思ってること、人に対して思ってることを書いてみる。

まとまった文章が書けなかったら、散文や詩でもいい。

何かしたいことがあったとして、今の自分にはいろんな理由でできなかったりする。でも「それができない」ということは、「それに対する思いが強い」ということでもあります。

だからその思いを文章にしてみればいいんです。

そして自分で書いた文章を、あとから読み返してみる。

意外といいことが書いてたりする。

「へえ!」と感心することもある。

その時の思考に驚くこともある。

そしてその先には、自己を中庸に導く力が働いていることに気がつくのです。

それは心身のバランス。

どちらかに傾くと、辛い。

でも傾いたら、バランスを取れば良い。

文章を書くということは、このバランスにとっても良いことなんです。


2022年3月15日火曜日

それを認識すればそれは来る

 ちょっとわかりにくい概念ですが、例えばどこかで戦争が起きていることをTVやネットで見たとします。その情報に嘆いたり、悲しんだり、怒ったりするかもしれません。

その時点で、その人はその戦争に既に参加しています。

つまり、「戦争反対!」とか「〇〇国は軍国主義で酷い!」とか、何かしらのジャッジをした時点で、その人はその戦争の加担者となっているのです。


さて、ネットの向こうの戦争を嘆くのをちょっとだけ休んで、自分の周囲半径10mの様子を眺めてみてください。

いかがですか?

この瞬間、自分の目の前に銃弾は飛び交っていますか?空から何か落とされていますか?


それとも平和ですか?


自分がこの瞬間と前後2秒間ぐらい、それが自分自身の宇宙、世界のすべてです。


自己が感じる、いまこの瞬間の前後2秒間、自己の眼の前の世界が平和なら、あなたが住んでいる世界は平和です。


戦争を起こさない、やめさせる唯一の方法は、そのたった半径10mのあなたの平和を、宇宙を広げることなのです。


概念は認識を生みます。

認識は感情を動かします。

感情は現実を生みます。


「戦争が始まる」「戦争が始まった」「その影響が自分にも」それをネットやTVで認識した瞬間、感情が動かされます。

怒り、嘆き、同情、悲しみ……。

それは起きるためのプログラムを始動し、そして現実化が始まります。


天はジャッジしません。

戦争が良いとも悪いともジャッジしません。

戦争が良いとか悪いとか思うのは人間の感情です。病気や災害、個人的不幸について感じるものと全く同じものです。


そして少なくとも今この瞬間、天はあなたの目の前には戦争を起こしてはいません。


目の前の子どもたちや老人たちは、銃弾やミサイルに傷つけられたりはしていません。


あなたが「情報」だと思っているそれは、あなたの宇宙には元々無かったものです。

それをネットやTVによってあたかも事実のようにあなたの宇宙を侵蝕しているから、あなたの心がかき乱されるのです。


繰り返しになりますが、もしも本当に平和を希求したいのなら、今この瞬間のあなたの半径10mの宇宙に存在する恒久的平和を、少しずつ少しずつ広げていけば良いのです。


見たこともない場所の漠然とした「詳しい情報」に踊らされずに。


2022年2月5日土曜日

選ばれること

 思いもよらない幸運に恵まれ、愛に満たされ、道が拓かれ、そこに絶えず惹きつけられている時は、天(神仏、霊、宇宙人…なんでもよい)に嘱望されています。

もしそこに気づいたのなら、それにふさわしい思考を保ち続ける必要があります。

その気づきは、愛と一歩引いた謙遜、そして感謝がセットです。

逆に、憎しみや嫌悪、怒り、妬み、尊大、悪口、不平などとはとても相性がよくありません。

天(神仏、霊、宇宙人…なんでもよい)は愛のエネルギー。

繁栄と富に向かって突き進むエネルギー。

そのエネルギーに選ばれていることを自覚すること。


2022年1月24日月曜日

アート

 なかったとしても世の中は変わらない。

なくても生きていける。

知らないで一生を終えることだってできる。

でも一度この世に生まれて

誰かの目に触れたなら

その日を境に、誰かの心と人生に確かに刻まれる。

宝物になる。

世界になくてはならないものになる。


2018年5月27日日曜日

父永眠



2018年5月27日12時20分  父永眠。

高速飛ばして12時10分に病室到着。

耳のそばで声をかける。
心拍がどんどん下がって、やがてモニタには何も表示されなくなり。

そうか。僕の到着を待っててくれるなんて
最後の最後まで、気い使いで
83年間、本当にお疲れ様でした。
ありがとうございます。

写真は、手持ちの手帳にとっさに描いた父の臨終の姿。
死に顔を見つめていると
「描け描けここで描かなければ後悔するぞ」と
心の奥底に声がする。

何も描くものなんて持ってきてない。

かばんの中を探って、小さな手帳にようやく鉛筆ではしりがき。

凝視しているうちに、魂はもうそこには宿ってない、やっと自由になったのだ、ということをやっと実感した。

2018年3月13日火曜日

再入院




そして結局、父は再び入院と相成りました。何回目だろう。

入院というのは、診察から検査〜診察、IC、入院手続き、身の回りの品を施設や家から持ってくる…までほぼ一日費やすのです。

これを何度も繰り返しながら、家族にも覚悟が出来て

そしてお別れなんだ。

2018年3月11日日曜日

7年目

迫る津波と追いかけっこした父は
翌年には全ての記憶を捨て去り
今は近所の特養に入って4年目の寝たきり生活。

木曜から食べ物も飲み物も受け付けなくなり、昨夜は病院へ担ぎ込まれました。
この冬2度目。
いよいよかと思いきや。





今回は熱も肺炎もなく、点滴だけで帰所。驚異の生命力。

でも、そろそろお別れのことを真剣に考えなくてはならない。
食べられない、飲めない。
準備しろよとのサイン。






点滴中、ほっとして、ふとストレッチャーのキャスターをぼんやり眺めながら
くだらないことを考えてました。

「医療系のデザインは、ホントにやりたい放題やらせてくれたなあ」

とか。



一見見ると、転がり抵抗が莫大なのでエンジニアは決してこんな車輪の線は引かない。
でも、実際には中に仕込まれてるのはフツーのベアリングに過ぎない。



つまりはカバリングのギミック。
この見た目ギミックを、コストと衛生管理面と法規と機構設計と全方位的に知り、調整して具現化するのがデザイナーの仕事。

あ、コストは度外視だった!
そして営業ととても仲が良くないといけない。
散々飲み歩いた。

とか。


今春、母は塩釜の家に帰ることに…。

実家の仙塩地区では施設不足で父の入所が叶わず、僕の住む埼玉で入所。
父の看病のために母も移住。

3年経って、精神的にも限界が来て、向こうで最期を迎えたいと、父を残して。
父が食べなくなったのは、そのせいもあるのかなあ。


埼玉県内には、まだ3600人以上の被災者の方々が避難されています。

http://www.pref.saitama.lg.jp/a04…/documents/forhp300201.pdf


父母は別にこういった被災者にはカウントされてはいません。
でも、家が無事でも、家族が無事でも、情報も連絡も絶たれた状態で、寒さと不安と暗闇の何週間を寄り添い過ごした人々の思いは、何年経っても癒えることはないというのを、父母を通し、知ることが出来ました。

街は復興しても、心は、あの日のままの人もまだまだいる。

亡くなった友人や親戚の中にも、津波で亡くなっただけでなく、復興の最中、過労や心労やそういったものを抱えて逝った人が何人もいる。

年月が経つに連れ「花は咲く」を聴くたびに、胸が詰まることが多くなって来たのはなぜなんだろう?

どうか、一日も早く、全ての人が平穏な日々を取り戻せますように。


合掌

2016年11月19日土曜日

父82歳の誕生会

いつ訪ねても虚ろで眠ってばかりの父が、妹が訪ねて来ただけでいろんな反応や表情をする。

小さなレストランにてささやかな誕生日の会食。
流動食しか食べられないけれど。

特養の自分のベッドに戻ってからも、母や妹の手をいつまでも握って離さない。

誰なのかは分からなくても、意識の奥底では娘との再会が嬉しいのだという思いが伝ってくる。

あと何回こうして会えるだろう。

2015年12月18日金曜日

他力



他力本願の極意は、自分の気付きさえも天や神、仏からの借り物、授かりものであると感じること。

全ては「境地」の状態で天啓を待つという行為の中にあります。

境地とは、意識的に始めた行為が意識を通過せずに無我の状態に移行していること。

成った状態だけをイメージしていること。



2015年12月4日金曜日

良い氣を持つアートやデザインを

良いエネルギーを放ち、清浄な氣を高めてゆく。
それが運気を高め夢を叶える近道です。

良い氣を持つアート&デザインは輝かしい未来を運んできてくれます。
氣を整え、浄化され、気高い魂が宿ったかのようなエネルギーを感じさせてくれる
水晶市場の厳選アート&デザイン。

素晴らしい未来を手に入れて下さい。
いつもあなたに幸運と繁栄が寄り添いますように。

2015年12月1日火曜日

心に色彩を



色彩はわたしたちの心と魂に必要な栄養を与えてくれます。

エネルギー、安らぎ、希望、やさしさ、明るい気持ち、健康、富を求める力
安心、平和、美しさ、愛、調和、喜び……。

色彩には意味があり、役割があります。
そしてそれらが最良の組み合わせと光を得た時、今まで味わったことのないパワーを授けてくれます。

2014年7月11日金曜日

天命男

大きな駅の地下道を
よろよろ男が歩いてる
大きな荷物を抱えた初老の男
背中は曲がりよたよたと
右も左も背中にも
「天命」大きく殴り書き

抱えきれずに荷物ごと
こけつまろびつ、ひとごみを
行き交う人はさげすんで
舌打ちしながら去ってゆく

女が一人うずくまる
雑踏の壁によりかかり
靴が片方転がって
顔を歪めて足さする
希望の見えない唇に
誰も気づくことはない

たったひとりを除いては
男が女に近づいた
両手は荷物で塞がって
顔は重みで歪み切る
なのに眼光らんらんと
鋭く女を見据えやる

近づく気配はただならぬ
歪んだ顔と眼光と
今にも襲い掛かってくるのではと
女は怯えて身を捩る
足が痛くて動けない

男は荷物を持ち替えて
女の腕とり引き起こし
靴を拾って足元に
置いてよろけて踵を返し
一人でよろよろ歩き出す
右も左も背中にも
「天命」大きく殴り書き




2014年5月17日土曜日

蔵王2014春




蔵王は相変わらず美しかった。

認知症の父と、介護疲れの母
二人がもう何十年も通っている場所。


蔵王連峰は震災後、福島第一原子力発電所からの風を
奥羽山脈の中で一番最初に受けとめた場所だ。

けれど、蔵王は相変わらず美しい。
空気も木々も変わらず命を謳歌し、虫が飛び、花が咲き乱れていた。



この数年間、私達の親族もまた、津波と原発事故に翻弄された。
命を拾った。

二人が住む塩竈市は仙台湾に面している。
家は残った。
海産物も、農産物も、もう二度と子供達に食べされられないのではないかと
不安になったこともある。

でも、もう私達は「それ」と向き合って生きることを決心している。
慣れたのではない。

まだ帰れない人たちがいる。
もうすっかり日常に戻った人たちもいる。
帰れたのも人生、帰れないのも人生。
僕の住む森と田畑に囲まれた豊かなこの地にも、たくさんの帰れない人たちがいる。

僕は、ただ感謝している。
家も流されず、家族もみんな生きて
今、こうして残された時間を
平穏に生きていられる事に感謝している。

みんな一所懸命に生きている。
だから僕も一所懸命生きる。

たかがマンガの内容に噛み付く人たちがいる。
いやそれが真実だと言い張る人たちがいる。
僕にはどちらも同じく卑しく醜く見える。

(あんなもの、30年前から嘘と悪口ばっかり描いてるじゃないか)

騒ぎ立てる人たちは、父のこの数年間の闘病生活をつぶさに知ったら
「放射能の影響だ」「いや関係ない」と言うに違いないだろう。
どっちの立場で何かを言っても、必ず誰かに攻撃されるだろう。

父の最初の病気のきっかけが、数キロ離れた海岸の
仙台火力発電所の排気が原因だと言ったら?

関係ない場所にいる人ほど、騒ぎ立てる。
自分に累が及んでいないから、及びそうになることが怖いのだ。

「自分が怖いんじゃない、福島の人たちの事を思っているのだ」と言うのなら
政治家に「福島に住め」というのではなく
自分が福島や宮城に住むといい。
それが一番被災地の人たちを励まし、復興を助けてくれるだろう。

そんなに命が惜しいか。
そんなに命が惜しいなら僕の命をくれてやろう。
それであなたの命が延びるのなら
こんなものいくらでもくれてやる。

命や健康に執着して他人を攻撃したり寛容さを失っていく人たちを見たくない。
文明に浴し、自分のケツももはや紙で拭けなくなった人たちが
文明に文句をつけ、政治家や電気屋のせいにするのも
意見が違うからといって罵倒したり貶めあうのを見るのももうたくさんだ。
誰かを貶めるのは、日本人の仕事ではない。

原発が悪いとか悪くないとか、どうでもいいことだ。
女川では避難所になって多くの命を救ってくれた原発
大熊や双葉では多くの人たちが帰れなくなってしまった原発
日本の経済と夜間電力を支えてくれた原発
多くの人たちのふるさとを奪ってしまった原発

本当は誰にも非なんかないのに
何かのせい、誰かのせいにしてそんなに楽しいのだろうか。
いや、誰かのせいにしていれば安心なのだろう。

安心したいなら、僕のせいにすればいい。
せいにすることで、放射線が消え、政治が良くなり
日本や経済がよくなるのならそうすればいい。いや、ぜひそうして欲しい。


それでも山は変わらない。
木々も変わらない。
花も変わらない。
動物たちも、虫も、温泉も
何一つ変わってはいない。
何も変わらず
でも、一つ残らず変わってゆく。

生まれ、生き、死んでいく。
放射線があってもなくても、人も動物も木々も全て、生まれ、生き、死ぬ。
山も海も地球も宇宙も、生まれ、生き、死ぬ。



生まれて初めて、父の背中を流した。

父は前を向いたまま
「お世話になりますねえ」
と何度も頭を下げた。

僕はずっと前から、これからも、僕だ。