大学時代、学生の間でどこからともなく、古いヨーロッパの諺と称して(真偽は分からない)こんな言葉が聞こえて来た。
「絵描き一代音楽家二代デザイナー三代」
食えるようになるまで、絵描きは一代でものになるが、音楽家は親子二代、デザイナーは親子孫三代に渡って頑張らなくてはならないと言う意味だ。
生まれた境遇や教育環境のことを指していっているのだが、いかにも「ヨーロッパwww言いそうwwww」な流言ではある。
実際には現代は、音大や美大も用意されているし、系統だった情報や知性やセンスに触れることも、その気になりさえすればいくらでもできる。一代であっても努力と才能で素晴らしい音楽家やデザイナーになっている人たちはたくさんいる。
しかしながら凡人にとっては、努力を積み重ねていくうちに、努力だけでは如何ともし難い壁というものを何度も感じることがあるものだ。
僕は早くからバイオリンやギターで音楽教育を受け、自ら進んで絵の師匠に付き、はたまた大学では工業デザインを専攻し、社会に出てからは成り行きとは言えデザイン事務所法人を長年経営してきた。
なので先述の3つのことは全部、割と本気でやってきた。その上で、あの言葉には長年反発しながら、また時には実感として「ああそうだな」と、身に染みているところもある。
自分にとってせめてもの救いなのは、現在一番力を入れている「絵描き」については一代でものになるらしい、というところだろうか(笑)
言葉の呪縛とは恐ろしい。たとえ根拠のないものであっても「そうらしい」と言う言葉に多感な10代が触れてしまえば、どんなに反発してもその言葉の呪縛から自分を剥がしていくのは、実に骨の折れる作業になる。
そんなだから僕は随分と長いことフラフラしていた。
母は、家でピアノを子供たちに教える仕事をしていたから、二代目の僕は音楽家にはもしかするとなれたのかもしれない。
実際、妹の方は難関と言われた音大のピアノ科を卒業し、主婦となった今でも細々ながらも音楽の仕事を続けている。
本人は才が無いと自分で言っていたが、高校時代に彼女が弾くショパンの「幻想即興曲(嬰ハ短調)」には、間違いなくショパンの熱情が映り込んでいた。
「映り込むぐらいじゃなれんのよ」と言われそうだが(笑)
しかし、兄の僕はといえば音楽は聴くものであって、世の中で要求されるような音楽を作る才も演奏能力も、どんなに努力しても人並み以上に上達する事はなかった。
父は、公船の機関士だったが、僕が物心ついた頃には、陸に上がり実業高校の教師となっていた。
僕が大学に入り、得意な絵画の方に進むのではなく、工業デザインを選択したのは、父の背中を見ていた影響かもしれない。
しかしお世辞にも優等な学生とは言い難く、大学に入ったらやめようと思っていたはずの音楽を、友人に誘われるまま再開し、次第にバンド活動に耽溺、4年間をほとんどデザインとは無縁の状態で過ごしてきた。
それでも音楽家にはならなかった。いや、なれなかった。
2年間の教員生活を経て、とうとう僕は大学まで行かせてくれた父に「教師は続けたくない」と告げた。
僕にはやりたいことがあった。
父はと言えば、終戦後ソ連軍の占領下にあった樺太から命からがら引き上げ(ソ連から見れば逃亡、見つかれば銃殺かシベリア送り)、下北半島の不毛の開拓村で掘っ立て小屋から再スタート、さらに一家を助けるために漁船員になり、そこからさらに苦学しやがて公船の機関士になり…という、戦後復興日本を絵に描いたような苦労人であった。
そんな苦労人の父は、子供の勉強や努力といったものに対して実に手厳しい人ではあったが、不思議と僕の進路については「ああしろこうしろ」とは言わなかった。
母にとっては随分と希望や失望もあったろうが、父は「やりたいことがある」という僕に「そんなに言うならやってみろ」と言ってくれた。
おかげで僕は随分と自由に自分の人生を考えられるようになった。もちろんその自由と引き換えに失うものも多いことは分かっていた。
自由とは自己確立と自己選択である。そしてその選択には責任やリスクがついて回る。困難も失敗も織り込み済みである。それを跳ね除ける強靭さも要る。
父は自由に自分の人生を選択できる境遇には無かったが、自己の存立、確立のために、絶えず自己選択し、境遇、環境と闘い抜いて、最終的に「教師」という地に到達して来た人である。教師となってからも随分と武勇伝はあったようだが、僕の知る限り概ね平和で穏やかな後半生である。掛け値なく、境遇を跳ね除け人生の闘争に勝利した人生であった。
しかし彼は「人より何倍も勉強した」とは言っていたが、決して「苦労した」とは自分で言ったことがない。
そんな父の「やりたいようにやってみろ」という言葉を放つ目は決して甘い親の優しい目だったわけではない。
時代環境に翻弄され、闘争の連続であった自分の時代とは違う意味で「用意された環境を捨てるなら、お前も自力で闘ってみろ」と言ってくれたのだと、僕は今でも思っている。
前述したように、その後の僕の自由は、謳歌だけでなく常に失敗や困難と背中合わせだった。失敗の多くは自分の覚悟の足りなさから来るものが断然多く、父のそれに比べたらまだまだ甘いのは重々承知だ。
しかしそんな迷いや困難の数々も、月並みな言い方で言えば見事なまでに点と点が結ばれて線となり、今や気付けばそれが広大な多角形を作り出して、僕の創作や人々へのささやかな貢献に、多大なベネフィットを与えている。
結果的にそれらは失敗でも困難でもなく、乗り越えた先の僕の大切な財産となったのだ。
今僕は、人としての喜びも痛みも恥も哀しみも人並み以上に味わうことができている。
覚悟というものの本質についても今では少しは分かるようになり、あの時決断しなければ到底到達できなかったであろう人生観や哲学にも幸運にも出会うことができている。それが自己創作の深部に多大に貢献していることは疑いの余地がない。
そしてそうし続けて来れたのは、自己選択とそれに呼応して節節に助けてくれた人々のご恩の結果である。
そう感じた時、僕は初めて父が歩んで来た場所の一部に自分も足を踏み入れられたような気がした。
人とは結局、それぞれに与えられた境遇や宿命を自己確立という意志の力でねじ伏せ乗り越えていく存在に他ならない。
そこに時代も環境も関係ないのである。
どんな境遇に生まれようと、人は自己責任を全うし自己選択する限り、一代にして自己を確立できる。しかしその人が背負うものの重さはその人にしかわからないし、誰も代わりに背負ってくれる人はいない。それを教えてくれたのが父のあの一言であった。
結果、迷いも失敗も全て誰のせいにすることもなく自己に帰することで糧とし、また「苦労した努力した」などと吹くこともなく済んでいることは、本当にありがたい事である。
迷い戸惑い乗り越えた先に見えるものの価値は、本人にしか分からない隠された宝石である。
達成や喜び、また逆に困難や岐路に立つ度、偉すぎな父を思い出しても、俯く事なく少しはそう思えるように、最近は、やっとなってきた。
アーティストでデザイナーでヒーラー、サトチヒロのまぜこぜブログです。絵や芸術の話、制作過程、氣や魂やエネルギーの話、音楽の話、パイプ、オールドカメラ、クルマの話。 /アートストンギャラリー(銀座)所属
2023年8月18日金曜日
「そんなに言うならやってみろ」
2023年6月15日木曜日
じくなし
2022年12月20日火曜日
マミヤのコントラスト
亡き父のマミヤ……はしばらく前に母が売り払っていた。
取り戻そう……と思って中古カメラ屋やネットオークションをだいぶしばらく彷徨った。
けれど、そのカメラは1950年代のマミヤの技術の粋を集めたような複雑な機構が売りで、調べていくうちに、おそらく手に入れられたとしても、60年後の今、まともに動くものを取り戻すのは無理だと分かった。
そこで僕は、父のものよりさらに4〜5年ほども旧い、性能は変わらないがややシンプルなモデルを手に入れることにした。
初めて現像から帰ってきた写真を見た瞬間
「あ、子供の頃に見た、あの光だ。」
と思った。
マミヤの光は、陽だまりだ。
「忠実故に平凡」と誰かが言ってたけど、僕にとってのマミヤはそうじゃない。
幼い頃の家の、マサキの生垣に反射した陽射しが、淡い緑と陰の深い深いコントラストを作り出し、その温度差まで伝わってくる。
生垣の陽だまりで感じた肌の温もりを今でも覚えていられるのは、父のマミヤのおかげだ。
そしてこの緑のコントラストは、今の僕の作風にも強く影響している。
僕のアート人生の大半は、色とコントラストの追求の歴史といっても過言ではない。
「黒を使うな」という最初の師匠の鉄の掟は、30代後半まで僕を苦しめた。
黒を使えない絵は、コントラストが甘くなる。
結果として色相環を無意識レベルで扱えるようになるまで叩き込むことになる。
もちろん今は4種類以上もの黒を使い分けて多用しているが、そんなこともあって黒という色を使わずにコントラストを上げる方法を10代は身につけた。
アクリルや水彩では、黒は「黒」だが、油彩ではピーチブラックやチャコールブラック、マーズブラックなど何種類もの黒がある。
プラス、僕はインディゴやペインズグレイ(国産と海外製とではこの色の意味するものはだいぶ違う)、さらにはプルシアンブルーを、混色やグレージングを利用して「黒」として使う。
それは、光のコントラストを確実に豊かなものにしてくれる「黒」達だ。
加えて「水晶」である。
水晶は、パワーストーン、パワーアートとしての役割だけを狙っているのではない。
光を集め、コントラストの極の一端を担う、大切な「画材」である。
強いコントラストは、強さと同時に優しさや懐の深い奥行きや暖かみも表現してくれる。
そんなコントラストを教えてくれたのが、幼い頃の、父のマミヤだった。
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