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2016年12月19日月曜日

言葉はとても大切で重大なものである



私たちは普段、何気なく言葉を使っている。

けれども言葉はとても大切で重大なものである。

何気なく言い放った言葉だから世界を変える力なんてないと思うのはとても危険な考え方だ。
どんな言葉でも人の思いも言動も住む世界も一変させてしまう。
だから言葉は大切に扱わなければならない。


ある日突然、自分が発した「あの時の言葉」が成就する。
思いもかけないようなプロセスで。
気付いた時にはもう結果が出ている。

そして自分が言い放った言葉に感謝したり、後悔したりする。

言葉の力には人称が効かない。
言葉には嘘が利かない。

全てが自分のこととして帰ってくる。
そして言葉にしたことは必ず起きる。
言葉を発した瞬間にそれは成就に向かってセットされる。

あとはカウントダウンがあるだけ。
プロセスも選べない。結果を待つだけ。
祈りも呪いも祝いも同じ。
言葉の力は善悪を判断しない。

発した言葉のカウントダウンを止める方法はあまり多くはない。

言葉はとても大切で重大なものである。

2015年12月18日金曜日

他力



他力本願の極意は、自分の気付きさえも天や神、仏からの借り物、授かりものであると感じること。

全ては「境地」の状態で天啓を待つという行為の中にあります。

境地とは、意識的に始めた行為が意識を通過せずに無我の状態に移行していること。

成った状態だけをイメージしていること。



2015年12月4日金曜日

良い氣を持つアートやデザインを

良いエネルギーを放ち、清浄な氣を高めてゆく。
それが運気を高め夢を叶える近道です。

良い氣を持つアート&デザインは輝かしい未来を運んできてくれます。
氣を整え、浄化され、気高い魂が宿ったかのようなエネルギーを感じさせてくれる
水晶市場の厳選アート&デザイン。

素晴らしい未来を手に入れて下さい。
いつもあなたに幸運と繁栄が寄り添いますように。

2015年12月1日火曜日

心に色彩を



色彩はわたしたちの心と魂に必要な栄養を与えてくれます。

エネルギー、安らぎ、希望、やさしさ、明るい気持ち、健康、富を求める力
安心、平和、美しさ、愛、調和、喜び……。

色彩には意味があり、役割があります。
そしてそれらが最良の組み合わせと光を得た時、今まで味わったことのないパワーを授けてくれます。

2014年7月1日火曜日

高齢になってからの新築


高齢になってからの新築や引っ越しはなるべく避けたほうが良いと言われます。
昔から普請の後は健康に気をつけよと言われています。


氣の流れが激変すること
木にまだ命が宿っていて強いエネルギーを発していること
木の揮発成分は身体に良いものだけでないこと
建材の合成揮発成分
建て替えのための引っ越しの疲労やストレス
土地の氣の変化など
様々なものが心身にエネルギーの放出を強要する。

良い木を使っても、安い合成建材を使っても、コンクリートでも同じく注意が必要です。

若い時は人間のエネルギーが勝つのであまり目立ちませんが、60代を過ぎたら注意深く普請してくださいね。

もしも体力的に体調的に自信がない場合は改築やリフォームがいいと思いますよ。

2014年5月25日日曜日

ストレスと脳と陰と陽、祈り

ストレスとは、悪循環そのものです。


極度のストレスや疲労が長期間連続して、あるいは断続的に続くと、脳の記憶や論理思考を司る連合野のエネルギーが解放されにくくなり、血行が滞りやすい体質になります。
考えれば考えるほど、ますますリラックスし難い体質になっていくのです。

リラックスできないと、常に緊張状態で物事に当たるために、さらに行為そのものや外的環境に対してストレスを感じてしまうことになります。

考え込みやすい人とは、そういうタイプの人で、うつとは脳のエネルギーの滞り、いわば肩こりのようなものです。
この肩こりが長期間続くと、最終的には身体や脳の部位の物理的寿命を著しく縮めてしまいます。

それを防ぐためにはどうしてもエネルギーの解放が必要で、薬理的な言い方をすればドーパミン放出を強制的に行おうとする行為が必要となります。
それがアルコールをはじめとする薬物の摂取やドーパミン放出行為そのものです。

壊れた神経細胞は物理的萎縮によって不可逆的に変質してしまいますが、神経細胞が壊れるか補完されるかは、本人の身体年齢やドーパミン放出を助ける物質や行為の陰陽によって大きく左右されます。


ここで適度なドーパミン放出がなされればいいのですが、急激に大量のドーパミンが出てしまったり、その行為のみによってしかドーパミンが放出されない状況になってしまうと、依存につながってしまいます。

ドーパミン放出を強力に手助けしてくれるような薬物や行為は、脳の神経伝達系を補完増強するよりも、むしろ壊してしまうもののほうが多く存在します。

ドーパミン放出のきっかけとなる物質、行為、その経過が陰性である場合、脳には深刻なダメージが起きます。

その陰陽は量や元々の体質との兼ね合いによって決まるので、これが陰、これが陽であるとは明確な区分けは出来ませんが、例えば陰性の体質の人が陰性の薬物を服用すれば少量でも不可逆的変質は加速的に起きてしまいます。
逆に陽体質の人が多少の陰性物質を取り込んでも、さほど影響はないということになります。

参考までに、ドーパミン放出を助けてくれると言われている物質のどういうものが陽と陰の傾向を持つか、抜粋しておきます。

陽の傾向を持つもの
少量の肉、暖色系の野菜、火を通したもの、少量の茶色または黒い食べ物(油を除く)、少量の醸造されたアルコール、少量のシガレットでない喫煙、健康的な笑い、適度な性行為、趣味、適度な運動

陰の傾向を持つもの
白い食べ物全般(白米、砂糖、乳製品、小麦など)、生野菜、油、蒸留されたアルコール、過度の飲酒、過度の喫煙、純粋に抽出合成された薬物全般、不健康で他者を傷つけるような笑い、過度の性行為、過度の運動、悪口や批判、呪い

過度の陽(極陽)は、全て転じて極陰となります。つまり上記の陽の傾向を持つものは、量が増えると簡単に陰に変わります。
また、元々極陽であるために注意が必要なものに以下のものがあります。
辛い食べ物、スパイス、怒り、ギャンブル、自動車や機械の運転など。

陰陽の呪縛から離れて全てのストレスのエネルギーを簡単に、そして完璧に解放してくれるのが「力ある祈り」です。

2014年4月20日日曜日

直観と祈りのとりとめないこと

3月中旬ぐらいから徐々に始まっていた「シャマンモード」が3日ぐらい前からピークのようです。

シャマンモードというのは、自分で勝手に名づけている精神の状態のことで、子供の頃からの不思議な能力が開花するサイクルなのです。軽いのは多い時で1ヶ月に一度、重たいのは半年に一度はやってきます。

普段もそうですが、シャマンモードの時は、人と話していて、その人の未来が漠然と見えたり、直観が鋭くなって(「直感」ではなく「直観」と呼んだほうがピンと来るのでそう書きます)分かる事が多く、そして何よりはっきりしてきます。

その代わりすぐに瞑想状態になるので、無口になったり社会性が極端に落ちたりやたら眠くなったりと、一見精神疾患ではないかと思うようなところもあります。
でもうつやナルコレプシーではないのです。

一人でいて瞑想状態にある時、至福の瞬間があります。仏教でいうところのニルヴァーナの状態です。
天とも神ともつかない心に響く大きな智慧の存在が自分を支配し、自己が消えます。そしていろんなことが瞬時に見通せるようになります。
もちろんそれは自分が普段から焦点を当てているものだけですが、氣を発するものについてなら結構向こうから飛び込んで来る事もあります。それで「分かる」のです。

要するに感性がやたらと鋭くなってしまうのです。それで本能的に不活発な状態になるのだと考えています。こういう時に変な氣に触れるととっても疲れます。

今回は不思議とそれが軽くて済んでいるようで、まあ、だからこうしてブログを書いていられるのですが、社会性はそれほどスポイルされずに済んでいます。


思考の癖と直観との関係は面白いもので、何か一つか二つのことについて興味を持ち始めたり焦点を絞って考え始めたりすると、数ヶ月間、そのことで頭の中がいっぱいになります。
そうして起きている間じゅうそのことだけを考えているうちに、ある時突然全てのことが直観的に分かり見える瞬間があります。
その直後ぐらいから急激に他の事象にもその直観が及んで、シャマンモードに突入します。

シャマンモードの時は祈りの力も強くなります。
それは自我や私欲が薄れるからです。


祈りは自我や我欲と相性があまりよくありません。
他利的で多欲的であればあるほどその祈りは強くなります。

しかしそれでいて、愛も必要なのです。
この辺は言葉で説明するのがとても難しいです。

「突き放して祈る」とか「手放して祈る」とか表現します。

それが成就する事について自分を勘定に入れずに祈るのです。

直観もそうです。
自分を勘定に入れずに何かを見る時、それは実に的確な像を結びます。

本来は誰にでもできることです。

2012年8月10日金曜日

神サマとの復縁

人は本当に困ったとき、神仏に頼ります。
そして神仏に何かを祈る時、人は一心に祈ります。
必死に祈ります。

けれども人生がうまくいっている時はどうでしょう。
願いがあっさりと成就した時はどうでしょう。

神サマのおかげ?
いやいやそれどころか、自分のおかげと思うかもしれません。
人によっては神の存在すら忘れてしまうかもしれません。

そもそも神とは何でしょう。

あなたに何かをしてくれるだけの存在?

叶った時に、自分のおかげだと思うのはまだマシです。
逆にもしも祈りが通じなくて望みが成就しなかったりしたらどうでしょう。
神様に文句を言ったり呪ったりする人も少なくありません。
「神など存在しない!」と言う人さえいます。

そうして神様は人から離れていくのです。

でも、神様はあなたをすぐに見捨てる訳ではありません。
しばらくは、こっそりと、あなたをいつでも見守っています。
ただ、あなたが神様にいくら問いかけても
もう神はあなたに返答することは二度とないのです。
いくらメールを送っても、返信がこなくなってしまった恋人のように。

でも、いつしか祈りも通じにくくなって。。。

神と復縁して、祈りと言葉を交わせるようになってください。

そのために「神に感謝しろ」という人もいますが、大切なのは感謝ではありません。

もしも神に愛されたいのなら
あなたが「気にかけてあげる」ことです。
カミサマは一体今、何をしているんだろう。
カミサマは幸せだろうか。
カミサマのために何かしてあげられることはないだろうか。


神様とお話をしたいなら、あなた自身が神様に関心を持ち
労ってあげる必要があるのです。
自分が神のために何をしてあげられるか
いつも考えて意識をそこに集中している必要があるのです。

忙しいから神サマなんかにかまってる暇はないのなら
神サマもまた同じようにあなたにかまってる暇はなくなります。

うまくいってるから神サマが必要ないのなら
あなたが必要としている時にも神サマは不在でしょう。


自分がしてもらうことの大きさだけを、愛の大きさと勘違いしてはなりません。

あなたの愛と興味と、気にかけてあげる心の余裕こそが
神からあなたに注がれる愛の深さそのものなのです。


2012年5月26日土曜日

リーディングセッションには、明るい未来だけがある。


たまにはリーディングセッションのお話も。


私のセッションの特徴を少しだけ。


「リーディングでは、決してその人の未来の不幸を見てはいけない。」



というのが私のリーディングの鉄則です。 


なぜなら、未来は変えられるから。

そして、全ての人は
「生きて良かった」と思える未来を歩む権利と義務があります。


未来を見る人間には、それを伝える責任があります。


かつて私のリーディングの能力が特殊能力であることを気づかせてくれた恩人に

「あなたみたいに霊感霊視に頼らずにズバズバ当ててしまう人はあんまり見たことがない。」
と言われた事がありました。


そして同時にもう一つ言われたことがあります。

「悪いことを言わないのはいいことだ」

多くの占いや霊感霊視は、仮に悪い未来を見てしまっても、それをほぼそのままクライアントに伝えてしまう。そして後から「そうならないために」ということを言います。


しかし一度言葉にしたものは、ほぼ確実に固定化してしまうのです。
全ての予防策はほぼ無駄骨に終わります。
この大法則を知らないまま占い師や霊能者を自認する人のなんと多いことか。
本人にとっても周りにとっても危険この上ない事です。


悪いことまでそのまま伝えてしまうのはカウンセリングでもリーディングでもなんでもなく、迷信と運命論に支配された、原始シャマニズムに過ぎないと、その恩人も喝破していました。



ただ、そうは言っても私とて霊視的な何かに頼らないで全てを完結している訳ではありません。


やはり正確に見ようとするために、知識や先入観を取り払って、原始のシャマンのような状態になることもあります。
でもそうすると、やっぱりというかたいていというか、かなりしんどい未来をその人の中に見てしまい、セッションの途中で具合が悪くなることもあります。


こういうことをやってるから、占いや霊視の人はたいてい長生きできないんですね。
そんなものを占い師やセラピスト自身が見ることも、クライアントにダイレクトに伝えることは、誰の得にもならないのです。


私のリーディングの引き出しは幾重にも重なっていて、クライアントによってセッションのプロセスは全く異なることがあります。


例えばある人には、シャマンモード全開で、最初から見えるものを伝え切ります。シャマンモードで得られるのはほぼ100%映像だから、見た映像を話せば良いわけです。このアプローチで進めることができるクライアントは、私が見た映像だけで全てを理解してくれます。


逆にシャマンモードでは絶対にダメな場合があります。それは現在の状況が極端にしんどい方、肯定的な人生観や氣の泉がすっかり枯れてしまっている方、そういう人に対しては、私は最初からシャマンモードを閉じてセッションを始めることにしています。


見える映像シャットダウンするのは、かなりやりにくい作業です。けれど、それでもシャットダウンすることで、違うアプローチにスイッチします。


クライアントからの言葉が10に対して、私の言葉は1か2程度。そして起こりうる事、起こすための条件や前兆は、私の全て私の瞑想の時に現れる「声」を通して伝えます。
それは最初、まるで絡まった釣り糸を解きほぐすような作業です。


目の前にいる、あるいは電話の向こうにいる相手に氣の焦点を合わせ、声を聴き、話を聴き、絡まった釣り糸をほぐすように、原初となるその人のキーワードを探します。ここまでは表層意識がかなり活躍します。


そしてある瞬間、キーワードにたどり着く。そこから瞑想状態が始まり言葉が出てくるのを待つ。
言葉は私の口から発声はされるけれど、実際に私はあまりその内容について覚えている事は多くありません。時間にしてだいたい1020分程度、私はある種のトランス状態に入って言葉を並べていきます。


そこには悲劇的や絶望的な未来を表す言葉はありません。そういう言葉を、トランス時に放った感覚経験は全くありません。もちろん予感もです。


この現象は分析的に考えると、何か「こう生きて欲しい」とクライアント本人に伝えようとする、特定の意識がどこかに存在し、それを私の口を介して話しているようにも思うことがあります。


数年前、東北の沿岸地方のクライアントに「引越し」を薦めた事が続きました。あくまでも結果的にそうなっただけです。理由は分かりません。自分でも「ワンパターンだな」と、意識で考えるとそう思いました。


でも、セッションになると決まって「その地から離れることで氣の滞りがとれる」とか「あなたの望んでいる人との出会いは別のこれこれこんな地にある」とか、そういう言葉が続きました。


だから、私は地震や津波を予知した訳でもないし、そんなものしたくもありません。霊視してそんなものを見た日にはまともにセッションなどできなくなります。


ただ、そういう形で一人一人状況も事情も違う形で、命を守ったり未来を明るく変えようという声、ベクトルが働いている事だけは確かなのです。私はそれを「神の声」と呼んでいます。


「神の声」からは絶対的に愛の言葉しか聞こえてきません。そのクライアント自身の命を膨らませるような、許しと愛の言葉。。。もちろん罪とか罰とか因果応報みたいなこととは全く無縁です。


本当は、このような「神の声」は、心の耳を澄ませば、誰にでも聴くことができるものだということを私は知っています。ただそれを実現するためには、ちょっとした修行めいた事や、現代の社会生活に少しく支障をきたさなければならないライフスタイルも必要だったりするので、なかなかできる人がいないだけです。


もう一つ難しいのは、それぞれが「自分の事」を神の声から得られるものはとても少ないということ。なぜなら、客観視できないから。


この客観視というのはとても重要なことです。


「声」も「映像」も、自己や他者を客観視できないうちは、正確な像を結ぶことはありません。
これさえできれば、リーディングの8割は終わったようなものです。


トランス状態が進むと、言葉が勝手にその人の未来を語りだします。それは神や宇宙の原理に則った決まりに沿っているので、その人の魂にふさわしい命の繁栄と豊穣の未来がどうであるのか、そのためにはどう生きるのがいいのかを、指し示してくれます。


愛や生命の繁栄というものを実現できるベクトルそのものです。


結果として、悪い未来なんぞ一切見なくても、クライアントの未来を明るい方向に持っていくようなプロセスを示す事ができるようになるのです。それは生命繁栄という神や宇宙の原理に逆らわない、輝かしい未来から今を見つめるようなセッションです。


もちろんそれを実現するためには、クライアント自身の努力や、まっすぐに受け取ることができる素直さが必要ではあるのですが、それについてはまた別の機会に。



2011年12月15日木曜日

今日もリーディングセッション

どんな状況でも、目標や夢、それはワクワクすることである必要はありますが
それを忘れずにいさえすれば、あとは楽しく過ごせるのです。 

私のクライアントは、みんな素直で素晴らしい。 


悩みを持って私のドアをノックする。
荷物を全部置いていく。
セッションで、身も心も軽くなって、明日が見えてくる。
そしてどんどん卒業してゆく。 


素直に人生を楽しもうとする人はみんなセッションから卒業できている。 
何よりも嬉しい。 

素直さと、楽しむ心こそが、その人の幸せを作り出す。 


今日もまた、ドアを叩く音がする。
苦しんで、やっとの思いでたどり着いた誰か。
悩みはなんですか? 

大丈夫。 
素直な人は、どんどん良くなる。 

素直になれない人は来ればいいと思う。 
かたくなな心を解いてあげる。 

そして素直になる。 
素直になると楽しいことが増える。 

そうすれば明日が見えてくる。 


2011年11月1日火曜日

心のみちびき地蔵(地震予知の話)

連続Tweetした内容を、まとめ、加筆修正して上げておきます。


2011年は、これまで私たちが体験したこともないような地震、そして大津波、原発の事故、大災害と悲劇が日本を襲いました。
実際に被害に遭われた方々のみならず、被災地から遠く離れたところに住む多くの人々の心にも、深い傷を残す出来事となりました。


また地震が来るのではないかと不安に震えている方も多いと思います。2004年のスマトラ島沖地震がそうだったように、プレートの大地震は必ず大きな余震と、近隣のプレートの大地震を呼び起こすからです。


311以来、私の元にも「また地震が来るのでしょうか?」「いつ頃来るのでしょうか?」というメールやメッセージがかなりの数来ています。


全てにきちんとしたお返事ができずに誠にすみません。
気持ちは痛いほど良く分かります。誰もが知りたい事です。
で、申し上げておきますが、私は地震予知はできません。ですのでお答えできないのです。分からないのです。たとえ分かっても言わないと思いますが、何しろ分かりません。


これまで幾度となく私が申し上げているのは、地震がいつ来るかとかどこに来るかというのは、科学的にも経験的にも体感的にも動物的にも超能力でもオカルトでも、100%の予知は不可能なのです。「どこそこで明日起きる」などというのはデマかまやかしの類だということです。




身近な例で言えば、部屋の、床の上に不安定に積み上げた本の山が崩れる日時を、あなたは正確に言い当てることができるでしょうか。「不安定に積み上げた本の山」というのは、本の山が崩れる、つまり地球で言えば「地震が起きる可能性、を高くはします。もしも家が安普請で、家の外をクルマやトラックが通っただけで家が揺れるとか、部屋の中を歩いただけで床がきしむとかそういう状況があるなら、本の山が崩れる確率はさらに高くなります。


地震が「明日起きる」「何日以内に起きる」と言っている人の多くは、山積みの本を前にして、家の前をトラックが通ったり、近くをネコが通ったりした現象を指して「だから起きる」と言っているに過ぎません。


繰り返します。
具体的な地名や日時を挙げて、大災害が起きるという予言予知は、どんな大科学者にも、どんな超能力者にも不可能です。断言します。


私の身近でも、「2011〜2012年頃に人がたくさん死ぬ」と予見した人はいます。彼らはとても真面目で善良な人です。しかし彼らですら、それがどこで起きるか、いつ起きるかまでは分からなかったのです。


そういう予見ができる人は善良ですから、分からない事まで分かるフリはしません。そういう人ですら「関東あたりじゃないか」という、先入観念を振り切ることはできませんでした。


私は、地震は起きないと言っているのではありません。地震は起きます。しかし日本列島には、山積みの本がいたるところにあります。どこで明日大地震が起きてもおかしくないのです。ですが、だからこそ「明日、どこそこで起きる」という予言や予知は、無意味なのです。


地震は今日も起きます。明日も起きます。地殻のエネルギー放射はとどまることを知りません。


だからといって、私達が無力だというのではありません。


災害の危険性可能性を言い、対策を練る事は大切です。が、やたらと具体的な予言はいたずらに人を惑わします。科学的であろうとなかろうと、確率の低い(なのに、日時や場所の特定がやけに具体的な)予言や予知のたぐいは、かえってそれぞれの直感を鈍らせてしまうということを言いたいのです。


地震が起きてもあなたは護られ、起きなくても護られます。あなた自身を守る力が、あなたにはあるのです。


地震の被災地においても、数キロ四方の差で甚大な被害を受ける場所と、全く被害のない場所があります。そして全く被害のない場所に住んでいる方でも犠牲となる方はおり、甚大な被害を受けた中で生の奇跡を体験した人もいます。


私が長年いろんな人に言い続けている事の一つに「その場所にいたいかどうかという直感を大切にしてください。」というのがあります。これは災害に限った事ではありません。土地の氣は、数年〜数十年単位で大きく変化し、人間に快不快や感情、情緒に影響を与える力を持っています。


それは数十メートル四方単位であります。道路や家の配置が変わっただけでも変化します。それが数キロ四方単位で同じ様な氣が渦巻いているとすれば、その地は住むに適さない、あるいは少しの間離れた方がいい、というものです。これを私はずいぶん多くの方に伝えてきました。


それでもその精度はせいぜい絞っても数年です。そして災害と関係するとは限りません。今回の大震災で被災地となった場所に住む何人かに、引越しを薦めた事がありました。でもそれは今から3年以上も前の話です。「災害が起きるから引っ越せ」ではないのです。単にその人の周囲の氣を読んで直感で見えただけです。


つまり、災害予知というのは、災害そのものを見る事はできないということです。できるのはその人に限定した未来の映像、そしてその人を今取り巻く氣の渦、そしてその土地の氣。この3つの予見のみです。これはほとんどの能力者に共通する普遍的なものだと私は感じています。


どんなに超能力を持った人でも、震源を言い当てることはできません。しかし目の前の人を通してみれば、その人が受けるであろう運命を軽くするような予見をすることはできるでしょう。つまり、「地震は起きますか」には答えられなくても「自分はここにいるべきか」ぐらいは答えられるということです。


1つだけ言えることは、日本列島の中でも例外的に災害や試練の起きにくい土地と、災害に限らずとも様々な試練が起きやすい場所というものは、科学的検証に頼らずとも判別できるということです。興味深い事に、それは土地の氣に影響された「人の氣」に如実に現れているのです。


私は今回の大震災の被災地の一つで少年期を過ごしましたが、そこにはみちびき地蔵という、恐ろしくも悲しい伝承があります。今回の震災で有名になりましたから詳しい説明は省きますが、みちびき地蔵というのは、死者を見せるという怪談のような話だけでなく、津波から人々を救うお地蔵様としてその土地では認識されています。しかしみちびき地蔵は、全ての人に津波を教えることはありません。めいめいに教えるだけなのです。みちびき地蔵が見える人にだけ教えるのです。


それは「自分にとっての直感、自分にとって必要な運命」です。


大切なことは、予言を信じて逃げる事ではありません。それでは逆に、自分の中に安全バイアスを産み、本当の危機に対処することができず、かえって危険な目に遭うでしょう。


回避は常に「何となく」来ます。なぜか回避されるでしょう。心の声に謙虚に耳を傾けさせすれば。みちびき地蔵は全ての人が持つ能力です。


ですから、地震が起きるかどうかを誰かの判断に頼るのではなく、愛に満ち笑いと思いやりや感謝にあふれた生活を送り、直感に従って生活して下さい。


私が直接知る、震災で奇跡を体験した人たちは皆そうです。
そして、心のみちびき地蔵の導きによって「何となく」「なぜか」行動し、数メートル、数分の差を体験したのです。

2011年8月4日木曜日

困難に立ち向かうか逃げるか。流れに身を任せること。

困難から逃げるな、避けるなと言います。
そのこと自体は、状況を打破するためには確かに重要な要素のように、一見聞こえます。

でもその前に。

困難には2種類あります。
ひとつは積極的に立ち向かう価値のある困難。
もうひとつは、今すぐ立ち向かってもあまり意味のない困難。

その困難が、立ち向かう価値があるのなら、あなたは状況を打破して前に進む事ができるでしょう。あなたを取り巻く環境や心の問題を一気に解決してしまうかもしれません。あなたの人生は挑戦と勝利に満ちる事でしょう。

もしそれが立ち向かう価値のない困難だったらどうでしょう。それに真正面から立ち向かうことは、あなたを疲弊させるばかりです。心配と労苦、不安で満たされるでしょう。自分のエネルギーを取られたと感じ、時間と労力の無駄を感じるかもしれません。立ち向かうべき困難が現れた時に、それに立ち向かい勝利を納めるほどの力も削ぎ落とされて、本当に辛くなってしまうかもしれません。

立ち向かうべき困難と、そうでないもの。その区別を流れの中で判断すること。
これが成立して初めて、私たちは困難とつき合うことができるのです。

では、困難をそのように区別するにはどうしたら良いのでしょうか。
立ち向かう価値のある困難は、必ずあなたの目標や、本当にやりたいこと、本音と関わりがあります。

例えば、あなたはある目的地に行かなければなりません。
そこにはあなたの愛する人、大切な人が、あなたの到着を今か今かと待っています。

しかしそこに行くためには、必ずある場所を通らなければなりません。
そこでは、もしもチャンスさえあればあなたから金品を奪ったり、嫌がらせをしようとする追いはぎが、あなたの通るのを今か今かと待っています。

この時、あなたは愛する人の元に向かうことを一瞬はためらうでしょう。
しかし、次の瞬間には、いろんな考えが頭を過ります。
「そこを通らずに目的地に行くにはどうしたらいいか」「追いはぎに遭遇しないようにするには」「防衛できないか」「戦うか」など。そしてあなたが会いたいと思う気持ちが強ければ強いほど、「あまり心配してもしょうがないか」という気持ちが芽生えて来る。「その時はその時だ」。
そして、意外と困難を軽く克服してしまい、あなたは大切な人に会える。


逆に、目的地にいるのが、あなたが借りたお金を返しに来るのを、今か今か、遅いぞと思って待っている相手だったとしたら、あなたの気持ちはどうなるでしょうか。
「追いはぎに会わないように」を考える気持ちよりも、その困難の大きさと、あなたの果たさなければならない責任との狭間で、緊張し、アイデアも出ず、あるいは気がヘンになってきてしまうかもしれません。
だいたい、困難を克服してもあなたが得られるのは、あなたの信用が保たれたという現状維持ぐらいなものです。せいぜいホッとするぐらい。

乗り越えようとする力が湧く困難には、必ず自分自身が「これのためならこれぐらい!」「よしやってやろうじゃないか!」と思える熱情の裏付けがあります。つまり、困難に飛び込むのにあまり抵抗がない、心の奥底ではあまり心配していないという心の状態が付いて回るのです。


このことは、その人の特性や「本当にやりたいこと」の本音が隠されています。


立ち向かってもあまり勝ち目のない困難や意味のない困難は、たいていの場合、自分があまり得意でない、好きでない分野の困難だったり、状況が理不尽であったり、社会的な何かに自分を無理に合わせる行為、あるいは正面を向き合うのが本当にキツいと感じるものだったりします。

責任、義務、信用。
とても大切なことであり、守るに値するものです。
しかし、それを人生の価値の中心に置いてはなりません。

その先にあるものを見る必要があります。
それが、目標であり、夢です。
夢、目標は、動機です。
それこそが困難を克服するエネルギーであり、社会に自分を合わせてゆくための理由でもあります。
ただ従うのではない、ただ立ち向かうのではない。
「○○のためなら多少のことは平気だ」という動機なのです。


これは千差万別です。人によって違うのです。
「あの人が克服できた」からといって自分も克服できるかどうかは別です。



では
立ち向かいたくないが、向き合わなければならない困難が、現実問題として目の前にあったらどうしますか?
積極的に立ち向かう事をやめて、一旦、自分をアイドリング状態にします。俯瞰できるまで。
それは、もしかしたら台風のように身を屈めていれば過ぎ去るものかもしれない。
火災のように逃げれば助かるかもしれない。
誰かが代わりにやってくれるかもしれない。
時間とともにその問題が変質し、克服するのが容易になっているかもしれない。
自分にそれを克服する能力やヒントが見つかるかもしれない。

一時的に責任や信用の問題になるかもという心配や、思考停止を心配するかもしれません。
しかし、本当にあなたがしたいこと、夢、目標がちゃんとあるのなら、それは思考停止でもなければ、責任の放棄にも何にもなりません。必ず然るべき解決がなされ、あなたの名誉は守られます。

あなたの人生に大切なものだけが残り、不要なものは去ってゆくでしょう。
あなたが理不尽だな、しんどいなと思う事ほど、流れに身を任せてしまい、力を抜いてみて下さい。

もちろん、2〜3日で答えは出ません。
もっと気長に。
今は今できることだけ、やりたいことだけやる。

そうしているうちに、いつのまにか解決していることもあるし
以前よりも、なんか自分で解決できそうな気がしてくる場合もある。
そして解決。

夢、流れ。
これらがあなたを守ってくれたのです。




さてところで、これを読んでいる人の中には「自分なら夢や目標など明確になくても、困難などない、あってもすぐに解決できる」と思ってしまう人もいるかもしれません。
そういう人は、生物学的若さを保持していると言えるでしょう。
私流に言えば、まだ天命を受けてないとも言えます。このことは後で説明します。


魚類の多くは、一生の大半を「流れに逆らって」過ごします。水の流れがあると、本能的に(というより生物学的に言うところの走性によって)流れに逆らって泳ごうとします。そして、寿命を迎える寸前になって、その本能が失われます。生のエネルギーが枯渇し、流れに身を任せるようになるのです。そうして魚は一生を終えます。


人間も、動物として生きた場合には似た様な習性があります。
若さの溢れる時期には、常に流れに逆らって生きるエネルギーを持っています。
それが、理由なき困難に立ち向かうことのできる力、能力です。


しかし、それはある日突然失われます。
魚と違う人間の悲劇は、その能力が失われた後も、寿命は尽きずに、さらに数十年も生きながらえてしまうというところにあります。


昨日までの自分は、故なき困難にいくらでも立ち向かうことができた。徹夜でもして、乗り越えて来た。なのに突然できなくなってしまった。何故だ?となる。これが老いなのか?


もしも、魚と同じように、他の動物と同じように、流れに逆らえなくなった時点で、自分の人生はおしまいだ、意味がなくなったと考えるのなら、その人は人間とは言えません。


人間は、流れに身を任せられるようになってからも存分に生きる事ができます。流れに身を任せても、逆らっても自由自在の本当の人生が始まるのです。
日頃私のセッションを受けていらっしゃる方は、もうお分かりでしょう。


人生の第二ステージです。


それは、老いではありません。終了でもありません。
本来の天命を見つけて、その天命に従って生き、世の中を変えて行くという仕事を要求されているのです。
それは確かに、生物学的な老いと共にやってくることが多いようです。
一般的には、「厄年」と呼ばれるものととても連関する例が多いようです。


しかし中には10代でその天命を知って生きる人もいます。
人ぞれぞれです。


未だに故なき困難と立ち向かって疲弊しているという自覚があるなら、天命についてじっくりと考えてみて下さい。
それを見つけるヒントは、状況的制約を全て無視して本当に自分がしたいこと、そして流れに身を任せてみること。


私はいつも同じ事を言っています。
夢想でもいい、妄想でもいい。


その中に必ず、素晴らしい天命が隠されている。
あなたを輝く未来に向かわせる唯一の力です












2011年8月2日火曜日

目に見えない風景

普段、私たちが何かを見ている時、例えば目の前に建っている建物の向こう側にある、もう一つのビルや空や森の風景は、目の前の建物の陰に隠れて目には見えていません。


だから私たちは物の向こう側にあるものを「見えないもの「ないもの」として捉えます。


けれども、実際にはそれはあり、私たちの目との間にある対象物にいろんな影響を与え、またそこを通じて私たちの目や脳、精神にも大きな影響を与えているということは、あまり知られていません。


物の向こう側にある、目に見えていない風景は、時間軸で言えば残像、空間で言えば対象物を飛び越えて、または透過して私たちの目にしっかりと飛び込んできているのです。


全ての空間はそのようにできています。その建物の裏にある風景は目に届きます。これは空間を歪ませたり飛び越えて、または原子と原子の合間を縫って透過してきます。


時間軸で言えば、その建物ができる以前に建っていた古い建物が見えます。そこに住んでいた人の姿も見えます。全ての目に映る風景には、地球がただの空間だった頃からの色と氣と風景がしっかりと映り込んでいるのです。


しかしこれらは、私たちの視覚にはほとんど影響は与えません。意識することもできません。
そして同時に、潜在意識や氣の部分にはしっかりと届き、非常に大きな影響を与えています。


目に見えない風景はとても大切なのです。目に見えないからと言ってなかったことにすることはできないのです。


私が絵を制作する時は、常にこのことに注意して制作しています。私の絵の層には、幾重にも重なった様々な氣と描写が隠されています。


私たちの成り立ちも同じです。
私たちがお互いに見えるものは、皮膚と表情です。


けれどもそこを透過するものは、内臓であり、血管であり、骨です。さらに、その向こうには背後の風景が、見ている人には伝わります。
美しい場所に立っているなら、美しい背後の風景も伝わります。


それと同時に、私たち自身が考えていること、意識していることも伝わります。
さらに育った環境や両親の存在、生まれた場所も伝わります。
先祖の姿も伝わります。歴史が映り込んでいます。




私たちが見ていて「見える」と思っているものは、ごく限られた一部分だけで、本当は見えているものの後ろには、膨大な情報が隠されているのです。


そして、それらの背景そのものが、「今の自分」「今のその物」の真実を作り上げているということを、私たちはもっと認識しなければなりません。


どんなに見栄えが良くても、背景や歴史、本質が何もないものは、結局のところ薄っぺらいもの、嘘で終わってしまいます。


外見を飾り立てたければ、形を気にするのではなく、まずは中身、あるいは背景、歴史に気を配る必要がある。


これは私が様々なデザイン、絵画、人に触れて、年を追う毎にますます確信を持つに至っている事実です。


歴史と言いましたが、過去の事について「嘘も百篇言えば本当になる」というような事を言う人もあるようですが、これは結局のところ全く通用しません。
これによる結果は非常に恐ろしく、そして哀れなことです。
過去の嘘とわかっている事を真実のように何度も繰り返しても、時間軸における景色は全くかわりません。
それどころか、時間軸の風景に歪みを起こそうとする行為は、未来に作用します。
アファメーションの原理です。


例えば実際にはあったかどうか分からない「被害を受けた」という一断面を歴史や事実として強く認識し、それを繰り返すと、それは近い将来に本当にそうなります。


その人を存在させるための背景とは、そこまで作用します。


だから、美しい言葉を話し、美しい人と会い、美しい場所に住み、美しいものを食べ、美しい景色を見、美しい未来を信じる事が、とても大切なのです。しかもそれらは、「見てくれの美しさ」ではありません。中身の詰まった、豊かな美しさです。その美しいものの向こう側にも、美しい風景が広がっているものを見てください。中身のない空っぽの綺麗さはあなたをも空っぽにしてしまいます。


背景が美しいものに触れてください。
目に見えないものが美しいものに触れてください。


それが本当に美しいもの、あなたを美しくし、満たすものだからです。













2011年7月7日木曜日

マクロビオティックはどこまで緩くできるか(2)

マクロビオティックの全てのテーマには、先に書いた「身土不二」という考え方に基づいた「地方」「気候」という概念の他に、「季節」と「労働」が深く関わっています。

それは、「進化した自然主義」でもあります。

マクロビオティックは、決して「昔に戻る」ことがいいとしているのではありません。

「マクロビオティックはストイックで辛い」という人がいますが、それはマクロビオティックを教条的に、あるいは「時代遅れ」「時代に合わないもの」として捉えているせいかもしれません。

本当は、マクロビオティックは、進化した食事法であり、とても楽しい食事法であるにも関わらず。

その地方で生きた人達が編み出した自然食、伝統食に加えて、新しい時代の健康や長寿、不病を目指した、科学的で神秘的な食事療法が、マクロビオティック。

辛いのなら、それは自然でも進化でもなんでもありません。
多くの人が、「病気を治すための食事療法」としてのマクロビオティックと、健康な人がより健康でいられるための食事法であるあるマクロビオティックを、ないまぜにしているという事実があります。

本来は、健康な人が食べたいものを食べれば、それが結果としてマクロビオティックな食事、健康になる食事法にならなければならないのです。

そして逆説的に言えば、本来のマクロビオティック的な食事を敬遠して、ファストフードに走ってしまうとすれば、それはその時点で既に「健康ではない」→「食事法の矯正が必要」→「厳格なマクロビオティックが必要」ということになってしまうという事なのです。
本来の健康体なら、ファストフードが食べたくてしかたがないというような事は起きない訳です。

それでは、健康なときのマクロビオティックとは、どうあればいいのでしょう。まさにこれが、「どこまでゆるくできるか」という問いに対する答えと同じ答えを持っているわけです。


私はこの事を、自らの身体を使って何年にも渡って実験を続けています。
私はもともとアレルギー体質で、極陰や極陽の食品には子供の頃から劇的な反応を示す体質を持っています。
その経験、実験から得た、現時点での結論は、次の通りです。

マクロビオティックは、マクロビオティックの基本的な条件に加えて、以下の条件を守ることで、よりイージーに進め、維持することができる。

1)スローフードの概念に沿っていること(ファストフードや工業化された食品を排除すること)
2)全粒穀物を摂れない場合は、半定期的な断食(ファスティング)を行うこと(一年に一度程度)
3)季節感覚によって食べたい料理を世界中に求めること。(夏なら東南アジアの料理、冬なら北欧の料理、という具合に)
4)動物性のものの摂取は一週間単位でマクロビオティックの基準に準拠していること。(一日でかなりの量を食べたら、残り6日間で総量規制する)
5)偏食をしない(旬だからといってそればかり食べない。伝統的食事だとこれが往々にして起こる)
6)劇物を避けること(劇的香辛料や添加物を排除すること)

以上の6つの点を守っていれば、より緩やかで自由なマクロビオティックライフを楽しむことができることでしょう。

2011年6月10日金曜日

マクロビオティックはどこまで緩くできるか(1)

マクロビオティックでは、「玄米菜食」という基本概念の他に、いくつか大切にされているものがあります。

その中に「身土不二」というものがあります。

人間は、食べ物でできている。
食べ物は土とその土地の気候風土から生まれる。
つまり人間はその土地の気候風土に合わせて食べ物を選ばなければならない。
人と土は切っても切り離せないものだ。

という概念です。


とても大切なことです。私もセッションでことあるごとに話している事です。
ですが、あまり神経質になりすぎると、豊かな食生活を否定してしまうことにもなりかねません。

マクロビオティックの線引きは、本来は厳格です。
しかし同時に、優しさ、許し、許容という精神を培うものでなければ、それを継続する意味はなくなってしまいます。

だから私は常に「ゆるめにやればいいですよ」と言います。

基本は玄米、そして地元の野菜中心の生活。なるべくオーガニック。
「摂らない方がいい」というものはなるべく摂らない。


一方では、こうして一度基準を緩めてしまうと、自己管理がどんどん難しくなってしまうという声もあります。それまで玄米菜食を中心にしていた人が、ある日蕎麦が食べたくなった。蕎麦はマクロビオティック的には何も問題はありませんが、「粉もの」というちょっとした弊害を持つ特徴もあります。マクロビオティックでは、製粉したものはあまり摂らない方がよいというのがあります。でもたまにならまあいいのです。

ところが粉ものというのは仲間を呼ぶ傾向があります。
次は必ずうどんが食べたくなるんですね。
うどんはさらにマクロビオティックから外れます。

うどんを食べると、パンやラーメンが食べたくなります。
パンやラーメンを食べると、濃い味のスープが欲しくなります。
濃い味のスープを味わうと、陽の強い味がどんどん欲しくなります。
肉や魚などの強陽の食品が多めに欲しくなります。
強陽食品を摂ると、必ず対極の強陰、例えばアイスクリームや乳製品などが欲しくなります。

気がつくと、マクロビオティックとは無縁の食生活に変わり果てている
そういう事も珍しくありません。

こうなると玄米菜食に戻るのがとても大変になります。


かくいう私もしょっちゅうです。
だから、やっぱり線引きは重要なのです。
一体、どこにその線引きをしたら良いのでしょう。




2011年4月29日金曜日

人生に「うまくいっている」も「うまくいかない」もない(セッションより)

人生をうまくやりたいと思わない人はいないでしょう。
誰でも自分の人生を幸運と平穏に満ちた人生で終始させたいと思っています。

それはいつでも健康で、富に溢れ、楽しい事が順風満帆に続く人生。

しかし実際には、少なくとも私は、一生に渡って順風満帆な人にお目にかかったことはありません。みんな山あり谷ありの人生を送っている。
喜ばしい事、苦しいこと、悲しいこと、楽しい事。

陰陽、バイオリズム、周期、それだけでなく。

他人から見れば、どんなにか強くて幸運で幸せそうに見えている人でも、どこかに必ず悩みや闇を抱えています。それはたいてい他人に話す事ではなく、あるいは敢えて隠して生きていますから、普通の人には分かりません。
が、分かる人にはすぐに見えてしまいます。
それらを全て分かった上で、その人を認め愛する事ができる人には見えるのです。

でも悲しいかな、たいていの人は、完璧と思っていた(思い込んでいた)人の、ほんの些細な欠点や弱点に幻滅し、評価を180度変えてしまうのです。
これは蒙昧の心なのですが、大衆の心というものでもあり、致し方のないことかもしれません。

昨日までのヒーローが、些細なミス、スキャンダル、時には小さな犯罪(事実かどうか分からない)で突然落とされ叩かれ、それまでの全ての功績を台無しにされてしまう事件が後を断ちません。
とても残念なことです。

このことは、それをあげつらおうとする人達も、それに乗っかって評価を変えてしまう人達も、全てが妬み、ひがみという蒙昧の中に囚われている証左の一つといえるでしょう。

あなたはその中に加わってはなりません。


「影も日向もなく、本当に非の打ち所がない」などという人は存在しません。

「一点の曇りもない」人など一人としていません。


あなたの人生に闇やトラウマがあるように、誰にでも闇や悩み、どうすることもできない弱点や恥、人生の浮き沈みがあるのです。

自分だけにあるのではありません。
全ての人にあるのです。

物事には必ず陰陽があるように、私たち自身の人生も、陰陽によって成立しています。

もしも「一点の曇りもない順風で平穏な人生が理想であり、そうなるべきだ」などと思っているのなら
それはテレビのドラマやCM、マスコミの情報にかなり毒されていると思って下さい。

もしそういう人生があるとすれば、それは停滞でしかありません。

よく、大望を持つ人にのみ試練や闇はあると言われますが、私の見方からすると、あまり関係ないように思います。

もちろん、何かを成し遂げようと思う人には必ず嵐と機会がやってきます。
しかし、何も成し遂げようと思わない人にも、なぜか必ず変革を迫る嵐がやってくるのです。

どちらにせよ嵐(陰と陽の入れ替わり)があるのなら、より楽しく局面のある人生を選択した方がいい。
楽しく、喜びに満ちたものを探しに出かけよう。
それが嵐を乗り切るエネルギー。

それは待っていても来ない。
嵐を乗り越えた先にあるもの。

人生には、うまくやっている人生も、うまくいかない人生もないのです。
誰にとっても同じ価値のある理想の人生などありません。
あなたの人生は、あなたにしか作り上げることはできない。
平凡な人生など存在しません。

あなたにとってのみ価値のある人生を探して下さい。
テレビにもネットにも、周囲にも影響されない、オリジナルの理想を。

(セッションより)

2011年3月3日木曜日

春のデトックス【玄米プラン】

春はデトックスに最適の季節です。
私のデトックスは毎年断食から始まります。
2〜3月頃に、3日から7日程度の断食をして、その後復食
玄米食をしばらく続けます。(通常2〜3ヶ月程度)
玄米食は、玄米と板海苔、黒ごまのすりごま塩の三点セットです。
この玄米食月間は、身体の老廃物を流してくれること、冬の間についた余計な脂肪を消費燃焼してくれること、十分に食べながら体重を無理なく落とせること、思考力が復活することなど、良いことがたくさんあります。
しかも断食と違って、社会生活を中断することなくできる、いわば半断食法でもあります。
ところで
玄米を、炊飯器で炊いたり白米と混ぜて炊いて「ニガテだ〜」という方がいらっしゃいますが
炊飯器や白米と混ぜては玄米がまずいのは当たり前です。
「玄米モード」がついている炊飯器て炊いたとしても、生まれてこのかた白いご飯しか食べた事のない人にとっては、拷問以外の何ものでもないと思います。
初めて玄米にチャレンジしたい方のために、少しだけ書きましょう。
<デトックス玄米プラン(断食は必要ありません)>
【玄米の炊き方】
初めての方は、玄米は圧力鍋で炊いて下さい。
玄米は研ぎません。洗うだけで良いのです。環境に優しい。
くれぐれも白米を混ぜたりしないように。
その際、塩を、玄米5合に対して小さじ1ぐらい入れて炊いて下さい。
玄米が初めての方なら、玄米5合に対して水は1Lが必要です。
浸しの時間は要りません。
圧力鍋の目盛りが2つになってから(回転タイプの場合は回転始めてから)30分弱火で加熱
火を止めて完全に圧が抜けるまで放置
出来上がり。ふっくらモチモチの玄米ご飯の出来上がり。
玄米を抵抗なく食べるには、もう2つ不可欠の食材があります。
板海苔
すりごま塩(黒スリゴマ12〜16に対して塩1ぐらいで自作する)
板海苔は、4つ切りにして、ご飯とすりごま塩を巻いて食べます。
こうすれば、玄米食が辛いという人も、抵抗なく食べられます。
玄米はよくかんで、好きなだけ食べて良いです。
目安として、私の場合、玄米は一日当たり700g~1kg(炊いた状態で)ほど食べます。
カロリーにして、だいたい1200kcalから1700kcal前後です。
板海苔もは、6~7枚/日ぐらいは消費すると思います。
すりごま塩も、好きなだけかけています。
マクロビオティックでは制限がありますが、玄米食デトックスの場合は制限はしなくて良いでしょう。
オプションとしてみそ汁をつけても良いのですが、みそ汁は具や出汁の摂り方に気をつけないと、枯渇感を呼びますので、注意してください。
私の場合は基本的に出汁は取らず、大根やタマネギなどの根菜だけのうまみで味を作ります。味噌さえ本物のおいしい味噌を使えば、これでも十分においしいみそ汁ができます。
これを最低でも1週間ほど行います。
一週間ほど経過すると、体重の減少と共に、枯渇感が出てきます。
そうしたら、次第に食材(おかず)を増やして行きます。
おかずの増やし方は、まず最初にキノコ類、根菜類、海草類から始めて下さい。
そして次に豆類(大豆加工品を含む)、葉ものへと続きます。
次に、特別ベジタリアンではない方なら、魚介類(えび、たこ、いか、貝)を加え、魚、肉類へと続きます。
これは生物の進化の過程そのままの順序です。
もうひとつ気をつけたいのは、摂る食材は必ず「旬」に近いものを摂る事です。
春先にキュウリや生のトマト、茄子などの夏野菜は絶対にNGです。
春の食材は、デトックスに最適です。
すぐに思い浮かべるのは山菜。
海のものなら、メカブ(わかめの茎の部分)もとても良いですね。

2011年2月14日月曜日

マクロビオティック

マクロビオティックな食生活を始めると、身体に溜まった「毒みたいなもの」が次第に出て行きます。
実際、はじめてマクロビオティックを経験する人の中には皮脂や吹き出物、垢が一時的に大量に出たのち、ほとんど出ない体質に変わったり、肌が明るく なる、目が以前より見えるようになった、目覚めがよくなった、記憶力が戻ったなど、実際に身体に起きる変化を実感する人もとても多いのです。
身体から出てゆくのはそういった物質的なもの、身体的なものだけではありません。
今まで耐え難いと思っていたストレスや、対人への警戒感や拒否感覚、辛さもかなりの確率で減少します。
今まで乗り越えることが困難だったストレスが嘘のように解消した方もいます。
だからもしも疲れたなあ、しんどいなあという感覚が慢性化した方、不定愁訴を感じる方には、マクロビオティック的な食生活をおすすめしています。
人間の感情や考え方は、そのかなりの部分を食に依存しています。そしてマクロビオティックは、人間としての様々な歪みを補正する力を持っていることは確かです。
陰陽の差の激しいものを食べると、感情や考え方も激化します。
(これはベジであるか非ベジであるかは全く関係ありません)
さらに体質によっては、陰陽の強すぎる食生活を続けてゆくと、慢性的な感情の歪みを引き起こします。
怒りや不満、嫉妬、思い通りにならないことへの苛立ちなど、現実と理念との歪みです。
歪みは苦悩を呼び起こします。
苦悩を乗り越える精神力を持っているうちはそれでもいいのですが、苦悩に負ければ悩みは慢性化し、悲観的になっていきます。
そういった感覚はたいていの場合、マクロビオティック食に換えることで、長くてもほぼ3ヶ月ほどで、すっかり消え去ります。
そのサインは、感情の起伏が非常に穏やかになることで実感できます。
また物事に対するこだわりがどんどん薄くなっていきます。
本来の自分の心が、許容の精神で大部分を占められている事がわかるようになります。
さらに続けてゆくと、多幸感や豊かな向上心に溢れるようになります。
ただ、気をつけなければならないのは、マクロビオティックによって必ずしも全ていいこと尽くめになるのではないという点です。
自然界に陰陽が必ずあるように、人間にも陰陽、表裏があります。
マクロビといえどもこの表裏を完全に消すことはできません。
また、その差を完全に消し去ることは良い事でもありません。
また、マクロビオティックによって様々な歪みがなくなると
かえって願望の妨げになることもあるかもしれません。
歪みそのものが、生きるエネルギーとなることもあります。
苦悩が才能を開花させることもあります。
勝負がダイレクトに関係するスポーツには向かないかもしれません。
良いことだけが起きるようにはなりません。
体質は人によって千差万別です。
仕事やライフスタイル、住む場所の気候も違います。
厳密さやマニュアルを追求するのではなく
またマクロビが万能と思い込むのではなく
自分に合った、食生活のバランスを、少しだけストイックになって意識することがとても大切な姿勢です。
マクロビオティックはツールです。
ツールは使うときもあれば使わない時もあります。
万能なツールは存在しません。
あなたは身体という船体、魂と精神という舵や帆を持った船の船長です。
海はあなたの人生、感情、考えです。
あなたはその波をある程度コントロールできます。
波をある程度コントロールするツール、天候や方角を読むツール
それがマクロビオティックだと考えてください。
人生は常に順風とは限りません。
逆風も時には必要だし、波も必要かもしれません。
しかし道具なしではその逆風は克服できません。
やみくもに進んで方角や舵を誤ってしまえば、常に望まない逆風にさらされてしまう危険性ははらんでいます。
そうならないような人生を送るためのとても力強いツールのひとつに、マクロビオティックがなってくれることだけは確かです。
自分にあったマクロビオティックを探してください。

2011年1月24日月曜日

Twitterで

日頃、リーディングセッションで、僕がお話する事の中には
僕が話しているようでいて、そうでないものも多々あります。
降りて来る言葉とも言うのでしょうか。

そういうものは、セッションを申し込んでくれた方だけのための
まるで神様がオーダーメイドで降ろしてくれた言葉ですけれど
やはり、その中でも、もっと広くみなさんにも知ってもらいたいなと
思う言葉があります。


2010年8月13日金曜日

変わる必要はない

あなたが変われば、周りが変わる」
という言葉を聞いた事があると思います。
でもね。
そうじゃない。
あなたは変わらなくていい。
もちろん、周囲も変わらなくていい。
どっちもそのままでいい。
変わるのはあなたでも周りでもなくて
神さまがあなたを許してくれるということを
あなたが許してあげることなのです。
今のあなたは、本当のあなたでいられてないのかもしれない。
何かの原因で。
本当のあなたなら、あなたとあなたの周りは、許し合うことができる。
でも、何かが滞ってるおかげで、それができない。
無理に自分だけを変えようと思ったって疲労するだけです。
でも、本当のあなたが取り戻されれば、あなたは変わらなくても
周りもあなたも許し合うことができる。
そのためにはまず本来のあなたが、取り戻されなければならない。
本来のあなたは自由で健康。
自由で健康であるためには、あなたが許される必要がある。
あなたは許される。
だから安心して下さい。
もしも、どうしてもあなたが許されてないと感じているのなら
ドアをいつでも叩いて下さい。