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2023年9月18日月曜日

水晶の絵に至った第3の道

 


「どうして水晶を貼ろうと思ったのですか?」この答えに、普段僕は2つの理由を挙げています。

今日は、その2つではなく、普段はあまり人に言わない3つ目の理由をお話しします。

僕は元々静物画出身ですが、好きなのは風景画でした。ただ、ある時から、カタチを取るのをやめ、見たままを描くのもやめて、見たものが自分の中で熟成されカタチを失った色の世界観を描こうと決めてから、特に旅行取材の時には、絵のための写真を撮らない、スケッチもしないという二つの原則を守るようにしています。

写真は形状や状況は正確に写し取ることが出来ますが、匂いや自分の肌感覚とはちょっと違い、そこに引きずられがちになるため。スケッチは上手く描けてしまうと、モチベーションがきれいさっぱり消えてしまい、油彩に仕上げようとすると全く勝手が違うという個人的な理由です。忘れたら忘れたでいい、形状やディテールにこだわるのではなく、空気感を表現したいという思いです。

このことはいわゆる絵画的表現の面白さとは別の概念を持たないと作品が成立しないという副作用を伴うため、初めはとても苦労しました。

ものの見た通りの形を脱する…とは印象派からキュビズム、抽象まで一貫した命題ですが、それでも巨匠達は何らかの形状に拘り、最終的には形而上的な思惟によってそれを解決しようとしました。

僕の今の水晶の絵に見られる作風は、その形而上的な捉われから脱するにはどうしたらいいんだろう?と考えた結果です。

明確な形はなくても、空間認識、肌感覚、個人的経験を直感的に呼び覚ますことができるための解題です。

水晶はそこに一役買っています。形状が曖昧になり、色が感覚的にブーストし、空気感、肌感覚を伝えてくれます。これは実際に水晶の絵に対面した方ならお分かりいただけると思います。

ただしそれは水晶以前、色による綿密な描画法あってのものです。単に「キラキラキレイだから水晶を貼れば良い」というのでは、水晶の絵はうまくいかないのです。水晶を貼らなくても成立かつ水晶を貼った時にどうなるかを予見した描画が必要です。

表題の写真はその一例で、水晶を貼らなくても成立しかつ水晶によってそれが完全化するように描いています。

この描画のために、常に自分の感覚を研ぎ澄ませるだけでなく感性の原点に立ち戻る必要もあります。

アートをやってると、往々にして美意識を拗らせたりします。音楽でもそうなのですが、知りすぎるとちょっとやそっとの「美」とか、音楽ならありきたりのコード進行に飽き足らなくなり、知的ゲームの中に埋没しちゃうのです。これは僕の絵にとっては少し邪魔になります。なるべくシンプルなコードで聴かせる必要があるのです。

美意識こじらせになりそうな時は、取材に出かけても自省のために必ず、幼少期から思春期の頃に見た風景、空気を思い出すようにしています。

素朴で知識の何もかもが不足していた時期に得た風の冷たさや陽だまりの暖かさ、空気の味、空の色……。それらは今でも、どんな人にも当たり前に身の回りに存在します。でもその中での人との出会いや、一人ぼっちで物思いに耽っていた肌感覚は、一人一人違います。その一人一人違う肌感覚や記憶を呼び覚ますものを一つの画面で表現したいと思っているのです。

僕の幼少の頃好きだった風景の肌感覚の一つをご紹介します。言語化するとこんな感じ…というものです。

☆☆☆☆☆

鬱蒼とした竹と椿の深緑の、細い市道を抜けると、赤土が剥き出しになった高さ6〜7mほどの崖が見える。その崖の脇の藪に丸い石を積み上げただけの粗末な石段を二十段も登りきると、視界いっぱいの青空と一面の野原に囲まれる。

向こうには有刺鉄線で囲まれ、白と赤で塗り分けられたラジオの中継アンテナが高く聳え立っているのがみえる。そこまで行けば、港町も望むことが出来る。

崖の上には一本の黒松の木がぽつんと立っており、そこからは赤い畑や白い家々や向こうの薄群青に光る山々まで見渡せる。

丘の北側にはなだらかな斜面が広がっている。やっぱりそこも一面草に覆われて、駆け降りて転んでも痛くないから、子供達のお気に入りの遊び場になっていた。

時折風が北の向こうの田んぼから登って来ると、丘の草原が下の方から一斉にざあっと騒ぎ立てて、その時だけ賑やかな秋の虫達の声をすっかりかき消してしまうのだった。

☆☆☆☆☆


瞑想と呼吸

【瞑想と呼吸】

先日、お世話になっているとあるサロンのオーナーとお話をしている時に、瞑想の話になりました。


いろんな質問に答えているうちに、自然に

「瞑想はするのではなくて、『なる』んです」と答えていました。


考えてみると、ここ10年ほどは意識的に「瞑想するぞ」と思ったことが一度もないことに気がつきました。


それでも日常的に瞑想感が強いのは、普段からぼーっとしてるか、いよいよ瞑想名人の域に達したのかな?とか、帰り道いろんなことを考えていました。


そしてはたと

「あ、絵を描いてる時か」と思い至りました。


最近自分でも絵が変わってきたなというか、シンプルな構図と複雑な色の組み合わせが多くなってきたのはそのせいなのかもしれないと。


それから数日後、とある伝統芸能の達人の動画に出演させてもらった折、彼が「ルーブルでモナリザを見た時は胸式呼吸、雪舟を見た時は丹田呼吸になった」とおっしゃっていました。

「サトさんが絵を描いている時はどこで呼吸してますか?」と振られて、思わず


「僕は絵を描いている時、気がつくと無呼吸になってます」と、なんともとりつく島のないような答えになってしまいました。


で、それも後から「あ!」と気付きまして。


僕の場合、取り掛かるまでが長くて、描きモードに入るまで4時間も5時間も、下手すると三〜四日「何もしてない」状態が続くことがしばしばなのです。

始まれば速いんですが、始まるまでがとにかく長い。


もしかするとこの「何もしない時間」というのは、知らないうちに呼吸を整えている時間、瞑想なのかなと。


それが瞑想といえば瞑想なのか、いや、それともただの無駄な時間なのかは分かりません。


とにかく、そういえば呼吸が整うというか、自分の波動がすっかり静かになったところで、あとは息を止めてわーっと描くわけです。


個展近くなって、また昼夜逆転してきました。


2023年9月10日日曜日

共にまだ見ぬ地平へ

【共にまだ見ぬ地平へ】

僕が画業に専念すると決めた日以来、様々な人が応援してくれました。

そして実に驚くべき事に、それは今日まで一日も欠かす事なく続いています。


作品を購入してくれるのはもちろん、個展開催のために骨を折ってくれたり、人の縁を繋いでくれたり、展示に欠かさず足を運んでくれたり、励ましてくれたり、寄り添ってくれたり、所有のサト作品をSNSで取り上げてくれたり、中には残念ながらお目にかかることも叶わなくなってしまった方もいますが、現在進行形でいまでも数えきれない方から様々な形でかけがえのない恩を頂いています。


今の僕があるのは、この方々の応援のおかげ以外の何物でもありません。

その幸運に恵まれたことを心から感謝せずにはいられません。


この御恩は、自分がしっかりとアートの地平の先を踏みしめ、サトチヒロのアートを応援していて本当に良かったと思ってもらえることでお返ししようと、日々決心と覚悟を新たにするのです。


その地平の先とはなんでしょうか。

それは

「世界のアートの中心地日本という国で、みんなと共にアートの新世界を踏みしめる」

ということです。


日本はアートの国になります。

(ポテンシャルとしては既になっている)

そして東京をはじめとする日本の各都市は、世界のアートの中心を担う事になるでしょう。


そして、作る人も見る人も、全てのアートを愛する人々が、アートによって立つ、豊かになるという社会が到来します。

それが僕の見ている「アートの地平、新世界」です。


今、僕はとても貴重な体験をしています。

これまでのような、アートが単に発表の場が与えられるとか、アーティストとオーディエンス、限られたマーケットだけの関係に留まらない、観る側、所有する側が主体となる一つのアート運動、イズムが起きつつある、アートが媒介するトランスフォーム体験です。


「なんのこと?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。この事についてはまた機会を改めて詳しく書きたいと思います。


ともかくこの体験は、これまでの日本にはなかった、いやおそらく世界にも類を見ない、全く新しいアート文化の誕生を予期させる動きです。


この潮流は、やがて日本中に広がるだろうと思っています。いや、シンクロして各地で同時進行で始まっているかもしれません。


そしていずれ世界の美術史にページが割かれる日が来るでしょう。

日本は、パリやニューヨークに負けない世界のアートの都になる素質を十分に持っているのです。


この体験をリアルタイムでより多くの人と分かち合いたいのです。


ただし、ただ絵を描いているとか発表して見てもらうというだけでは、このムーブメントは大きくはなりません。一人一人の自然で無理のないトランスフォームが欠かせません。


僕もその一助になろうと、銀座アートストンギャラリーのオーナー先崎氏をはじめとし、アンバサダーになっていただいているお客様やアーティスト、キュレーター、またアートに直接関わらない異分野の方々、経済界や文化人の方々と、日々様々な意見交換をし、いくつかの企画も立ち上げています。


一例として、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、今年1月から、有料ですがアーティストのためのワークショップを開催しています。


といっても描き方の教室ではありません。アーティストが創作活動を持続発展させていくためには、正しく自分のアートや考え方を知ってもらうこと、アートを応援してくれる人達とのコミュニケーション、アートの社会的役割、努力に応じて用意されたチャンスをしっかりと掴むことができる技術や考え方、意識、観察力が必要です。


まずはアーティスト自身それを身につけようと始まりました。動画の配信やイベントも行っています。どなたでもいつでも参加可能です。


それらは自分だけが身につけるだけでなく、分かち合い共有する事でさらに大きな力となります。

このワークショップの当面の目標は、これらを共有した方々が、さらに大きな流れを作って下さることにあります。


遠くないうちに、アートを作る側でない、オーディエンス、アートファン、これからアートに触れたい方のための企画もお知らせするつもりです。


まだまだ小さな流れに過ぎませんが、やがてこの「新しいアートムーブメント」が大河となって大海へ注ぐ姿が、僕にははっきりと見えています。


「共に新しいアートの新世界に立とう」


この考えに賛同して下さる方は、いつでもお気軽にコンタクト下さい。


これからもどうか変わらぬご支援、応援を何卒よろしくお願い申し上げます🙇‍♂️


2023年9月9日土曜日

創作とアンビバレンス

【優れた創作は、作家の人生のアンビバレンス(非整合性、葛藤)と無縁ではいられない】


…とはよく言ったものですが、説教臭い人生論はさておき、今日の夕飯は絶対に魚にしようと決めていたのに気がつけば火鍋屋にいたとか、ヒゲを剃るはずなのに顔を洗っていたとか、とにかく生きている限り、自分の言動に整合性がとれていることなど珍しいものです。


ベートーヴェンがゲーテの振る舞いに激怒して訣別した(※)なんてのは彼のアンビバレンスを説明するには全然生やさしい事件に過ぎませんが、彼は訴訟や難聴、借金など、あまりにゴタゴタした私生活と困難や絶望を繰り返しながら、その一方であまりに美しくそしてエネルギーに満ち溢れた旋律の数々を生み出し、それまで王侯貴族のためのものであった音楽を一般市民のための音楽にまで昇華させ、古典主義音楽を完成させました。


そんな楽聖ベートーヴェンの葛藤に比べれば凡俗中の凡俗に過ぎない僕のそれなどノミの地団駄に過ぎませんが、やはり制作していると、勝手に生まれる色彩やカタチは、自己の非整合性と戦ってる感がいろんなところで出るなあと、妙に感じ入るのです。


まあ、どんな葛藤があろうが最終的に美しいもの、自分でヨシとするもの、そして誰かを幸せにできるものに昇華されていくのであれば、何でもいいんです。


(※註釈)

当時はまだ王侯貴族からの召し抱えが無ければ安定収入が得難い時代。安定収入を渇望しながら、ゲーテの貴族たちにおもねる振る舞いに激怒してゲーテと訣別してしまうという、彼の反骨精神、反権威主義的姿勢を代表する武勇伝。


2023年8月25日金曜日

波動装置としての絵

小学校1年生の時に画塾に通い始め、師事していくうちに、絵を描く事は僕の幼い人生の一部になっていた。
それにもかかわらず、僕の僕自身の絵に対する肯定感は長い間低いままであった。

幼なじみや同級生は「チヒロは昔からとても絵が上手かった」と言ってくれるが、自分ではとてもそんな風には思えず、また図画工作や美術の教科書に載っている子供らしい絵だとか、中学生らしい絵とか、そういう全国レベルの子供たちの絵と自分の絵を比べてはいちいち落胆していた。

ただ、無心に描いた絵は自分でも好きだし、周囲からも賞賛される事は多かった。
時々「誰が描いたんだろう?」と自分でも訝しがるような出来の時もあった。
で、一旦それに気を良くして、もっとうまく描きたいと思って描き始めると、やっぱり気に入らない絵しか出来上がらない。

このことは長いこと自分の中での謎であり、このジレンマに小中高の間中悩み続け、そのうち絵を描くことが嫌になり、大学受験直前まですっかり中断していたこともある。

けれども、そのブランクやスランプのあとに絵筆を持ち描き始めると、自分でもびっくりするような素敵な絵が出来上がる。
決してうまい絵、自分の理想とする絵ではないのだけれども、なんとも味のある、じわじわ好きになるような絵だ。

誰でも、自分でこう描こうとか、誰かに褒めてもらおうとか、そういう気持ちが一切消えている無心の絵は、素晴らしいものが出来上がる経験を一度はしている。

もしそれだけなら「うまく描こう」をやめれば済むことである。

しかし僕はさらにその先に「自分が描いたとは思えないもの」が現れるのを頻繁に体験している。
自分が描いたとは思えないのに愛着が湧いてくる。絵が向こうから勝手にやってきて画面に勝手に描かれる。そしていつの間にかその時の自分に必要不可欠な絵になるのを感じる。
これが何なのか知りたかった。そしてそれを知ることができれば、もう絵を描くことで悩まなくて済むのだ。

そしてやがて得た一つの答えは「波動の描写」だった。

このことに僕は神秘的な何かで意味付けするつもりは一切ない。それは今も昔も同じである。ヒーリングやカウンセリング、パワーストーンを扱っているので「何か降りてきてるんですか」とか「描かされているんですね」と言うような質問を受けることもあって「そうですね」と適当に返事をすることもあるが、正確に言えばそのどちらでもない。

ただ、やっぱり僕の絵は向こうから勝手にやってくるのである。ただそのニュアンスを手短に伝えることはとても難しい。
「波動」それは一種の「ゾーン」と言えなくもないが、誤解してほしくないのは、瞑想とか坐禅とか、そういうもので短時間に得られるものともちょっと違うし、描いているうちに起きるゾーンエクスタシーとも違う。

幼少に絵を描き始めてから、今までもだが僕にとって絵を描くと言う作業はとっても億劫な出だしを伴うもので、真っ白のキャンバスを目の前にして制作作業に取り掛かるまで本当にバカみたいに時間がかかるものだ。

ところがある日突然、描きたいという気持ちが強くあるわけでもないのに、自分でも意識せず猛烈に描き始める瞬間が訪れる。やがて何時間も過集中状態が続き、画面にのめり込む。これは普通に言う「ゾーン」だ。でもその時点では何も起きない。
ここで意図を発揮してはいけない。
一段階目の無心ゾーンの時点であれこれ考えて手を加えても何も奇跡は起きない。

奇跡が起きるのは、仕掛かって一旦筆を置いてその数日後だ。

絵を見ていると突如画面にいろんなものが踊り出してくる。

その時、初めて自分がある種の波動と共振しているのを自覚する。
気持ちというより、精神の統一状態から解き放たれてなにかを手放した瞬間、絵との共振が起きている。

それから一手間だけ加える。加え過ぎてもいけない。
そうして、向こうの方から絵が勝手にやってきて画面に乗っかって作品は完成する。

「こうしてやろう」とか「こんなアイディアを試してやろう」と言うような思いは一切生じさせてはならない。経験上、そういう頭で考えた絵はろくなものにならない。これは他の人の絵にも通じる。考えた絵というのは、どこか魂胆が見えて絵が彷徨うことになる。

テーマを決めてうまく書こうとして訓練することもほとんどない。若き日のデッサンは必要不可欠だが、それにいつまでも頼った絵は、やはりつまらない。
成り行きで画面は構成され一発描きで必要なものは全て画面に登場してくれる。このパターンに気がつき始めてから、ずいぶんと絵の質のばらつきが減った様に思う。

自分のために描いているわけではないけれども、誰かのために描いてるわけでもない。ただその後、描いたその作品が、ある日、ある人のもとに迎えられて、その人の人生をガラッと変える。そのことは紛うことなく事実だ。

そういうことが近年は頻繁に起こるようになった。そういう時、僕はきっと時空を超えて、未来のその人と繋がってその人の人生を彩るために描いたのだなぁと思っている。その人に出会う前から、その人が輝かしい未来を味わうのに必要なものを描いている自覚がある。

このことは偶然でも神秘的な大きな力のせいでもなんでもない。天や神に描かされていると言うような真偽の定かでない表現も使いたくない。

自分の作品が誰かの胸を打った時、あるいは人手に渡る時、それを「たまたま」と思ったことも一度もない。全ては必然的に繋がる。

僕の絵が手元に届いた途端に人生の調子を取り戻しつつある、さる作品オーナーの姿を見て強く思うのは、そうなるのは絵のおかげなどとはもちろん言わないが、そこに至る本人の意思や覚悟、エネルギーが、僕の絵を呼び寄せて、良き燃料になった……ぐらいのことは確かである。それを起こすのはシンクロニシティであり、波動の共鳴、共振である。

僕の絵は、波動そのものを発する装置なのだ。

つまるところ、未来のその人が求めている「その波動」が自分にあれば、絵は勝手に向こうからやってくる…ということだ。

そのために常に自分の魂の波動をある部分にチューニングしておくことだけは心掛け、怠らないようにしている。そして、うまくチューニングができた瞬間、無心の制作作業が一気に始まり、完了する。



2023年6月24日土曜日

アーティストの本質

アーティストになりたがったり、憧れたり、「やっとアーティストと自称できるようになりました」とか目をキラキラさせて言っている自称アーティストが後を絶たないが、アーティストなんてそんなたいそうなもんじゃないし、そもそも憧れてなるようなもんじゃない。絵師やイラストレーターになり損なったヤツが仕方なく堕落してなるようなものだ。

自分を律して研鑽を積み、誰にも負けない努力と才能を勝ち得た者は、絵師として社会に認められ、社会の一員として真正面胸を張って生きるのだ。
それができずに、堕落し、社会の規範から逸脱し、批判と蔑みの中であえぎ、怠惰とその改悛の中にのたうちまわっているような人間こそがアーティストなのである。

「私は模範的にきっちりとやっております」というようなのはアーティストでもなんでもない。

だが、アーティスト諸君よ。悲観してはならない。堕落し、規範から逸脱し、社会からつまはじきにされ底辺であえいでいたからこそ見える美の世界と言うものがある。
その美の世界こそが、日々つましく努力をして家族や社会や国に貢献している人々の視点を変え、生きる活力と励みと癒やしを呼ぶのである。真面目に生きている大半の人々の哲学に大きな影響を与える力を持つのである。

常識にとらわれず、常識を破り、道徳から離れ、本来の人間をむき出して生き、そしてその結果苦しみ、泣き、叫び、笑い、倒れる。その中からこそ、本当の人間の真髄、本質、生き様、愛、執着、そして生命力と言うものが生まれるのである。

そしてそんな劇物のような人生から生まれたからこそ、作品たちは光を放ち、価値観や視点の変革を促し、人類全体が良い方向に進んでいく清らかな流れとなることができるのである。

堕落せよ、そして描け、作れ。描き作ったら広く世に知らしめよ。人々の手に宝物として手渡すのだ。価値を上げろ、人気を獲得せよ。それが影響力である。どんなに優れた作品であっても、広く世に知られなくてはこの世に存在しないのと同じなのだから。