2012年4月11日水曜日

ブルックナー交響曲第8番ハ短調




この気持をなんと表現したらいいのだろうか。
未だに適切な言葉を失っている。
チェリビダッケという幻の指揮者である。

今、ブルックナーの8番に耽溺しまくっている。
そして、あまりに意外な展開に自分でも混乱している。

ブルックナーについての解釈、いや、音楽についての価値観がひっくり返ってしまったのだ。
それは、チェリビダッケの録音のせいだ。

一言ではとても言えないし、言葉を並べてもその1%も表現することはできないが
汪溢する豊かな倍音、音の遠近感、色彩感、霊感の刺激、塊の波動、救いへの引力。

これが、チェリビダッケを通じて、ブルックナー交響曲8番に対して、私が完全に持った印象だ。

恥ずかしながら、私がチェリビダッケの名前をはっきりと意識して知ったのは、今年(2012年)に入ってブルックナーの8番を真剣に聴き比べするようになってからだ。
テレビに映った姿は生前に見た記憶がある。座って指揮をする姿が印象的だった。立つのはしんどそうだったから、もう晩年の頃だったのだろう。
しかしちゃんと聴いたのは、今年に入ってからだ。情けない事に、彼の没後15年も経っている。今ほど、自分の指揮者に対する無知を恥じたことはない。

チェリビダッケを聴いた後では、カラヤンもクナッパーツブッシュも、大変に失礼だが、ただの雑音に過ぎない。今まで自分が聴いていたものは、一体なんだったんだろう。

チェリビダッケは録音嫌いで有名で、そのせいで生前はコンサートに出かけなければ彼の演奏を聴くことは困難だったという。こういうことも、彼を幻にしてしまった要因ではあると思う。彼は根本的にCDやレコードを認めてはいなかった。録音では彼の言うところの音楽は再現できないのだという。
それは、音楽芸術というものの一般論として何となく分かるような気がする。音楽とは、マイクで拾える音波だけではあり得ない。録音には現れない倍音、魂の交流、波動、氣のやりとりがある。演奏者と観客双方の高揚と霊感の共有がある。それは録音つまりレコードやCDだけを聴くのでは伝わらないし、絶対に理解できない。実体験そのものだけが音楽の本当の体験だ。特に生音を生身の人間が奏でるクラシック音楽においては、録音と生のコンサートとの間には、決して越えられない、かつ大きな大きな壁がある。

特にスタジオ録音(or観客のいないホール録音)には魂の抜けたような録音が山ほどある事は私もよく知っている。音楽家達自身の多くも、それを収入のため、あるいは契約のため、自身のPRのためと割りきっている部分があることも知っている。クラシックにおいては音楽の根幹はあくまでもライブなのだ。ライブにも行かずにレコードだけを聴いて「あいつの演奏はいい」「こいつのはよろしくない」とやっているとすれば、それは音楽が何たるかを全く分かってないに等しい。プロの音楽家の多くがレコードマニアを嫌う理由はそこにある。

しかしそれでもなお演奏家や作曲家をより深く知るための「資料」「教科書」として、我々はそれを十分ありがたがって聴くだけの価値はあるし、近年のCDの音質の向上によって「そこで一体何が行われたか?」ぐらいの推察はできるようにはなってきた。それはライブ体験とセットにすれば「鑑賞物」として十分価値のあるものにはなっていると思う。
そう、あくまでも「ライブ体験とセットにすれば」である。

ライブでチェリビダッケの指揮する音楽を聴いた人は、その後の人生が変わってしまうほどの体験をしたという。それほど強烈なライブ体験とは一体どういうものなのだろう。

CDを求める前から、チェリビダッケが録音を否定した人であるということは知っていた。
ただ、それでもなおかつCDであっても
「今まで自分が聴いてきたものは、一体なんだったのか?」
という思いが爆発するほど、ものすごいインパクトなのだ。
録音でこれほどの衝撃を受けるのだから、コンサートではいかばかりだろう。
自分の意志で「やや真剣に」クラシックを聴くようになって以降、チェリビダッケは少なくとも2回は来日している。まあ、チケットが取れたかどうかは分からないけれど、少なくとも2度はチャンスを逃している事になる。
つくづく自分の不明を恥じるばかりだ。

チェリビダッケ以前のBruckner Nr.8は、私にとっては第二楽章が全てで、第三楽章はどうしても超えられない壁だった。誰のを聴いても眠くなることは避けられなかった。
もう少し言えば、演奏家の方にも、これはブルックナーの交響曲全般に言えることだけれど、集中力の途切れみたいなものを感じることがある。
これは、リスナーとしての自分の技量だけでなく、指揮者自身の解釈にも原因があるような気がずっとしていた。咀嚼しきれてないのではないか?という疑念。
そんなぬぐいきれない思いを抱きながら聴くものだから、余計に退屈になる。
本当に理解に苦しむフレーズがあちこちにあるのだ。

そんな第三楽章でも、指揮者を問わず1箇所(実際にはリピートがあるので2箇所)のコーダ部分だけは、しっかりと伝わってくる。
これ以外は、弦も管も、音が濁って何がなんだか分からない。
で、早々に第三楽章を済ませて、第4楽章の第一主題が始まると、オーケストラ全体が、ほっとしたように引き吹きまくる。これが余計に、実に気持ち悪い。

ところが、チェリビダッケの第三楽章は違う。音がどこまでも澄んでいる。透明感、色彩感。
引き込まれる。
分かる、分かる!ここも分かる!
こんな音楽だった?版が違うんじゃない?いや、普通にノヴァーク版らしいぞ。(ブルックナーの交響曲には、本人や弟子達、研究家などの手によっていくつかの改訂版があって、演奏が違うものがある)


気がつくと、微動だにせず、じっと聞き耳を立てている自分がいる。


こんなに引きこまれ、微動だにせず、音を全部聞き漏らすまいとしたのは生まれて始めてだ。
そして、感動の第四楽章〜コーダ。こんな終わり方だったのかと、涙が溢れる。もう一度聴きたい。いや、いつまでもこの音の中に浸っていたい。そう思わせる演奏だ。

通常80〜90分前後と言われるブル8の演奏の中では、105分を超えるチェリビダッケの指揮は、飛び抜けて長時間の演奏(つまりとてもゆっくり)だとされる。冗長にすぎるという指摘もあるが、私自身はまったくそんなことは感じなかった。むしろ短かすぎるぐらいである。
無駄な演奏、弾き流しはどこにもない。一音一音が意味と意志を持ってこちらに飛び込んでくる。全てが美しい。そして霊感と魂を揺さぶる。
ブルックナーとは、魂の音楽だったのだ。

チェリビダッケによって、今までの自分がいかに音楽を知らなかったか、上っ面だけでBrucknerを聴いていたか思い知らされた。

ところで、チェリビダッケの演奏について誰も指摘していないことだけれど、チェリビダッケの指揮する演奏の魔法のような魅力の原因の一つに、チューニングの問題があるように思う。
詳しくは検証していないので軽はずみに書いて、後で訂正できるようにメモがわりにしておくに留めるが、もしかすると彼は、曲の和音の構成まで全て一つ一つ検証して、純正律に近い和音構成が出るようにチューニングしていたのかもしれない。そうでなければ、この和音、倍音は出ない。
複数の楽器のフレーズが被った時の「鳴り」が、他のオケの演奏とまるっきり違うのだ。


もっとも管はピッチをそんなに極端に変えられないので、絶対的な調律が変わっているわけではないだろう。おそらく楽譜の全ての和音構成を、チェリビダッケ自身が把握して、和音構成と遠近感を計画しているように思える。「この和音が奏でられるためにチューニングされている」としか思えない瞬間がここかしこに存在するのだ。チューニングに15分も20分も指揮者自身が立ち会うという逸話を聞いていると、さもありなんと感じる。それだけチェリビダッケの指揮するオケの奏でる和音は、この世のものとは思えない美しさを放っている。


よく練られた音楽は、空間を浄化するほどの力を持っている。ブルックナーも、チェリビダッケも、そのことを知っていたのだ。
チェリビダッケは、音楽の本当の力を引き出すことに成功している数少ない音楽家だと思う。
彼自身は録音というものを認めていなかったけれども、それでも最低限の歴史に残るべきものはしっかりと伝えてくれている。

何よりチェリビダッケの録音は、ブルックナーが難解な音楽などではなく、退屈で冗長な音楽などでもなく、非常に親しみやすい、美しい調べなのだということをちゃんと教えてくれる。
感謝の気持ちでいっぱいだ。



〜その他の8番〜

我が家には、長いことこのフルトヴェングラー&ベルリン・フィルの録音があったのだけれど、すっかりその存在を忘れ去っていた。そのことに気づいたのは今年に入ってからだった。それで、ブル8の聴き比べがしたくなった。


1949年録音で、音は全くよろしくないが、このフルトヴェングラーの演奏はとてもエネルギッシュで、情感がいっぱいに伝わってくる。多くの指揮者の規範になっているだけあって、まとまり感がとても高い、素晴らしい演奏だ。
ちなみにこのベートーヴェンの申し子のような神的指揮者フルトヴェングラーは、ブルックナー協会の会長でもあった。



オイゲン・ヨッフムとスターツカペレドレスデンのブルックナーは、とてもニュートラルで聴きやすい。他の指揮者に比べるとやや短い(約80分)が、チェリビダッケがそうであるのと同じく、長い短いが問題ではない。ヨッフムの80分は、これでいいのだ。私はこのヨッフムのブルックナーは、かなり理解できると感じる。共感できるところとそうでないところはあるにせよ、第三楽章もしっかりと音楽として成立している。手元にはヨッフム先生のブルックナーが、1,2,4,6,8,9と揃っていて、私のブルックナーの原体験はほとんどヨッフム指揮だと言っていい。おしなべて濁りが少なく、実直で好きな演奏ばかりだ。
ちなみにヨッフムさんもまた、ブルックナー協会の会長を務めたことがある。



巨匠の誉れ高きクナッパーツブッシュ大先生とミュンヘン・フィルの、名盤と言われる8番だが、残念ながら私の感想ではそれほど素晴らしい演奏だとは思えなかった。演奏が粗くところどころ苦しくなる。これのどこが名演なんだろう?何度も繰り返し聴いたが、やはり第三楽章で頓挫する。
最終楽章も、管はがなり立ててミスはするし、弦も雑だ。
私が持っているのは復刻の新品CDだが、新品で買う必要もなかった。LPは21,000円ものプレミアムが付いて中古ショップに置かれてあったが、誰が買うんだろう。こんなものに2万も出す気持ちは分からない。クナッパーツブッシュは、8番の他に、4番と3番が手元にあるが、そっちの方がずっと良い。オケがウィーンであることと、曲自体が当時流行だったというワーグナー節全開なのも手伝っているのかもしれないが、クナッパーツブッシュ先生の名誉のために申し上げておけば、例えば4番(ロマンティック)は、粗さの中にも情感と描写力に溢れる、素晴らしい演奏だ。ブルックナー自身の解説をよく吟味しているのだと思う。ベーム指揮の4番よりも好きだ。
ところで子供の頃は「クナッペルツ…」と教えられていたがいつの間にかクナッパーさんになっていた。





88年のカラヤン先生のブル8。これも残念ながらあまり素晴らしいとは言えない。ブルックナーが聴きたいという知人にこれを薦めてしまったが申し訳ないことをした。全編通して何が行われ、何が奏でられているのか全く分からない難解な物となっている。分からないから眠くなる。眠りかけたところで管が爆発して起こされる。その繰り返し。残念ながら最後まで聴き通せなかった。カラヤン先生の音楽は元来、シャープでスピーディでカッコイイ。長いフレージングをフォルムとして削り出し、まるでデザインモックアップのように目から鼻に抜けるようなモダンな感覚だ。単音による主題の旋律の美しさに裏付けられた曲では大いにその魅力を発揮する。しかし、ブルックナーのような、一見抽象的だが、実は厳密な調性と、綿密な和音と対位法の組み合わせによって構築された複層的音楽においては逆効果になってしまうのだと知った。

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