2011年1月24日月曜日

Twitterで

日頃、リーディングセッションで、僕がお話する事の中には
僕が話しているようでいて、そうでないものも多々あります。
降りて来る言葉とも言うのでしょうか。

そういうものは、セッションを申し込んでくれた方だけのための
まるで神様がオーダーメイドで降ろしてくれた言葉ですけれど
やはり、その中でも、もっと広くみなさんにも知ってもらいたいなと
思う言葉があります。


難問で眠れないとき

何かの難問が立ちふさがり、不安と悩みで眠れなくなってしまいそうな時
次の自問自答(呪文)を唱えてみて下さい。
「今、自分にできることは一体なんだ?」
「眠る事ぐらいだ」
「では眠ってしまえ。その問題は必ず解決する。」
そういって、眠ってしまいましょう。
起きた時には、何かいいアイデアを思いついて解決できます。
起きた瞬間には思いつかなくても、明日のうちには
眠っている間に思いついた事の、いくつかは実践できているでしょう。
睡眠を削ってまで考えなければ解決しない問題など存在しません。
むしろ眠っている時にこそ、私たちの脳は最も活性化して
繁栄のためのプログラムを起動させてくれます。
これは本当にパーフェクトなやり方です。

2011年1月22日土曜日

恐ろしい病気

どんな病気よりも恐ろしい病気があります。
それはは、「不幸」という病気です。
そう、不幸とは病気なのです。
あなたの心の不摂生や環境の悪化によって引き起こされる、恐ろしい病気です。
不幸の特徴は、人を羨み、成功を妬み、うまくやっている人に敵意を持ち、自分を哀れむというところにあります。
不幸は不治の病ではないけれど、長患いすれば手遅れになる可能性があります。
不幸は伝染し、一度かかってしまったら自分以外の誰も治す事ができない恐ろしい病気です。
そして何より恐ろしいのは、不幸という病気は、実際の身体の病気をも誘発してしまうというところにあります。
幸福か不幸かという区別には、物質的な尺度はありません。
お金の問題でもなければ名誉や地位の問題でもありません。
それは常に自分自身の心の状態のことをいうのです。
だからもし幸せになりたいのなら、成功している人を羨んだり、うまくやっている人に敵意を持つような事があっては絶対になりません。
立派な家を持ち高級車に乗っていても、幸せな人もいればそうでない人もいます。
だからといって「あんなのが幸せとは言えない」などと言う事はできません。
恐ろしい事に、もしそんな事を言ったり思ったりした瞬間、その人は一生家も持てず、クルマも持てず、幸せにもなることはなくなるでしょう。
同時に、「自分はこんなに不幸だ」という不幸自慢や嘆きも、自分を不幸にしてしまう怖い毒素です。
だから、恐ろしい病気から離れたければ、まずは「あの人はあんなに幸せなのに(うまくやっているのに)、自分は。。。」という思考パターンから、一日も早く離れて暮らすことです。
成功者は成功者の成功談を喜びます。
失敗者は失敗者の失敗談を喜びます。
幸福な人ほど幸福な話を喜び、不幸な人ほど他人の不幸な話を喜びます。
不幸の病にかかってしまった人は、貧困をも誘発します。
そしてポジティブな宣言や祈りを行うのがしんどくなります。
ポジティブなアファメーションがしんどいのなら、絶対に克服して下さい。
それは乗り越える必要があります。強い意志をもって克服すべき問題です。
あなたには、不幸になる権利はありません。
常にあなたは幸せを目指さなければならないのです。
一生をかけて、命をかけてです。
セッションでは「幸せになれますよ。」と語りかける事がままあります。
しかし本音は違います。
「あなたは覚悟を決めて、必ず幸せにならなければなりません。命を賭しても幸せは追求しなければならないのです。」
と言わなければならないし、そう伝えたいのです。
それは瞬間瞬間の生き様を大切にすることであり、心の状態を管理することであり
変化に向かって決心することであり、自分で決することであり
理想の状態への渇望と希望を持ち続けるということです。
物欲であってもいいし、環境であってもいいし、生き方でもいいし、状態であってもいい。
自分にとっての理想の何かを真っすぐに追い求めてやまない、夢を見続けるという状態を、私たちは続ける義務と責任を負っているのです。
中途半端は決して許されないのです。
そしてあなたの幸せのためにもうひとつ注意すべきことは、不幸を伝染させる人間には決して近づかないという事です。
不幸を伝染させる人間とは、不幸の病にかかってしまった人のことです。
妬み、敵意、羨み、そねみ、無為な日々、嫉妬、醜聞への好奇心にかられた人たちのことです。
近づくべきは、幸せな人です。
幸せな人と近づき、自分の幸せも分けてあげ、相手の幸せを喜び、またそれを自分のものとして捉え、もし自分にまだその幸運が訪れていないのなら、自分にもそれが訪れ手に入れる事を断固として宣言するのです。
宣言して下さい!
自分は理想の自分になるのだと。
世界で最も幸福な人物になるのだと。
それは宣言した瞬間から、起動しあなたの心に強く作用し始めます。
そしてあなたは生まれて生きる意味を見いだすのです。
宣言して下さい!
「私は幸せだ! 勝者だ! 最も恵まれた者だ! 最も護られた者だ!」
あなたがそう高らかに宣言したことばは、必ず実現します。

2011年1月17日月曜日

自ら決して生きる

あなたが考え抜いて決心して、思い切った何かをしようとする時
批判したりやっかんだりする人の事を気にする必要はありません。
他人の活躍や成功を妬む人がいます。
あら探しをしたり、細かい間違いやミスをことさらに騒ぎ立ててみたり。
そういう人は、本当はあなたのように、自分もそうしたかったのです。
でも、その人は我慢している。
「できない」と決めつけたり、決めつけられたりして
したくてもできない人になった。
だから好き事を好きな様にしているあなたの姿を見せつけられると
羨ましくて、悔しくて、そしてあなたのようにできない自分が
とても小さく見えて来るのです。
どんなに成功している人でも、完全無欠な成功などない。
どこかミスや落ち度や、欠点があるもの。
それを見つけた時、その小さき人は
「それ見た事か!」と言う。
でもそれは、本質とは違う何か。
日本人の多くは失敗しないかわりに成功もできないように教育(洗脳)されてきました。
その枠の中にいれば仮につまずいてもフォローされる。生かさず殺さず、分相応に生きることが良しとされる。
で、一旦その枠から出て自分の頭で考えて行動しようとすれば、自分の人生を自分でデザインしようとすれば批判され叱られ叩かれる。それは正しい道ではないと。人の道に外れると。
日本において往々にして跋扈するのは、誰かが作り出したライフデザインに従う事が求められる。そこから外れようとする人間は、生きる事すら厳しい。
国民国家である時代はそれでも良かった。高度成長期もそれで良かった。
それで十分に報いがあった。
けれども、日本は今、未経験の時代に突入しようとしています。
個の力が必要。
自ら決する力が必要。
今までの価値観は通用しない。
みんな、それを潜在的に気づいているのです。
もちろんあなたも。
にも関わらず、相変わらず社会の大枠では
誰か自分でない者の価値観がごり押しされ
誰か自分でない者の人生観によって生きる事を
望むと望まざるとに関わらず余儀なくされる人生が
まだあちこち残っている。
じっとこらえて我慢して、自分の生き方でないところで頑張っている人。
自ら決する事を、批判され、叱られ、叩かれてしょげている人。
好きにして批判されるあなたも
自分が我慢しているからととやかく言う人も、とても不幸だ。
そういう環境ではいつまでたっても
自分の人生がうまく行ったり行かなかったりした時に
「自分の責任だ」と笑い飛ばせることはできない。
「よし次は負けないぞ」とは言えない。
批判される方は「こんな妬まれるような国では成功できない」と責任転嫁し
妬む方は「言われたライフスタイルで真面目に生きて来たのに、自分はつましくて、アイツは勝手気ままに生きているではないか」と、責任転嫁する。
成功も不成功も自分の責任で
誰でも好きに生きたらいい。いろんな人に迷惑かけたらいい。
迷惑かけたら、ごめんといい、その分責任をとればいい。
あなたは好きな様に生き方をデザインして生きられる。
日本人には、奔放さがまだまだ足りない。
本来、人生はフリーハンドなものなのです。
レールなんてどこにもないんです。
信用、つきあい、義理、世間。それは確かに大切なもの。
けれどもそれを価値観の中心に据えて不幸になっている人のなんと多い事か。
幸福は自ら決する者以外には宿ることはない。
自ら決するために、時にそれらを敢えて隅に追いやる勇気を。
奔放に生きて
あなたもあなたの愛する人も
社会も国も世界も
あなた自身があなたの裁量で幸せにすればいい。


2011年1月10日月曜日

2010年を振り返って

前述の通り、2010年も後半の方は、Column2010の更新があまりできませんでした。
なかなか更新できなかった理由を考えてみました。
改めて思い返すといろいろあります。
2010年は、けっこうこれでいろんな事があったのです。
例えば…
1、Twitterを多用していた。
その時言いたい、伝えたい、書き留めておきたい事の殆どが、Twitterの140文字で事足りてしまう事が多いこと。
思い立った時に書けるのはやはり便利。
移動中などにiPhoneからさっと書けるのも魅力です。
もっともTwitterも暮れに近くなるに連れて書かなくなりました。
実はTwitterで情報を発信したり受信することについては、未だに疑念と迷いがあります。ますますその疑念は深まる一方です。まあ、この辺の事情についてはまた改めて書く事にします。
、音楽鑑賞に耽溺していた。
子供の頃から音楽が身近にある生活を送って来た事もありますが、最近、音楽が空間の気を変化させる事に気づいて、その実験も兼ねて、普段にも増して 音楽を聴きまくっておりました。この「音楽による気の変化」については非常に興味深い現象に気づきましたので、そのうち改めて書きたいと思っています。
それにしても、聴いているうちに、以前は聞き流していた名曲の数々に、改めてはまってしまうことになって、レコード屋さんに通うことになってしまってます。
3、仕事の在り方を再考していた。
去年からスタッフが相次いで去ったり入れ替わったり仕事そのものの状況が変化したこともあって、結果的に4〜5年ほど続いていたワークフローを終焉 させる1年になりました。実はこの数年間のワークフローは自分のためのものというよりは、流れに乗っかっていたり他人のためにと思って進めて来た事でもあ り、何を隠そう失敗も多かったのですが、やはり素晴らしい体験や、次への礎になるための重要なステップであった事は確かで、そのアイテムや筋をじっくりと 凝視し、何を捨てて何を拾い上げ育てて行くかを見極める、とてもとても大切な一年となりました。
友人やお客様、セッションクライアントのみなさんから見ると、私のポートレイトは人によって全く異なるかもしれません。ある人にとっては、佐藤千洋は 「インダストリアルデザイナー」であり、他から見ると「リーディングセッショナー」であり、はたまた「ミュージシャン」であり、あるいは「Webデザイ ナー」であり、「ジュエリーデザイナー」であり、「お坊さん」であり「ペインティングアーティスト」であり「スピリチュアリスト」であり、「執筆家」で あったり「起業家」であったり「CGクリエイター」であったり。。。キリがありません。
とにかく「○○だと思っていた」のは一面でしかないわけで、私としてはやりたい事をとにかくやりたいようにやってきただけで、自分の職業を一つに絞りたいと思った事は一度としてありません。
対外的に、その都度「デザイナーです」「セッショナーです」と述べて来てはいますが。
もちろん、まだまだやり足りませんし、何事かを成し遂げたかと言えば、自分ではまだ何もしてません。
とにかく2010年は十年単位での大きな節目になった事だけは確かなようです。
4、絵と音楽と気と瞑想
私の趣味を越えたライフワークの一つに「油絵」があります。
キャンバスに向かう時間は、瞑想できる大切な時間です。
今年は特にこの時間が長くなりました。
そして「気」のコントロールの事を考えて行くうちにどうしても突き当たるのが、絵と音によるコントロールなのです。これはとっても画期的です。ただ、ある程度の答えは出ましたが、研究としては一生続くのではないかなと思っています。
5、セッションがけっこう忙しかった。
これはデフォルトですね。いつでもあなたのそばにいますから。
…と、こんな感じで2010年は後半、ほとんどブログの更新が止まってしまったのでした。
楽しみにしてくれていた方には、本当に申し訳ないことを致しました。
2011年はしっかりブログ更新をルーチンに入れて、皆様のお役に立つ所存です。よろしくお願い致します。

2011年1月3日月曜日

新しいアート

アート…
感性の賜物、美の感覚
驚きと心地よさ
哲学と思想
思考、さまざまな思い
好き、キライ
もうひとつ
アートとは、実用のもの
常に実用的。
人間の生活、人生を豊かにしてゆく道具。
また、新しいアートの時代がやって来ようとしています。
わたしも参加します。
月