2011年6月20日月曜日

打ち響くもの(1)



気の進まない義務や責任からは遠ざかって下さい。
それを強要するものから遠ざかって下さい。
豊かであることを念じ続けてやりたい事だけを一心に行って下さい。
美しいものから目をそらさないように、動き続けて下さい。
逃げなさい。
2014
その変化に明確には気づく者は少ない。
3つの災害。
そこには行くな。
アーカイブの損失。
物質の終焉。
愛と自由。
価値観の逆転。
モラルやルールに縛られないように。
毀誉褒貶に囚われないように。
怒りの氣がうずまく場所から遠ざかって下さい。
時代の断層、文明の断層。
出番は近い、でもまだ。急がない。
愛で溢れて下さい。
超人。
700人。
2040-2100。

2011年6月10日金曜日

マクロビオティックはどこまで緩くできるか(1)

マクロビオティックでは、「玄米菜食」という基本概念の他に、いくつか大切にされているものがあります。

その中に「身土不二」というものがあります。

人間は、食べ物でできている。
食べ物は土とその土地の気候風土から生まれる。
つまり人間はその土地の気候風土に合わせて食べ物を選ばなければならない。
人と土は切っても切り離せないものだ。

という概念です。


とても大切なことです。私もセッションでことあるごとに話している事です。
ですが、あまり神経質になりすぎると、豊かな食生活を否定してしまうことにもなりかねません。

マクロビオティックの線引きは、本来は厳格です。
しかし同時に、優しさ、許し、許容という精神を培うものでなければ、それを継続する意味はなくなってしまいます。

だから私は常に「ゆるめにやればいいですよ」と言います。

基本は玄米、そして地元の野菜中心の生活。なるべくオーガニック。
「摂らない方がいい」というものはなるべく摂らない。


一方では、こうして一度基準を緩めてしまうと、自己管理がどんどん難しくなってしまうという声もあります。それまで玄米菜食を中心にしていた人が、ある日蕎麦が食べたくなった。蕎麦はマクロビオティック的には何も問題はありませんが、「粉もの」というちょっとした弊害を持つ特徴もあります。マクロビオティックでは、製粉したものはあまり摂らない方がよいというのがあります。でもたまにならまあいいのです。

ところが粉ものというのは仲間を呼ぶ傾向があります。
次は必ずうどんが食べたくなるんですね。
うどんはさらにマクロビオティックから外れます。

うどんを食べると、パンやラーメンが食べたくなります。
パンやラーメンを食べると、濃い味のスープが欲しくなります。
濃い味のスープを味わうと、陽の強い味がどんどん欲しくなります。
肉や魚などの強陽の食品が多めに欲しくなります。
強陽食品を摂ると、必ず対極の強陰、例えばアイスクリームや乳製品などが欲しくなります。

気がつくと、マクロビオティックとは無縁の食生活に変わり果てている
そういう事も珍しくありません。

こうなると玄米菜食に戻るのがとても大変になります。


かくいう私もしょっちゅうです。
だから、やっぱり線引きは重要なのです。
一体、どこにその線引きをしたら良いのでしょう。




2011年5月27日金曜日

本当に予言できる人

予言できる人というのはたくさんいます。
もともと人間にはそういう力が備わっているのです。
女性に多いかもしれません。
物事を先入観や生半可な知識による直感の妨害を受けずに済む人が多いから。
「守る」という能力が高いから。

ということは、男性であっても、先入観や生半可な知識で頭の中をかき乱されなければ、予言できるかもしれませんね。

ただ、ちょっとまって。
予言には注意が必要です。
その多くが「恐れ」「恐怖」に基づいている場合が多いからです。

そういった巷で言われる、災害についての予言の多くは
そういった恐怖の直感による防衛反応である事がほとんどです。

大災害が起きる、地震が起きる、地球が滅亡する。

この感覚は、実はややオーバー目に潜在意識に訪れる、ある種の増幅感覚です。
外れて元々。
用心のために人間が元々持って生まれた防衛本能なのです。
本当は誰でもできるのです。

災害を予言できる人が偉い訳ではありません。
むしろ恐怖直感が潜在意識にとどまっていられずに意識上に芽生えて誰かに言わずにいられなくなるというのは、資質として大問題です。
そんなものは予言でもなんでもありません。

もう一度言います。
予言できると言って、何かを言う人のほとんどは、直感本能による恐怖直感の増幅を感じ取って、それを自分だけに備わった能力と勘違いしてしているだけです。


本当に予言できる人というのは、災害や地震の予見には疎い人が多いのです。実は。
というよりも、本当に予言できる人は、災害予言はおおっぴらにはしません。
「予言です!」とか「こんな予感がします!」などと言わないし思わない。

なぜなら、そんなものは自然に芽生えて来る感覚だから。

自然に災害から「自分が遠ざかるように」行動してしまう。

これが本当に守られている姿です。

「地震が来ます!」「みなさん逃げて!」などとやる人は、自分の恐怖直感を意識上に上らせてしまう。
無意識から意識上に上らせるということは、他人をもその恐怖直感に巻き込んでしまう。
そうすると、他人の感覚も狂わせてしまい、正常な直感判断をできなくしてしまう原因になります。

だからいたずらに災害予言をする人というのは、私から見ると、実に修行の足りない、業の深い人だなあと思います。



災害とは、今話題になっている言葉で言えば、「てんでんこ」のものです。
災害から守られるということは、人それぞれの直感や生きる役目に応じた、無意識による守護です。

善悪や行いや予言ではありません。

住む場所、その日の行動、思い、事情、タイミング、直感、情報との長年の縁。
それらは全てその人の自主的な人生の役割と必然から生まれている。

その全ての組み合わせによって、その人の運命が、その日を分つ。
悲しくて辛いけれど、それは予言によっては決して救われるものではないのです。

自分が恐怖を感じ、心配するのは自由。しかしそれで守られ、逃げられるのはあなたとあなたの大切な人だけです。

自分の恐怖直感を意識上に上らせ他人を不安に陥れる事で、運命的に関係のない他人の判断に理性の邪魔や恐怖直感のいたずらな増幅を起こすことは、その人を死に至らしめる危険性を増すことはあっても、決して助けにはなりません。

だから、力のない者が予言をしては決してなりません。

本当に予言ができる人の言葉は重く、少ない。
今この瞬間もです。

神は全て見ています。