2016年3月30日水曜日

一晩の神の手

色と色を重ね合わせる。
どうも判然としない。
心の中でしっくりいかない。

一晩経つ。

同じ場所を見る。

素晴らしいコントラストにはっとする。

明らかに、一晩のうちに何かが起こって、色が変化し、重ね合わせが違う色を生み出している。

溶剤が硬化したからなのか
それとも何かの科学変化が起きたのだろうか?

神の手だろうか?

何れにしても、その変化が、次の一手の大きなヒントになっていることは間違いない。
油彩における絵描きの一手はこうしていつも神によって助けられている。

2016年3月29日火曜日

新しい表現方法


2月の半ば、筆で感情に任せて描いたものの、この先どうしょうもないと感じていた絵に絵の具を垂らし、パレットナイフでごたごたしてるうちに、街の風景が出てきた。

これはと思い描き進めているうちに、とても良い感じに空気感というか、奥行きが出てきた。
最後に黒と藍と白で陰影や輪郭を整える。

意図とシャマンモードの一致。
久しぶりに来た。

この表現だ、欲しかったのは。

これを再生できるだろうか。

例えば同じような色が続く空、森、葉、地面はどうなる?
もっと洗練された陰影はできないか?

どこまで意図し、どこまでを神の意志に任せる?


アートとはイノベーションではなく、アート化することである

イノベーションばかり気にする自分と現代美術家達へ


アートとは、イノベーションではない。
アートとは、アート化することそのものである。

アート化するというのは時間というフィルターを乗り越えて長く広く大切にされることである。

それはイノベーションとはさほど密接な関係はない。

イノベーティブでなくとも、例えば価値の定まった定型的な工芸や日本画であっても、生まれて直ぐに芸術とされるものがある。それは、それが誰の目にも時代を超えて大切にしたいと分かるから。
それまでの歴史や文化の伝統が、アートをはっきりと定義付けているのだ。


その時代に「訳のわかんないもの」が、「これはアートである」と誰か特定の人物が宣言することでその場でアート化したりゴミになったりすることは決してない。

アートかゴミかの分かれ道なんてアーティストは考えて創作してはいない。

そこにあるのは衝動と美への探究心だ。
自分がイノベーターであらんとすることは悪いことではないが、そこを注視し過ぎると、道を見誤る。

その作品がアートかゴミかを判断するのは、時代をまたいでそれを見たり聴いたりして「おお!」と思う人々であって、それを担えるのは、時だけだ。
つまり、イノベーションよりももっと大切なことは、時の経過を想って創作するということである。

見た瞬間に特定の人物が、一般論として「これはアートだ!これはゴミだ!」と即断することはできないのである。

もちろんその大前提には、創作そのものがアートたらんとすることが必要だが。

時が経ち、残るものだけがアートとなり得る。それまでは「おお!」と思う人だけの宝物。あるいはエンターテイメント。その人の中でアートだと思えばアート。その辺は理屈じゃない。

「音楽であれデザインであれ絵画であれ、本当に良いものだったらちゃんと残る」と言ったデザイナーがいた。本当にその通りである。

イノベーティブなものとアートはイコールではない。

ダヴィンチやゴッホをイノベーターとするのは後出しじゃんけんのようなものである。彼らは突然変異でも何でもない。
ダヴィンチの前にはフィリッポリッピやドナテッロやベロッキオがいる。

ゴッホをしてアーティストたらしめたのは、ピサロやモネをはじめとする並み居る印象派の面々である。

一見、突然変異に見えるものでもよく見るとちゃんと長い前触れがあったりする。それは環境が要因になって起こる。
ある日いきなり何の前触れもなく人為的にイノベーションを起こしてそれがリアルタイムに広まるなんてことは、実はない。変化は常に順当だ。


それができるだけ「個」に近い力によって成されたものであればあるほど、アート化へのブースターは持っているのかもしれないが。