迫る津波と追いかけっこした父は
翌年には全ての記憶を捨て去り
今は近所の特養に入って4年目の寝たきり生活。
木曜から食べ物も飲み物も受け付けなくなり、昨夜は病院へ担ぎ込まれました。
この冬2度目。
いよいよかと思いきや。
今回は熱も肺炎もなく、点滴だけで帰所。驚異の生命力。
でも、そろそろお別れのことを真剣に考えなくてはならない。
食べられない、飲めない。
準備しろよとのサイン。
点滴中、ほっとして、ふとストレッチャーのキャスターをぼんやり眺めながら
くだらないことを考えてました。
「医療系のデザインは、ホントにやりたい放題やらせてくれたなあ」
とか。
一見見ると、転がり抵抗が莫大なのでエンジニアは決してこんな車輪の線は引かない。
でも、実際には中に仕込まれてるのはフツーのベアリングに過ぎない。
つまりはカバリングのギミック。
この見た目ギミックを、コストと衛生管理面と法規と機構設計と全方位的に知り、調整して具現化するのがデザイナーの仕事。
あ、コストは度外視だった!
そして営業ととても仲が良くないといけない。
散々飲み歩いた。
とか。
今春、母は塩釜の家に帰ることに…。
実家の仙塩地区では施設不足で父の入所が叶わず、僕の住む埼玉で入所。
父の看病のために母も移住。
3年経って、精神的にも限界が来て、向こうで最期を迎えたいと、父を残して。
父が食べなくなったのは、そのせいもあるのかなあ。
埼玉県内には、まだ3600人以上の被災者の方々が避難されています。
http://www.pref.saitama.lg.jp/a04…/documents/forhp300201.pdf
父母は別にこういった被災者にはカウントされてはいません。
でも、家が無事でも、家族が無事でも、情報も連絡も絶たれた状態で、寒さと不安と暗闇の何週間を寄り添い過ごした人々の思いは、何年経っても癒えることはないというのを、父母を通し、知ることが出来ました。
街は復興しても、心は、あの日のままの人もまだまだいる。
亡くなった友人や親戚の中にも、津波で亡くなっただけでなく、復興の最中、過労や心労やそういったものを抱えて逝った人が何人もいる。
年月が経つに連れ「花は咲く」を聴くたびに、胸が詰まることが多くなって来たのはなぜなんだろう?
どうか、一日も早く、全ての人が平穏な日々を取り戻せますように。
合掌
0 件のコメント:
コメントを投稿