2023年最初の個展まであと10日を切りました。時間を忘れて絵と向き合いつつも、去年〜今年はいろんな経験をし、そのインプットが出て来つつあるのを実感しています。
良いこともそうでないことも、楽しいことも辛いことも、嬉しいことも悲しいことも、充実したことも虚しいことも、高揚感も悔しさも、全てが糧となっています。
その中のひとつ
「父のマミヤ」を探す旅。
その中でさまざまなカメラと出会いました。
そしてそれは、改めて日本の再興と成長を支えた工業の歩みの追体験でもありました。
工業デザインの隅っこにいた者として、この追体験は本当に勉強になりました。
1950年代は、戦後焼け跡から始まった日本の工業製品が、急速に品質と性能を高めて世界にチャレンジしていった時代。
その代表のひとつがカメラではないでしょうか?
ニコン、マミヤ、トーコー(トプコン)、ミノルタ、小西六(コニカ)辺りは戦前からものづくりを続け、兵器開発製造にも携わった経験から、性能そのものは良かったそうです。
それでも1948〜1953年頃までは、まだ戦後の間に合せコピー感から抜け出してはいません。
各社のライカコピー(世界中でコピーされた)は言うまでもなく「世界で一番売れた二眼レフ」と言われるリコーフレックスや、日本初の「一眼レフ」と言われる(ドイツイハゲーイクザクタのコピー)のアサヒフレックス(ペンタックス)ですら、シンプルなのは良いのですが、やはりどこか貧しさ、寂しさを感じます。
ところが1954年頃から、突然日本の工業製品レベルは本当に「化ける」ように変わっていくのです。
その中でも群を抜いていたマミヤは、1953〜1960年頃には、既に完成の域に達していました。
写りやレンズは当然のこと、ダイキャストボディ、スイッチ類の手応え、ダイヤル類(1955年頃のモデルまではまだおそらく手動旋盤による削り出し)、板金部分の噛み合わせやチリ合わせの精度等まで、もはや同時期のツァイスにも全く引けをとっていません。
しかしそんなマミヤの35mmカメラはあまり売れませんでした。各社の競争が激しさを増す1960年代になると、コストダウンや陳腐化計算、マーケティングの時代が到来、高品質高価格のマミヤは次第に精彩を欠くようになります。そしてそういったことをあまり気にしなくて良いプロ用中判カメラの方に軸足を移してゆくのです。
上写真
左:二眼レフマミヤフレックスB(1954)
中:マミヤ35 II(1955年)
右:マミヤ35メトラ(1958年)
↑
このメトラがいわゆる「父のマミヤ」。やっとの思いで手に入れた個体が酷い状態で、修理に出しつつ部品取りのために入手した数台のジャンクの方が程度が全然良くて、主役が3台ぐらいに増えて困惑💦
↓
0 件のコメント:
コメントを投稿