2011年8月4日木曜日

困難に立ち向かうか逃げるか。流れに身を任せること。

困難から逃げるな、避けるなと言います。
そのこと自体は、状況を打破するためには確かに重要な要素のように、一見聞こえます。

でもその前に。

困難には2種類あります。
ひとつは積極的に立ち向かう価値のある困難。
もうひとつは、今すぐ立ち向かってもあまり意味のない困難。

その困難が、立ち向かう価値があるのなら、あなたは状況を打破して前に進む事ができるでしょう。あなたを取り巻く環境や心の問題を一気に解決してしまうかもしれません。あなたの人生は挑戦と勝利に満ちる事でしょう。

もしそれが立ち向かう価値のない困難だったらどうでしょう。それに真正面から立ち向かうことは、あなたを疲弊させるばかりです。心配と労苦、不安で満たされるでしょう。自分のエネルギーを取られたと感じ、時間と労力の無駄を感じるかもしれません。立ち向かうべき困難が現れた時に、それに立ち向かい勝利を納めるほどの力も削ぎ落とされて、本当に辛くなってしまうかもしれません。

立ち向かうべき困難と、そうでないもの。その区別を流れの中で判断すること。
これが成立して初めて、私たちは困難とつき合うことができるのです。

では、困難をそのように区別するにはどうしたら良いのでしょうか。
立ち向かう価値のある困難は、必ずあなたの目標や、本当にやりたいこと、本音と関わりがあります。

例えば、あなたはある目的地に行かなければなりません。
そこにはあなたの愛する人、大切な人が、あなたの到着を今か今かと待っています。

しかしそこに行くためには、必ずある場所を通らなければなりません。
そこでは、もしもチャンスさえあればあなたから金品を奪ったり、嫌がらせをしようとする追いはぎが、あなたの通るのを今か今かと待っています。

この時、あなたは愛する人の元に向かうことを一瞬はためらうでしょう。
しかし、次の瞬間には、いろんな考えが頭を過ります。
「そこを通らずに目的地に行くにはどうしたらいいか」「追いはぎに遭遇しないようにするには」「防衛できないか」「戦うか」など。そしてあなたが会いたいと思う気持ちが強ければ強いほど、「あまり心配してもしょうがないか」という気持ちが芽生えて来る。「その時はその時だ」。
そして、意外と困難を軽く克服してしまい、あなたは大切な人に会える。


逆に、目的地にいるのが、あなたが借りたお金を返しに来るのを、今か今か、遅いぞと思って待っている相手だったとしたら、あなたの気持ちはどうなるでしょうか。
「追いはぎに会わないように」を考える気持ちよりも、その困難の大きさと、あなたの果たさなければならない責任との狭間で、緊張し、アイデアも出ず、あるいは気がヘンになってきてしまうかもしれません。
だいたい、困難を克服してもあなたが得られるのは、あなたの信用が保たれたという現状維持ぐらいなものです。せいぜいホッとするぐらい。

乗り越えようとする力が湧く困難には、必ず自分自身が「これのためならこれぐらい!」「よしやってやろうじゃないか!」と思える熱情の裏付けがあります。つまり、困難に飛び込むのにあまり抵抗がない、心の奥底ではあまり心配していないという心の状態が付いて回るのです。


このことは、その人の特性や「本当にやりたいこと」の本音が隠されています。


立ち向かってもあまり勝ち目のない困難や意味のない困難は、たいていの場合、自分があまり得意でない、好きでない分野の困難だったり、状況が理不尽であったり、社会的な何かに自分を無理に合わせる行為、あるいは正面を向き合うのが本当にキツいと感じるものだったりします。

責任、義務、信用。
とても大切なことであり、守るに値するものです。
しかし、それを人生の価値の中心に置いてはなりません。

その先にあるものを見る必要があります。
それが、目標であり、夢です。
夢、目標は、動機です。
それこそが困難を克服するエネルギーであり、社会に自分を合わせてゆくための理由でもあります。
ただ従うのではない、ただ立ち向かうのではない。
「○○のためなら多少のことは平気だ」という動機なのです。


これは千差万別です。人によって違うのです。
「あの人が克服できた」からといって自分も克服できるかどうかは別です。



では
立ち向かいたくないが、向き合わなければならない困難が、現実問題として目の前にあったらどうしますか?
積極的に立ち向かう事をやめて、一旦、自分をアイドリング状態にします。俯瞰できるまで。
それは、もしかしたら台風のように身を屈めていれば過ぎ去るものかもしれない。
火災のように逃げれば助かるかもしれない。
誰かが代わりにやってくれるかもしれない。
時間とともにその問題が変質し、克服するのが容易になっているかもしれない。
自分にそれを克服する能力やヒントが見つかるかもしれない。

一時的に責任や信用の問題になるかもという心配や、思考停止を心配するかもしれません。
しかし、本当にあなたがしたいこと、夢、目標がちゃんとあるのなら、それは思考停止でもなければ、責任の放棄にも何にもなりません。必ず然るべき解決がなされ、あなたの名誉は守られます。

あなたの人生に大切なものだけが残り、不要なものは去ってゆくでしょう。
あなたが理不尽だな、しんどいなと思う事ほど、流れに身を任せてしまい、力を抜いてみて下さい。

もちろん、2〜3日で答えは出ません。
もっと気長に。
今は今できることだけ、やりたいことだけやる。

そうしているうちに、いつのまにか解決していることもあるし
以前よりも、なんか自分で解決できそうな気がしてくる場合もある。
そして解決。

夢、流れ。
これらがあなたを守ってくれたのです。




さてところで、これを読んでいる人の中には「自分なら夢や目標など明確になくても、困難などない、あってもすぐに解決できる」と思ってしまう人もいるかもしれません。
そういう人は、生物学的若さを保持していると言えるでしょう。
私流に言えば、まだ天命を受けてないとも言えます。このことは後で説明します。


魚類の多くは、一生の大半を「流れに逆らって」過ごします。水の流れがあると、本能的に(というより生物学的に言うところの走性によって)流れに逆らって泳ごうとします。そして、寿命を迎える寸前になって、その本能が失われます。生のエネルギーが枯渇し、流れに身を任せるようになるのです。そうして魚は一生を終えます。


人間も、動物として生きた場合には似た様な習性があります。
若さの溢れる時期には、常に流れに逆らって生きるエネルギーを持っています。
それが、理由なき困難に立ち向かうことのできる力、能力です。


しかし、それはある日突然失われます。
魚と違う人間の悲劇は、その能力が失われた後も、寿命は尽きずに、さらに数十年も生きながらえてしまうというところにあります。


昨日までの自分は、故なき困難にいくらでも立ち向かうことができた。徹夜でもして、乗り越えて来た。なのに突然できなくなってしまった。何故だ?となる。これが老いなのか?


もしも、魚と同じように、他の動物と同じように、流れに逆らえなくなった時点で、自分の人生はおしまいだ、意味がなくなったと考えるのなら、その人は人間とは言えません。


人間は、流れに身を任せられるようになってからも存分に生きる事ができます。流れに身を任せても、逆らっても自由自在の本当の人生が始まるのです。
日頃私のセッションを受けていらっしゃる方は、もうお分かりでしょう。


人生の第二ステージです。


それは、老いではありません。終了でもありません。
本来の天命を見つけて、その天命に従って生き、世の中を変えて行くという仕事を要求されているのです。
それは確かに、生物学的な老いと共にやってくることが多いようです。
一般的には、「厄年」と呼ばれるものととても連関する例が多いようです。


しかし中には10代でその天命を知って生きる人もいます。
人ぞれぞれです。


未だに故なき困難と立ち向かって疲弊しているという自覚があるなら、天命についてじっくりと考えてみて下さい。
それを見つけるヒントは、状況的制約を全て無視して本当に自分がしたいこと、そして流れに身を任せてみること。


私はいつも同じ事を言っています。
夢想でもいい、妄想でもいい。


その中に必ず、素晴らしい天命が隠されている。
あなたを輝く未来に向かわせる唯一の力です












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