「早瀬」2016 (部分) |
最近は珍しく、続けざまに具象を制作してます。
人物です。
人物は4年ぶりぐらい。
僕は人物はスケッチの時以外は殆ど対象を見て描きません。
記憶に頼り、最初は狂ったデッサンのまま、ポーズも想像で始めます。
下書きも一切しません。
デッサンの狂いが気になった時だけ修正しますが、狂っていてもそのままにすることがあります。
上手に描きたいという気持ちでやってるとすれば、かなり不利で面倒なことをやってるのですが、まあ、見て描こうが見ずに描こうが、どうこねくりまわしてもヘタクソなものはしょうがない(笑)
でも、やり直しや試行錯誤、一心不乱、無意識の造作を許してくれる部分こそが
技法としての油彩の、平面構成における最高の利点と言えるでしょう。
具象はそれを思い出させてくれる、大切な立ち返りでもあります。
で、ああでもないこうでもないと具象を制作しながら、僕は抽象の事を一所懸命考えます。
両手を動かしながら、同時に過去の作品を見直しながら
具象と抽象、両極端なことをしていると、アイデアも妄想も膨らみます。
ノーコンセプト、ノープラン。
そして制作中、全然違う抽象のことを考えている。
それには理由があります。
コンセプトのしっかりした絵は素晴らしいと思います。
綿密なプランのある絵も素晴らしいと思う。
けれども、もっと素晴らしいなあと思う絵は、内なるもの、天なるものが描かせた絵。
残念なことに、どんなにデッサンがしっかりしていて、美術技術的に上級で、綿密に計画された、熟練された絵でも「はいきれいだね」で終わってしまう絵はある。
それは、上手でもエネルギーが不足している。故に作品の寿命が短い。
逆に、それらを全部ぶっとばしたような「なんだこれ?」「うへえ」「こなれてないなあ」というような絵肌、構成の絵でも、作者の意図(コンセプトや思い)と、それを超えた意図(内なるもの、天なるもの)が組み合った絵は、いつまでも僕の心を打つ力を持っています。
ものすごいエネルギー。作品の寿命が長い。
それは大真面目な「大作」であっても、気楽なエンターテインメントでも、頼まれ仕事でも同じ。
僕自身も、ギミックに走ったり、大見得切って芸術とかやり始めると絵が死んじゃいます。
そんなことより「今日は内なるものとちゃんと会話できたか」「天に任せられたか」が、とっても重要。
そのためには、どれだけ人生の経験をしたか、どれだけ内なる神と会話できたか。
一番やりたくないのは、アカデミックな技術論芸術論で絵を見ること描くこと。
気をつけてないと、すぐそうなっちゃう。
技術なんて方便。
あれば便利。
でも、絶対じゃない。
絶対なのは、この絵を必要としている人が世界のどこかにいて
そのために描いているのだという思いと
そのために、自分は様々な経験を積んで、今ここにあるという
少しだけ謙虚な気持ち。
それが、内なるもの、天なるものにアクセスを許してくれる唯一の切符。
「オレの芸術はスゲエ」
というような考えは、まあ、面白い、いいようでいて
でも、結果的には自分の絵を殺す。
芸術かどうかは重要なことではないのです。
技術を捨てよう。
意図を捨てよう。
人に答えよう。
世界に答えよう。
神に答えよう。
そして楽しもう。
自分への戒めです。
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