2017年2月21日火曜日

無念と無我

かねてより「無念」という言葉の使い方に違和感を感じているのです。

無念とは、余計な念がないこと。つまり無我の境地。
素晴らしい境地。

なのにどうして残念至極を表現する言葉になったのかその経緯と理由が知りたい。


無我の境地で思い出したけど、横山大観の「無我」も違和感がある。

作品そのものにではない。題名。


初めて美術だったか倫理社会の教科書に載ってるのを見た時から第一印象で「おかしい」と感じていた。

子供の頃、無我どころか全我、この世界は自分のために存在するのだと本気で信じていたから。
いや、本気もなにもない。子供は自分が見る世界が全てだから。
自分以外に自分を感じる人間がいるなんて想像もつかないわけで。

だからこの有名な絵が「無我」を表しているとは到底思えなかった。

どちらかと言えば

「忘我」

かな。

ずいぶんとぼんやりしたこどもだこと。



「無我」というのは「自我」を認識できて初めて分かる。
成長して自我を強く認識するようになると同時に
他者にも自我が存在することに気がつく。

そうすると、自分から見た他人、他人から見た自分を対比させて行動する。
社会的行動。

自分の行動に自分の利益以上の規範が生まれる。
それはとても有意義であると同時に、制約も生まれる。
それは自我あるが故の行動。

つまり、自我の増大を抑えて行動することこそ、自我の成せる技なり。


だから時には敢えて自我を捨て去らなければならないことがある。
どんな時?

創造とか、創造とか、創造とか。

こう見られたいとか、こう描いてみたいとか。

とてもよく分かります大観先生。


自我故にくっついてくるものを捨て去るために自我そのものを捨てることを
改めてやらなくてはならない。

捨て去るというより、解脱。
断捨離。

強く自我を意識しつつ、そこから解脱できて初めて得られる境地。

で、無我に至るには無想無念が必要になる。

無双無念もこれまた無自覚からは決して到達できない。

強い自我、強い自覚があって初めて、その対極である無念に到達できるわけです。

ん?

ってことは

もしかして

残念至極、かくなる上は無念無想の境地に至わざるを得ず

ってことかな?


ともかくも、芸術は無我の境地でないとダメなことは確かです。

ウケを狙ったりしたものにロクなもんはない。
無我の境地、無念の境地で描いたものはどんなものでも素晴らしい。

そんな境地に自分を置くのに、今日も苦労しています。

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