2017年5月29日月曜日

リアリティの在り場所

リアリティって不思議なもので、そこに描かれているものと作者との距離が近ければ近いほど、押し迫ってくるリアリズムというのがある。

いや逆か。

すごいリアルだなあという作品を穿つと、必ずその対象との密接な関係性を発見する。
写実非写実には全く関係ない。

例えば僕はよく、リアリティのある絵(しつこいようだけど写実かどうかとは全く関係ない)に描かれている風とか空気の匂いを感じることがある。

これは風の匂いの表現要素を作者が会得したり意識しているからではなく、作者の体験が「伝わる」。
不思議なもので、なぜか伝わる。



このスケッチは、公園の日陰で座っているおばあさんを描いたもの。
僕はそれほど筆が速くなく、記憶力もよくないので、基本的にモデルが動かれると困る。

動かないでもらったほうがありがたい。

だからじっとしてられない子供たちを描くのは、ちょっとニガテ。

写真を使えばいいじゃないかと言われもする。

デッサンや形態把握のためなら、写真でもいいかもしれない。

そこにいる人、物の、「何を捉えるか」で、写真を使うかどうかは決まる。

もしも、このおばあさんの姿を「正確に」捉えたいだけなら、写真はとてもいい。

でも、おばあさんの心を覗きたければ、写真ではダメなのだ。

彼女の姿を正確に捉えることよりも、おばあさんの心のうちを想像しながら描くほうがずっと重要なのだ。

こどもたちは、無心に遊んでるから、写真でもいいのかもね。




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