1997年9月14日日曜日

個人的なクルマへの思い(1997/9/14)

僕のクルマ遍歴は、ずいぶんとヨーロッパ車に偏ってきたような気がします。

もちろん、それほど高級なものではなく、コンパクトカーや大衆車と呼ばれるものが中心です。国産車については70~80年代のいくつかの車種を除いてはあまりよく知りません。

日本車は、正直に言えば、以前はその多くは、背景やコンセプトに首を傾げてしまうものは多かったのですが、今はセカンドカーや普段使いになら、素敵だなあと思えるクルマが増えるようになりました。

 昔からホンダシビックは好きなクルマの一つです。雑誌や評論などを読むと、モデル毎に随分と評価が乱高下しますが、僕の知っている限りでは、全てのモデルにそれぞれ意味が込めて作られていて、もちろんいいところばかりではありませんが欠点をカバーして余りある名車シリーズだと思います。



もう一つ挙げるとすれば、マツダ(ユーノス)ロードスターです。これは発売の初期に一ヶ月ほど乗っていましたが、シート以外は全て好きでした。成り立ちとしては、言ってしまえば50~60年代英車のトレースコンセプトだそうですが、世界中のメーカーにそれを思い出させたというだけでも、世界に誇れる名車の一つだと思います。
運転していて、こんなに楽しいクルマは他に探してもなかなかないと思います。

 ところで、特に外車系の自動車評論に多いのですが、クルマに「味」を求め、国産車へのアンチテーゼとしてこのフレーズがちょくちょく出てきます。

僕はあまり賛成できません。1980年代の初め頃までなら日本車にも「味」のあるクルマが沢山ありました。「味」を否定し、やみくもに、欧車並みの合理性をメーカーに求めたのは他でもない、我々日本人ユーザーです。

 日本車が「曲がらない、止まらない」時代に外車を選ぶ理由を探すのは簡単でした。「基本性能」「合理性」「デザイン」つまり「出費に見合う品質」に、圧倒的な差があったからです。現在、日本車が「曲がる、止まる」を欧車並に身につけた時に、「味」という、第三者に定義の伝わりづらいテーゼで日本車を語ろうとするのはフェアではありません。

今日本車が失っているものが「味」という表現で済むものだとすれば、それは全てクルマが生き残って行くために捨てなければならない、過去の遺物ではないでしょうか。そうして最後に捨てなければならないのは、アクセルを踏んだ時に我々の五感を刺激して止まない、レシプロエンジンの放つ咆哮です。

 とはいうものの、昨今の日本車の設計者や経営者の方々には、クルマが本当に好きなのかどうか分からない人が増えている様に思えるのも事実です。

冷蔵庫ならば、それを設計する人の全てが、冷蔵庫を愛する必要はありませんが、クルマには、それを使うために必要なパッションというものが存在します。使うために必要な情熱とは、作る時にも必要な情熱と同じものです。そしてそれは、仕事に対する情熱とは少し違うものです。

 僕が考える今の日本車に必要な「何か」とは、今も昔も「デザイナー(設計者)が考えるオリジナリティ」です。クルマが持つ目に見えないオリジナリティや個性ではありません。自動車の進化の過程を歴史を見る視点でデザイナーが明確に提案することです。それをひっさげて世界中に尊敬と真似をさせ、それが「様式」となるようなオリジナリティです。

それが交通機関や環境や社会にとって必要かどうかという点ももちろん大切ですが、デザイナーが持つべき視点はそこではなく、そのクルマが他のクルマの未来像に与える純粋な影響です。

哲学という言葉に入れ替えてもいいのかもしれません。ダッシュボードが何故丸い曲線になるのか、自分の頭で考えたことがないと、意味が伝わらず、その造形はつまらなくなります。

オリジナリティの伝わる国産車の中には「名車」と言われ、世界中に影響を与えているものもたくさんあります。タイヤがなくなろうと電気になってしまおうと、デザイナーに進化を考えるためのオリジナリティさえあれば、ずっとドキドキできる乗り物で有り続ける事ができるでしょう。

それが僕のクルマに対する思いであり、希望です。

(1997/9/14)
2016年一部加筆修正再掲