2016年6月29日水曜日

フツーのヤツには絵は描けない

絵でも小説でも、全くの日常からは芸術は生まれにくい。
劇的な体験が咀嚼され、想像力や空想力と化学変化を起こして、画面に現れる。

妄想で描けばいいじゃないか。
そう、妄想でね。

その妄想にも体験が必要なんだよ。

文字だけ書いていても小説は生まれないし、絵だけ描いていても絵画は生まれない。

もちろん、絵描きはとにかく絵を描かなくては始まらないが、もしそれが同じルーティンを辿る生活の中で行われるのだとしたら、それは時間の無駄以外の何者でもない。

日常からは何も生まれない。

絵描きには体験が必要なのだ。

2016年6月28日火曜日

人生の投影

人生の喜び、哀しみ、慈愛を投影したものでなければ、真の芸術とはなり得ぬ。
それが作者のものであろうと、鑑賞者のものであろうとも構わない。

2016年6月24日金曜日

水たまり Puddles


みずたまり
Puddles
530x455 (F10) / oil on panel / 2016

雲切れて
また蝉しぐれ
でぼこぼ道のみずたまり

60,000(仮縁付き)


2016年6月20日月曜日

シャマン的アプローチ

僕の絵は常にシャマン的アプローチで描かれる。

まずはじめに祈りがある。
この段階は意図である。ある程度のモチフへのイメージ、全体の色、これらが筆やナイフでもたらされる。
この基調は完成の最後まで保持される。

この段階でモチフが具体的に決まっているものもあれば、そうでないものもある。
ただ基調だけがある場合、モチフは最後までなにが浮かび上がってくるかは分からない。

が、モチフがあるかないかはあまり重要なことではない。
大切なのは祈りと基調である。

次に潜在意識、神の意思によって絵の具がキャンバスに縦横無尽に垂らされる。
ここには意図は色と透明感以外には反映されない。
この段階は最も重要で、精神を整え、じっくり時間をかけて行わなければならない。

やがて全体像が見えてくる。
それは基調のモチフを保持していることもあれば、全く別のものに変化していることもある。

ここで、黒またはペインズグレーによる輪郭作業が始まる。

この作業は、無意識のうちに行われるものと、ある程度の意図を持ったものとに分かれる。

最初は無意識だが、やがてモチフが見えてくればそれに近づくように輪郭を追う。

最後にモチフに対して陰影を付ける。
印影は常に光と透明感を意識する。
この作業によって、モチフに命と躍動、魂が吹き込まれる。

こうして出来上がった作品は、僕と神の合作であり、エネルギーとコーザルを発する。

2016年6月10日金曜日

炎の慈母 The Mother of Frame


炎の慈母
The Mother of Frame

910x727 (F30) / 2016

無限の慈愛は
コーザルの炎となって
天に昇ってゆく

360,000(額代別)

絵のノイズ

良い絵にはノイズがある。
ノイズのない絵はつまらない。

ノイズだらけの絵は観る人によって価値も評価も変わるかもしれないが、ノイズのない絵に比べればマシである。

ノイズは意図的には作れない。
ノイズを排除してしまった絵には命は宿らない。

2016年6月8日水曜日

考え込む時間

考え込む時間を無駄と思わなくていい。
見据えて、迷い、筆が止まってしまう時間は制作時間の大切な一部だ。

芸術は国力

芸術は国力のバロメーター

2016年6月6日月曜日

独り Alone


独り
Alone

455x333(P8)/2016

独り、ラッパを吹く
森が震える
誰にも聞こえない
僕には聴こえる
森にも聴こえる

90,000(仮縁付き)

2016年6月5日日曜日

批判と批評

昔々、他人の作品を批判する学生がいた。
「この作品はここがいけない」「これじゃあ芸術とは言えない」

とにかく、目にした作品、全て批判してシロクロつけてないと気が済まない。
いや、シロクロというよりほぼクロ一色。

本人は批評のつもりらしい。
聞いている方は、最初はなるほどふむふむと聞くのだが、それが度重なるとだんだん気分が滅入ってくる。

「そんなこと本人に直接言えよ」である。

本人に言えないのなら単なる陰口なのだ。
当人といえば、言うほど大した作品は作ってない。

まあ学生なので大目に見てはいた。

ところが最近も似たような出来事に遭遇して、かなりガッカリした。
今回は学生ではなく、一人前の職業絵描きである。

作品の評判、批評は大切なものだ。
が、それは親身と誠意が伴っての話であって、
購買者、鑑賞者でもない無責任な立場で述べても、作者には何の関係もない。

特に批判は、同業者の場合、細心の注意を払って行わなければならない。
批判そのものが、批評者の心理的側面を雄弁に物語るからであり
また批判が、批評する側のセンス、価値観、実力を超えることは絶対にないからだ。

ということは、どうしても批判しなくてはならないのなら
まだ絵を始めたばかりの画学生にデッサンを教える時か
さもなくば、自分の実力を恥じ、その恥をさらけ出してでも、本人に直接物申す
真摯な批評家鑑賞者として本人に奉仕する覚悟がなければならない。

その前に作り手ならば、他人の作品を断定的にあれこれ言う前に、まず自分の作品をなんとかしろである。

批判が陰口になってしまう心理的側面とは何か。

第一に「自信のなさ」
自分が作り手として目指しているもの、信じているものが、本当に正しいかどうか分からないと、世の中の事象が、自分の信じようとしているものに合致しているか外れているかが非常に気になる。
他人の価値観を、単純化した自分の価値観のパズルに当てはめているだけである。
これは、批評される側にとってはどうでもいいことであると同時に、芸術にとっては害悪そのものでしかない。

第二に「嫉妬」
セールスマンの中に、他社の営業の悪口を言うのがたまにいる。
いわば商売敵について否定的なことを言うことで、相対的に自分を上げたい訳だ。
もっともそんな営業マンはロクな成績は出せないし、顧客からも信用されない。
力のあるセールスマンもクリエイターも、嫉妬を覚えたら「超えてやる」と黙って精進するか、相手に学ぶかを選択するだろう。

第三に「満たされない承認欲求」
自分が望んでいる承認欲求が十分に満たされない時、人は自分を認めない人や価値観に対して批判的になる。

第四に「相手が気に入らない」
これは理屈ではない。


能力の高い人は決して陰で誰かの作品の批判などしない。
実のある批評は萬金に値する。
そしてそれは常に本人の前でなされるのである。

2016年6月4日土曜日

ワイパーリレー交換




待てど暮らせど代車出来の連絡来ず&そろそろ梅雨前線が怪しいため、自力で部品を取り寄せて交換。TYCOエレクトロニクス製。
リレーは左席側エアクリーナーボックスの下。
取り外し〜組み付けに細かいコツはいるものの、作業性はイタ車に比べれば格段に良いのです。日本車ほど親切でフールプルーフではないにしても。

この辺はドイツ車は笑っちゃうほど「設計的」で、パッキンゴムの先端まで「設計」してあるのです。
そこまでやる必要あるのかな?とも思うけれど、そこが工業大国ドイツのプライドなのでしょう。

でも、左脳ばかりでやってる痕跡ありありだから、「理屈で考えればこうなるはずだから正しい」という想定で、想定外の事態にはなかなか対処できなかったりする。
前にも書いたけれど、排水周りは特におかしい。
ぎっちりパッキンを設計して材質にもこだわって取り回ししているけれど、水はそんなことお構いなしに思いもよらない場所から漏れて、ヘンなところにサビが出たりする。

それから、ネジの数が多すぎる。強度がそんなに要らないところに4つもビッグなヘキサゴンが使われていて「????」。
日本車なら二箇所は嵌合、ネジ2つでしっかり留まるし防水もちゃんとしてる。

スズキのクルマをいじった事があるけれど、「え?ここ、こんなんでいいの?」という感じのところが案外しっくりちゃんと機能していたり、ぞんざいに扱ってもビクともしなかったり、「理屈だけじゃないんだよ」という日本の技術者…というか職人の魂を感じる。

あ、イタ車は論外。バラすとか水とか、頭の中にはない模様。彼らにとってエンジニアリングは芸術か何かの一種らしい。





取り敢えず、最低限の動作はするようになったワイパー。

ただし雨滴センサと間欠間隔の調整は戻らない。取り敢えず要らない機能だから、ま、いっか。

写真は取り外した後のシーメンス製旧リレー。

2016年6月3日金曜日

輪郭とエーテル

東洋人は輪郭で、西洋人は陰影でものを見るという。
色彩は東洋人も西洋人も共同で発見したようなものだ。


輪郭がなければ気が済まないのは日本人特有のものだが、元来輪郭とは物には外皮があり、それが陰影を超越したエーテルの殻となって物質のエネルギーを形作っているものである。

故に、最初に輪郭があるのでは決してない。
まず物質が有り、そこに魂(生命)が宿る時、初めて輪郭は生まれる。

物質は光の反射であるが、これは陰影ではない。色である。
色の反射によってそこに存在する物質が認識される。

そしてエーテルが常に外皮を回っているのである。
エーテルのエネルギーは太陽エネルギーよりも常に弱いのであるから、自然に陰影が付く。
これが我々が目に見えているものである。

2016年6月2日木曜日

【告知】サトチヒロ展 (7/25〜7/31) のお知らせ



サトチヒロ展
2016年7月25日(月)〜7月31日(日)
銀座幸伸ギャラリー2F
東京都中央区銀座7-1-1 幸伸ビル2F(交詢社向かい)

森羅万象に宿る魂のエネルギー、一瞬の光、陰影、未来へ向かう心象が、深い瞑想の中で描き出されています。
2016年前半の新作と、前個展で好評だった作品も何点かアンコール展示致します。お気軽に、そしてゆっくりとおくつろぎください。




2016年6月1日水曜日

「景色」というものの絵画的解釈及び企図

平面美術には「景色」がもっと必要だ。
対象をそのままなぞるだけなら写真で良いとまでは言わないが、イマジネーションは作者の意図を越えることが難しい。

だからといって抽象が具象に勝るわけではない。

もしも心象や偶然に頼っているばかりなら、その絵は個性的とは言えない。誰が描いても同じになるか、作者の超個人的な体験だけを掘り下げなければ解釈はとてもむずかしい。

焼き物には「景色」という表現がある。

これは作者の意図ではない。
見る者、使うものにとっての見立ての世界である。

しかし、焼き物の景色は、釉薬をかけただけでは全くその仕上がりは想像できない。
窯の中での神の一手、いや、ほぼ全権が必要である。

焼き上がった時に、景色が出来上がるのを、作者も鑑賞者も心待ちにする。
そういう意味においては非常に他力本願的であるとも言える。
こういう自然法則に委ねることのできる芸術は幸福である。

絵画はそうはいかない。

と、思われている。

筆を使おうがナイフを使おうが、ドリッピングしようがスパッタリングしようが、人の手にどうしてもその結果が追従してしまうと。

で、そこから脱却するために、様々な人が様々な試行錯誤をしてきた。

思うにどれも「潜在意識」の部分で留まっているように思える。
素晴らしい作品ほど、鍛え上げてきた手わざの範疇は越えない。

で、僕の途中結果。

意図(手わざ)と潜在意識の他に、神の意識がどうしても必要だ。

精神を研ぎ澄ませ、宇宙と一体になった時、作り手はシャマンとして媒介として、画面にそのメッセージを写し取ることができるのだ。

その神の意識こそが、鑑賞者と作者を結ぶ、景色になる。