2011年2月15日火曜日

金持ち(怒って)喧嘩せず

例えば対人関係の中で、自分の思い通りにならないものがあって
イライラしたり怒りを覚えたりすることがあるとします。
まあ、人間ですから誰でも瞬間的には怒りを感じたり不快に思ったりする。
これは当たり前。人間らしい。
で、その一つ一つを検証したり分解してみると
実はその大半は、その人の人生の中では
かなりどうでもいい部類の事に属する事だったりします。
目標や夢、志、自分の限界に挑戦している人は
この思い通りに行かないものについてひとしきり感情の動きを感じた後に
自分の夢や目標に関係するものか、それともどうでもいい事か
直感的に2つに分けてしまいます。
そして、夢や目標に照らし合わせて重要だと分かれば
それをどうにかして乗り越えようと工夫する。
もしも重要じゃないと分かれば、無視する。
無視しようと努力する。
ところが夢や目標を見失った時は、この区別がとても付きにくくなる。
だから「プライド」とか「面子」というものがアタマをもたげてくる。
それで、思い通りにいかないとか、何か自分の権利(のようなもの)を侵害されることに、怒りを感じるようになる。
こうなると、無視しようにもまず不可能。
そして怒りが持続することになる。
持続した怒りは伝播します。相手に伝わる。
しかも増幅して。
もしもあなたが誰かに怒りを感じたとして、その相手が明確な目標もなく、単にプライドや面子にこだわる人なら、あなたの怒りは相手に伝播して増幅し帰ってきます。そしてさらにあなたは怒りを倍増することになる。
倍になって行って、さらに倍になって帰ってくる訳だから…
元の4倍!
こんな応酬はお互い疲弊させてしまいます。
いや、相手はどうでもいいけど、自分が一番困りますね(笑)
だから夢や目標を持っている人、富む人、志に向かっている人は、そういう応酬には参加しない。
プライドや面子などというものより他に、もっともっと大切なものを持っているから、そういう事に瞬間的には不快感を感じながらも、いずれ無視してしまう。
無視されたプライドにこだわる方は、ますます怒りを増幅させてしまうかもしれませんが、それは本人に帰っていってしまう。
そして実は、私の経験やケーススタディから言っても、怒らなかった方の思い通りに、結果的に成る例がとっても多い。
これは驚くべきこと。
「怒ったら負け」「金持ち喧嘩せず」とはよく言ったものです。
喧嘩しないわけじゃない。
でも喧嘩するときに、怒りは抜いておいた方がいい。
結局、それが人生を思い通りに進めるコツ。
もちろん、私もまだまだな一人。

2011年2月14日月曜日

マクロビオティック

マクロビオティックな食生活を始めると、身体に溜まった「毒みたいなもの」が次第に出て行きます。
実際、はじめてマクロビオティックを経験する人の中には皮脂や吹き出物、垢が一時的に大量に出たのち、ほとんど出ない体質に変わったり、肌が明るく なる、目が以前より見えるようになった、目覚めがよくなった、記憶力が戻ったなど、実際に身体に起きる変化を実感する人もとても多いのです。
身体から出てゆくのはそういった物質的なもの、身体的なものだけではありません。
今まで耐え難いと思っていたストレスや、対人への警戒感や拒否感覚、辛さもかなりの確率で減少します。
今まで乗り越えることが困難だったストレスが嘘のように解消した方もいます。
だからもしも疲れたなあ、しんどいなあという感覚が慢性化した方、不定愁訴を感じる方には、マクロビオティック的な食生活をおすすめしています。
人間の感情や考え方は、そのかなりの部分を食に依存しています。そしてマクロビオティックは、人間としての様々な歪みを補正する力を持っていることは確かです。
陰陽の差の激しいものを食べると、感情や考え方も激化します。
(これはベジであるか非ベジであるかは全く関係ありません)
さらに体質によっては、陰陽の強すぎる食生活を続けてゆくと、慢性的な感情の歪みを引き起こします。
怒りや不満、嫉妬、思い通りにならないことへの苛立ちなど、現実と理念との歪みです。
歪みは苦悩を呼び起こします。
苦悩を乗り越える精神力を持っているうちはそれでもいいのですが、苦悩に負ければ悩みは慢性化し、悲観的になっていきます。
そういった感覚はたいていの場合、マクロビオティック食に換えることで、長くてもほぼ3ヶ月ほどで、すっかり消え去ります。
そのサインは、感情の起伏が非常に穏やかになることで実感できます。
また物事に対するこだわりがどんどん薄くなっていきます。
本来の自分の心が、許容の精神で大部分を占められている事がわかるようになります。
さらに続けてゆくと、多幸感や豊かな向上心に溢れるようになります。
ただ、気をつけなければならないのは、マクロビオティックによって必ずしも全ていいこと尽くめになるのではないという点です。
自然界に陰陽が必ずあるように、人間にも陰陽、表裏があります。
マクロビといえどもこの表裏を完全に消すことはできません。
また、その差を完全に消し去ることは良い事でもありません。
また、マクロビオティックによって様々な歪みがなくなると
かえって願望の妨げになることもあるかもしれません。
歪みそのものが、生きるエネルギーとなることもあります。
苦悩が才能を開花させることもあります。
勝負がダイレクトに関係するスポーツには向かないかもしれません。
良いことだけが起きるようにはなりません。
体質は人によって千差万別です。
仕事やライフスタイル、住む場所の気候も違います。
厳密さやマニュアルを追求するのではなく
またマクロビが万能と思い込むのではなく
自分に合った、食生活のバランスを、少しだけストイックになって意識することがとても大切な姿勢です。
マクロビオティックはツールです。
ツールは使うときもあれば使わない時もあります。
万能なツールは存在しません。
あなたは身体という船体、魂と精神という舵や帆を持った船の船長です。
海はあなたの人生、感情、考えです。
あなたはその波をある程度コントロールできます。
波をある程度コントロールするツール、天候や方角を読むツール
それがマクロビオティックだと考えてください。
人生は常に順風とは限りません。
逆風も時には必要だし、波も必要かもしれません。
しかし道具なしではその逆風は克服できません。
やみくもに進んで方角や舵を誤ってしまえば、常に望まない逆風にさらされてしまう危険性ははらんでいます。
そうならないような人生を送るためのとても力強いツールのひとつに、マクロビオティックがなってくれることだけは確かです。
自分にあったマクロビオティックを探してください。

2011年2月12日土曜日

美と文化と産業と

今日はセッションや魂の話から少しだけ離れて
プロダクトデザインの話です。
といっても、深いところではしっかり繋がっているのですが。
私のもう一つの大切な仕事、プロダクトデザイン。
以前はプロダクトデザインという言葉はなく、「インダストリアルデザイナー」とか「ID」と呼ばれていました。
このプロダクトデザインとは、モノづくりに深く関わる仕事で、いわゆるデザイン的なサムシング以外の知識や経験、スキルが要求される職種でもあります。
時にはSEや企画、グラフィックデザインやエンジニア、はたまたプロデューサーの様な動きをしたりもします。
しかし基本は、神から受けたインスピレーションを紙と手と言葉で伝えるイタコのような存在。
ビジネス的な用語でカッコウ付けるなら、アップストリームマーケティングの一番上流にいるような(実際のポジショニングはともかく)、そういうアヤシイ存在でもあります。
発想力と調整力が命。。。にもかかわらず、アーティストやイタコのようなエキセントリックなスキルや才能も必要。
なかなか大変なのです。
ところで、最近はモノづくりそのものの軸足が他国に移って、日本国内の、特に大量生産品については「プロダクト」そのものが空洞化しているとも言われています。工業製品、特に電子機器や家電、成形品の多くが「Made in China」。
もっとも企画やデザインは別に中国でやっているとは限らず、日本でもヨーロッパでもアメリカでもちゃんと行われている訳ですが、それでも俯瞰すると、日本のデザイナーはとても不利な状況に置かれていると言えるでしょう。
極端な話、中国には「デザインフリー、モックアップ(モデル)フリー」というEMS(企画や仕様だけ受託して開発生産を代行する)メーカーはいくらでもあります。(ヘタすると、仕様や企画すらフリー)
そんな中で未だに、しかもフリーランスで「プロダクトデザイナー」と称して仕事をしている私のような存在は、まるで天然記念物か生きた化石のように扱われる事もあります。
それで重宝がられる事もありますが。
まあ、モノづくり大国日本の不利な点、劣勢をあげればキリがないのですけれど、でもそんなに日本のモノづくりは斜陽なのでしょうか?
実は私は、全くそうは思ってないのです。
むしろ益々チャンスが広がっている様に見えます。
長年この仕事に携わってきて年々確信の様に感じることがあります。
この確信的感触を初めて味わったのは、学生の頃ですから、かれこれ四半世紀も前の事です。
それは何か。
そのなかの大切なひとつが
「日本のプロダクトはマスプロダクションから脱却して初めて、本当に世界に冠たる日本のモノづくりに移行できる。」
ということ。
それは最初「モノの時代が終わる」という直感でした。1985年の事でした。
バブルすら来てない。中国人はまだ人民服を着ていた。
しかし、モノの時代が終わるも何も、自分は工業デザイン科の学生。
モノにこだわり、どっぷり浸かる事を、半ば強要されるような毎日。
この自分のアイデンテティを否定するようなインスピレーションには、正直言ってかなり混乱しました。
時は流れ、21世紀。中国人の、少なくとも大都市部の女の子のファッションは20年前の日本を超えつつあり、モノづくりでは、万単位でのロットのコストやスピードは、もはや日本は中国の敵ですらありません。
今、国内のEMSやアセンブリメーカーの主流は「小〜中ロット」での生き残りです。
素晴らしい画期的な技術と発想でどんどん成長しているところもあり、しかし一方では、開発コストとデザインだけは、なぜか旧態依然とした大ロット前提のプロセスやコンセプトで行われていたりするところも多い。
これが日本のモノづくりの足を引っ張っている。
1億円かけた開発ならば、やはり最低でも3億ぐらい、つまりかけたお金の3倍は売上げないといけない訳なんですが、その3倍を一体何個で、どのぐらいの期間で捌いていくのか、この概念が、市場では20年前とは全く違うことになっている。
売り手はこの辺はとっくに分かっていて当然の常識。周到に準備できていている。ところが請け負う作り手側が残念ながらその頭についていけてない例が多い。
本当は人件費や機械の償却費で開発費を割り出してはいけないのに、見積はそういうハード一辺倒で計算する。
1億かけて2万個の商品ならば、原価5,000円、上代15,000円で売れる訳なんですが、日本の少量生産は、これをおんなじ付加価値で(仕様は複雑になって、歩留まりや精度だけ良くして)1000個ぐらいしか作れない。
原価だけで10万になってしまう。(上代30万円)
おんなじ機能のモノが、15,000円と30万円。
売りやすいのはどっち?と聞くまでもなく、勝負にならない。
だから、みんな中国に発注しちゃうわけです。
少量生産とは、単に少なく作るという意味ではない。
少なく作っても、大量生産品と同じか、それを上回るペースでペイしなければならない。
勝てるものを作らなければ、舞台からは去らなければならない。
舞台に上がり続けていること、それは取りも直さず、より高い付加価値と、稀少価値を持つという事にほかなりません。
では高い付加価値と稀少価値とはなにか?
複雑な機能?
何でもできること?
高い品質感?
ソフト?
今日本のモノが陥っているのが、他でもない、そこです。
そんなものは誰も望んでいない。
今日本のモノに一番足りなくて
でも本当は、グローバルに最も戦える武器は「文化」
そしてそれを裏付ける「美」です。
それが備わっていれば、1億の予算で100個しか作れなくたって大丈夫。
あっという間にペイできる。
それを担うのが、我々デザイナーや、様々なアーティスト、クリエイターという、文化の担い手。
いえ、産業人、経営人も同じです。
双方がそこに気づく必要があります。
もう少し縮めて言えば
「芸術と産業デザインの融合」
このことがしっかりと行われて、かつ高度にビジネス化してゆくことが、次の日本の文化、産業の双方の担い手の責務だと常々考えています。
美とは何か、文化とは何か。
この事を、もう一度しっかりと考え直す必要がある。
モノや情報が溢れてきた20世紀後半〜21世紀においては、文化を見据えて生きる、美と対峙して生きるという事が、どうしても麻痺の中に埋没してきました。
浮かれたアタマも、負け慣れしたアタマも冷やして、もう一度原点に返る必要がある。
実際、美が経済や産業構造に影響を与えるという事は、日本の経済成長にとっては未体験の領域でもあります。
でも本当は「回帰」なんです。
とにかくそれは必ずやってきます。
いや潜在的にはもうやってきているし、気づいている人もたくさんいる。
潮流としてまだみえてないだけで。
ヨーロッパでは既にその潮流はいくつも起きており、実際の成功例もあります。
日本はまだです。
しかし日本もそこに突入しなければならないし、していくことでしょう。
美と文化に対する日本人の、底力、理念と哲学が試される時代が来ています。
私はやります。
一緒に頑張りませんか?