2012年11月28日水曜日

マーラー交響曲第4番「大いなる喜びへの賛歌」



マーラー交響曲第4番「大いなる喜びへの賛歌」/サー・ゲオルグ・ショルティ指揮/キリ・テ・カナワ(ソプラノ)/シカゴ交響楽団/LONDON(ポリドール)/1983年録音/LP


マーラーにしては珍しく、全編希望に溢れた交響曲です。


マーラーの4番は不思議な魅力を持っています。

「好きか?」と言われると首を傾げてしまうのだけれど、何も考えたくないけれどアタマの中が空っぽにしたくてもできないような時になぜか聴きたくなるのです。マーラーなのに、です。
この曲が頭の中を占領すると、なぜか気持ちがゆったりとしてきます。
4番は、全体的に恣意的で耳に触る事もあるマーラーの交響曲の中にあって、音楽と正面から向き合わなくても音楽の世界に入っていける楽さがあります。


マーラーは5番のあの有名なアダージェットといい、多くの交響曲の中で緩徐楽章に素晴らしく美しい曲があります。
どんなに希望がなく激しく皮肉に満ちた曲でも緩徐楽章だけは例外なく美しい。

この4番も、第三楽章がとても美しい旋律です。
こんなふうに→ 








そして第4楽章は突然ソプラノの独唱による歌曲になります。


マーラーは交響曲の2番から交響曲に合唱や独唱を入れて交響曲を作り始めました。


交響曲に人間の声を初めて入れたのはベートーヴェンの第九ですが、マーラーの交響曲は半数以上が「歌入り」です。


その最高潮はいわゆる「千人の交響曲」と呼ばれる第8番で、文字通り約1000人の演奏者と合唱者が必要という、とんでもなく大掛かり。演奏会を行うだけでも何年かに一度の大イベントになってしまうそうです。


でもこの4番はソプラノ一人でコンパクトです。





ショルティ&シカゴ交響楽団の演奏はLONDONの録音の素晴らしさと相まって、透明感があって、柔らかくて、みずみずしいのが特徴です。
同じショルティとコンセルトヘボウの録音(1961年)も持っていますが、コンセルトヘボウはハイティンクとの録音の方がより透明感があって素晴らしいです。


ハイティンクとアムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団の録音はマーラーにせよブルックナーにせよ、マーラーを正確に理解しているように思います。





現代的でけれん味がなく優しさに溢れている。それでいて深い後味が残る。小澤征爾のブラームスやバッハにも似たものがあります。





初めてマーラーを聴かれる方にはハイティンク&コンセルトヘボウをおすすめします。マーラーを世界に広めた功績が大きいと言われるバーンスタインは感情や癖が強くて、初めての人にはあまりおすすめできないかもしれません。




マーラーSym No.4/ハイティンク&コンセルトヘボウ(1967)








Youtube

ハイティンク&コンセルトヘボウの2006年の録音だそうです。(第一楽章)
http://youtu.be/5GWqE8ySC4c


第4楽章。ソプラノ独唱が入り、歌曲化した楽章で、しかもいわゆる交響曲にありがちな大団円の終章がない、地味に掟破りの楽章。
http://youtu.be/3D8A2GWalhY

2012年11月22日木曜日

Collectors' Items/MilesDavis sextet(1953,1956)




A面1953年のセッションと、B面1956年のセッションという、ちょっと年の離れたセッションの寄せ集め。

A面の1953年のセッションは、マイルス・デイビス、ソニー・ロリンズ、そしてチャーリー・パーカー(チャーリー・チャンという変名でクレジットされている)のセッション

まあ、チャーリー・パーカー(sax)は言われているほどヘロヘロではないにしても(チャーリー・パーカーはアドリブの天才と言われていたが、麻薬中毒で1950年代にはアドリブもかなり鈍り、このセッションの2年後に34歳(!)で死去)、他のメンバーのソロも含めてちょっとアパシーなところがあります。

リフもソロもオールドスタイルで流している感じ。ただ、なんとなく味はあります。

B面1956年のセッションはベーシストがパーシー・ヒースに代わってポール・チェンバース。そしてソニー・ロリンズ(sax)、トミー・フラナガン(P)。

B-1曲目の「No Way」はマイルスがのっけからアドリブソロを突っ走らせています。

基本的にはハード・バップなのですが、ポール・チェンバース(b)ベース・ラインがとてもスリリングなおかげで3人のソロに緊張感がみなぎっています。




The Serpent's tooth(take1) (A-1)



No Line(B-1)

2012年11月21日水曜日

Bag's Groove/MilesDavis and The Modern Jazz Giants (1954)


ここ数日はマイルスとベートーヴェンのヘヴィローテーション。
どちらも普段あんまり聴かないんだけど、マイルスデイビスは「マイルス」と唱えると聴きたくなり、ベートーヴェンは「フルトヴェングラー」と唱えるとむしょうに聴きたくなるのです。(なんで)

マイルスがドラッグを克服し、Prestigeでレコーディングを始めてからのセッション。ハード・バップの名曲です。

だんだん緊張感が増してモードっぽくなりつつあますが、まだまだモードの時代じゃない。



セッションメンバーはセロニアス・モンク(p)、ソニーロリンズ(sax)、ミルトジャクソン(Vib)など。



みんなコードの呪縛から離れて、新しいメロディを奏でたくてジタバタしながらフレーズを模索しています。ビリビリします。



でもやっぱりパーシー・ヒース(b)のベースがルートをがっちり抑えて離さないので、誰も飛び出せない。


本当にコードから自由になるためには、ベースが遊ばないと話にならない。


これはパーシー・ヒースの問題ではなくて、ブルース進行でこういう曲だからなんだけど、やっぱり各々スケールの限界を感じている。





特にそれを感じるのがセロニアス・モンク。彼のコード破り(厳密に言うと和音を鳴らしているのでそれもまたコードなんだけど、ソロの際に取り決めとは違う音が出てくるので、他から浮いてノーコードに聴こえる)が、マイルスの後のモード・ジャズに少なからず影響を与えている事は確かなようです。





Bag'sGroove(Take1)
http://youtu.be/I0d5LU6SCz8

2012年11月19日月曜日

Kind of Blue/ MilesDavis sextet (1959)







晩秋の曇り空。コーヒーの香りとマイルスが部屋を満たしています



前期マイルスの名盤。Beethovenで言えば「英雄」、Beatlesで言えばHelp!、LedZeppで言えばIII。
極端に言えば、モダンジャズはこれ1枚でもいいかなぐらいです。
特にA面3曲目「Blue in Green」は何度聴いてもため息が出ます。

マイルス以前、マイルス以降というJAZZの流れを作ったアルバムとも言われています。
すべての曲が、スケッチ的なテーマのみ収録1時間前に提示され、ほぼぶっつけ本番、インプロヴィゼイション(即興)同様のワインテイクで演奏されています。とんでもない緊張感と音楽の化学変化…いわゆる「モード・ジャズ」の走りのアルバムです。

もちろんあの忌々しい「コード進行」などというものはどこにも存在しません。コードから解放されてこそ、音楽は無限大の可能性を発揮するのだという真実を、マイルスはこのアルバムで見事に証明してくれています。


ピアノはビル・エヴァンス、サックスはコルトレーン。


So What
誰でも一度は耳にしたことのある名曲
http://www.youtube.com/watch?v=DEC8nqT6Rrk&feature=colike

Blue in Green
一番好きな曲
http://www.youtube.com/watch?v=PoPL7BExSQU&feature=colike


2012年11月18日日曜日

バルトーク/弦楽合奏のためのディヴェルティメント/バイヤール室内管弦楽団(1977)


「ディヴェルティメント」というのは、だいたいが貴族の食事やパーティ、祝賀会のBGMとして使われた音楽なんです。モーツァルト嫌いの僕もディヴェルティメントだけは好んでかけます。ただし食事時。聴こえるか聴こえないかぐらいの音量で。

だけど、バルトークのこのディヴェルティメントと称する音楽だけは、食事時にはかけないだろうなあ。BGMとしてはキツイ。
真正面から聴いたほうがいいです。



Zagreb Soloistsによる演奏
http://youtu.be/vemkwcuNiT4

2012年11月17日土曜日

Bruckner Sym Nr.9/ サイモン・ラトル&BPO(2012)




よくもまあ、音楽にこれだけ集中耽溺できるのだと、自分に対して改めて感心、半ば呆れています。
かといって、論理的、系統的、分析的に聴いている訳ではないのです。それが時折コンプレックスでもあり。

同じ音楽を聴いた時「これは〇〇の情景だね」とか「これは提示だ、否定だ」とか、音楽好きの友人知人がすぐさま解釈指摘しているのを聞くと、僕は「え?え?」となってしまう。

ベートーベンの第九の第4楽章で、あの有名な歓喜の歌の主題が最初に出てくるところがあります。
それが、コントラバスによって「否定」されるところがあります。

これを「否定」とすぐさま感じ取るためには、楽曲の解説を勉強するか、ドイツ語の「Nein」を知らないといけない。
実際、コントラバスは「ナーイン!」と言ってるのですから。
すごいよベートーヴェン。。。
でも僕はこれを感じ取る感性には乏しい。

あの部分は僕にとっては長いこと余計な音でしかなかった。
そのうち「起きろ!目を覚まして歌を歌い出すのだ」という声聞こえるようになって。。。
「おーいっ!」です。


子供の頃、一番大好きな交響曲は、ベートーベンの6番「田園」でした。これは標題音楽で、非常にわかり易かった。音楽によって描写しようとしている情景がはっきりしているのです。
けれども大人になるに連れて、標題音楽はだんだんニガテになってきました。

標題と言えばRシュトラウスやムソルグスキーなどは、最初はイメージしやすいのでとっつきやすいのですが、飽きも早い。
それで次第に「作曲家の意図や背景」を具体的に感じるのが難しい、つまり、どうとでも取れる音楽の方が好きになっていきました。


まあ、どうとでも取れる音楽というのは実際はそうはないんだけど、純粋に音が人間の感情や思考、魂、精神性、身体に与える影響というものが、音楽にはある。
優れた音楽というのは、具体的な描写を意図で縛られた音楽よりも、作者自身の意図を超えたところに、音楽の神がかった力というものが存在し、作曲者は神の代弁をしている過ぎないと、僕は思うのです。


JAZZでも、ソウルやブルース、デキシー、ビーバップの影響が強いものより、どちらかというと無調気味で即興的で無機質な演奏の方が好きです。
かといってフリージャズが好きなわけでもないんだけど。

やっぱり音楽というものには「第一の意図」はどうしても必要で、その意図を離れてこそ音楽なのです。意図が全く存在しない音楽は音楽ではなく、単なる雑音である。

さてそういった意味でも、ラトルとBPOの今年録音のブルックナー9番は僕にとってとても意味のある特別なブル9です。

ブルックナーは、この9番を完成させる前に亡くなってしまいました。それで9番は第3楽章までしか存在しません。ところがこのラトル指揮の9番は第4楽章まであります。

それは、ブルックナー研究者による、散逸した草稿からの復元という試みによるものです。
時代を追うごとに、実は第4楽章は、かなりのところまで書き上げられつつあったということが分かっています。彼は死の日の朝までこの第4楽章の推敲を重ねていたそうです。ところがその日の午後に亡くなってしまう。

そして死の直後に、弔問に訪れた知人や市民達が、完成しつつあった第4楽章の草稿を記念品とばかりに勝手に持ち去ってしまう。。。
痛々しい話です。

その草稿が、最近少しずつ見つかってはいるようなのです。

第4楽章の復元と演奏に賛否はあります。

もちろん第3楽章のアダージョで完結なのだという方が主流です。
確かに最後のワグナーチューバのコーダは、彼が死を迎えた時の情景、永遠を表している様な解釈の方が自然かもしれません。

しかし僕にとっては、この第3楽章が終章とはとても思えず、ずっと何かすっきりしない違和感を感じていました。
少なくともブルックナーの他の交響曲を聴く限り、これはやはり未完成でしょうと。

シューベルトの「未完成」は、あれはあれでもうお腹いっぱいなんですが、ブルックナーの9番はかなり違う。

まだ足りないんです。

作者の意図も然ることながら、それを超えたところに、ブルックナーの芸術はある。
それは、交響曲第0番から綿々と続く。それにはれっきとした法則がある。

第3楽章で主題が日常から徐々に壮大な宇宙へとステージを変えていき、第4楽章の途中で突然雲が切り開かれるようにして目の前が明るく広がる。

この9番の言わんとしているものも同じだ。
第3楽章では、聴く者はまだ人間と神の間で煩悶しているような状態だ。それが次第に神に導かれて視野が広くなっていく。
そして、最終的な解決はあのコーダのフェルマータによって導かれ、第4楽章に引き継がれるはずだ。
第3楽章のあれはまだ大団円ではない。神の救いではない。和解でもない。
あれはまだ神の声の前触れでしかない。

「さあ、いよいよだ」

そう言ってる。
その感覚的解釈が、僕の中に存在するのです。
だから続きをどうしても聴きたい気持ちに駆られるのです。

これは決して学説的に正しい解釈の態度ではないのかもしれませんが、ブルックナーの芸術の素晴らしさは、音楽が非常に普遍的な音が並んでいながら、総合された音は個々の精神一つ一つに対応してしまうというところにある。
まさに「神」と見事な相似性を持っている。
そういう意味で、学説や作者の意図が、単なる「第一の意図」で済まされてしまうほどの壮大さがある。

これまでも、草稿を断片的につなぎ合わせて演奏している例はあるのですが、ラトルのこの復元版(SPCM2012年補筆完成版)は、余計な創作を極力排除し、なるべくブルックナーならこう完成させたであろうという「法則」を見つけ出して草稿を丁寧に結びつけて復元したものだと言われています。

この第4楽章が完璧なものであるとは誰も思ってはいないでしょう。これからもどんどん分析は正確さを増し、第4楽章は作曲者の第一の意図に近くなっていくでしょう。

今は完全ではないにしても、このバージョンをラトルがベルリン・フィルが、今の空気の中で(研究者としてではなく演奏芸術家として)解釈し演奏するということ自体が意味の深い事で、この試みは非常にうまく行っていると断言できます。

感想は…

まさに、あるべき最終章だと思います。
ラトルはこれまであまり好きな指揮者ではありませんでしたが
心から「ありがとう」と言いたいです。


2012年11月14日水曜日

Bartok/The Muraculous Mandarin / Boulez & NYP(1971)



過去一度だけ僕はこの「マンダリン」を抜粋で聴いたことがあります。本当に不気味で訳が分からないという印象しかなく、久しく忘れてました。
この音楽は本来パントマイムと合わせて上演されるのですが、作曲された当時も内容があまりに不健康過ぎて初演が1日で打ち切り、バルトークの生前は全く顧みられなかったそうです。

その内容とは…



3人の男に売春を強要されている少女。窓の外を通りかかる人たちを誘っている。少女は中国の宦官風の不気味な男を誘惑してしまう。不気味すぎるために少女は彼から逃げ惑う。隠れていた男達はこの宦官を殺しにかかる。が、殴ってもナイフでメッタ刺しにしても死なず、宦官は少女に挑みかかろうとする。あまりに死なないので宦官は部屋の天井から吊るされる。それでも死なず、少女のほうを見つめている。最終的に少女は意を決して宦官を下ろすように男たちに頼み、宦官は少女に抱きつく。少女もそれを受け入れる。その時、やっと宦官の息が絶える。

という、まあ現代でも十分にエグさ爆裂の内容です。
当時のヨーロッパの情勢を考えたり哲学的分析を加えることで十分に深い内容や一定の評価もなされているのですが、それにしても、この非常に近代ヨーロッパ的で神経症的で陰鬱とした内容の音楽が、というかバルトークの音楽全体的に言えることですが、なぜかフィジカルでバカが付くほど健康的なアメリカのオーケストラや、小澤、ブーレーズといった、一見明るく表層的と思われている指揮者がやった方が定評があるというのが、なんだか不思議な感じもします。


でもショスタコーヴィチみたいに救いようのない陰鬱さとは違い、それだけでない何かがあるような気もします。まだわかりません。


不気味ではあるけれど、不思議に収束感のある、要するにとっちらからない、聴き応えのある曲です。

もしもマンダリンのあらすじから遠ざかって何か違う解釈(というか妄想)ができれば、もっと面白くなるのかもしれません。

しかし返す返すも、今年のサイトウキネンフェスティバルでもバルトークの「青ひげ公の城」が上演されていたことは知っていたんですが、もう少しバルトークの魅力に気づくのが早ければ僕も行きたかった。。。残念です。

2012年11月13日火曜日

MontreuxII / Bill Evans trio(1970)



ブロムシュテットのブルックナーを聴きに行った時、隣になった老紳士(78歳)が、連れ立っていた妙齢の女性に言っていた言葉を小耳に挟んで僕は密かに膝を打ちました。

曰く「こういう生の演奏が採れたての鮮魚や野菜だとすれば、CDは缶詰なんですよ」


とすれば、MP3はカップラーメンで、アナログレコードは個人経営の食堂かレストランだネ!

アナログは当たり外れが大きくて、録音技師の腕次第みたいなところがあって。。。
まあ、カップラーメンもたまには食べたくなるし。。。

とまあ、立ち聞き(座っていたけど)はともかく、ところでビル・エバンスは、CDもアナログもあんまり聴いている音に差異がないなあといつも思うのです。

グレン・グールドもそうなので、「ピアノという楽器のせいかな?」と思ってはいます。

CDの音質が近年進化したとはいえ、アナログに比べてどうしても一般的に臨場感に劣る原因を、僕は常々、よく言われている周波数帯の限界にあるのではなく、16bitという括りでは非整数倍音を捉えきれてないせいではないかと考えています。

例えば同じ22MHz上限の音でも、16bitではなく、24bitで録音〜再生したものは、実感として明らかに音抜けがよく、臨場感がある。

ピアノという楽器は他の弦楽器や管楽器に比べて非整数倍音が高度に管理されていて、意表をついた倍音は出ないようになってるため、16bitでも十分に補完できる音が出てくる。

けれどもバイオリンなどの弦楽器や管楽器は非整数倍音は楽器の個体差によって異なるし、意図しない雑音としての倍音もたくさん出る。
それは16bitではどうしても捉えきれない。

それで、僕はオーケストラや管楽器のCDをかける時は、うっすらホールリバーブをかけるようにしています。

これは、生音とは別系統でリバーブマシンを通したリバーブオンリーの音を別のアンプ&スピーカーで出すのです。リバーブマシンは言ってみれば倍音発生装置なので、そうすると部屋の残響とこのリバーブがブレンドされて、かなりの倍音補完ができ、音の抜けが良くなるという寸法なのです。

邪道と言えば邪道なんですが、オーケストラなどは、元々ホールトーンが痩せてしまっているCDが多いので、まあ、この手もありかなと。
安いセットをやりくりして見つけた方法です。
缶詰だって工夫すれば立派な料理になると。

ビル・エバンスとは全く関係ない話でした。

このアルバムの聴き所はなんといっても最後のPeri's Scopeのセッションじゃないでしょうか。

Peri's Scope

Someday My Prince Will Come / MilesDavis sextet (1961)



十数年聴いてもさっぱり分からないJazzの中で(メンタルがないんだろうな)、でもビル・エバンスとマイルスだけは、気が付けば手元のJazzのレコード・CDの中で群を抜いて多くなってしまいました。

その中でもかなりのヘヴィロテでかけているアルバムがこれ。
walkin'などの緊張感溢れるセッションもいいけど、流して聴くのはこちらの方が抜けてて分かりやすく健康的。


それにしても、ビル・エバンスはそうでもないんだけど、マイルス・デイビスはやっぱりLPで聴くのが断然いいです。
昔、海の見える喫茶店で無口なオーナーがかけていたマイルスのミュートトランペットとベースの響きや息遣いはCDではとても望むべくもなく。。。SACDはどうなんだろ。

PFRANCING

2012年11月9日金曜日

Kibou no Kanashimi


バイオリンとギターのためのコンティヌオによる常動曲(2012/10/20)


2012年11月8日木曜日

バルトーク弦楽四重奏全集・東京クァルテット(1975〜1980)



バルトークの弦楽四重奏にぞっこんなのです。
やはり弦楽四重奏はなるべく全集で聴きたい。

そういう願いを持つ際に、良いニュースが一つ、悪いニュースがひとつ。


良いニュースは、バルトークの弦楽四重奏曲は6つだけ。だから予算的に安くて済む。これがベートーヴェンやハイドンになるとCDでも10〜数十枚になってしまう。
バルトークならCDでもアナログでも2〜3枚でいい。

でも、できればアナログで聴きたいなあ。

悪いニュースは、バルトークの弦楽四重奏なんて基本的にクラシック上級者やマニアしか聴かない。故に市場に中古のアナログレコードなんか出回るはずもない。

と思っていたし、実際中古レコード屋さんを廻っても、まず見当たらなかった。いやバルトークの弦楽四重奏曲そのものはあるんだけど、べらぼうに高いしバラバラで存在するだけだった。

ところが、友人に勧められて寄ったレコード屋で、よりによって東京クァルテットの全集が投げ売りされているのを発見!

自分的にはあり得ない値段。状態も素晴らしく良い。しかもドイツ版と日本版の両方がある!

もちろん即買い。
ただし僕はオーディオマニアではないので「音がより良い」とされるドイツ・グラモフォン(録音や初プレスがドイツなので当たり前)の方には目もくれず、丁寧な解説付きの日本語ライナーノーツが入った日本盤ボックス・セットの方を即買い。

バルトークの音楽についてここで何かを書くには、まだまだ知識も解釈も聴きこみも足りないので、説明はしません。

ただ、以下の2つのことは言えると思います。

ほぼ無調性の現代音楽なので、予備知識やチャンネルがないと全くもって聴けないほど、とっつきにくい。

バルトークは、ドイツ・オーストリアを中心とした音楽とは感性がちょっと違う。


僕もかつては無調性音楽なんて全く興味がなかったのですが、このバルトークは、スノッブでもなんでもなく、そこに浸ることができます。

これまで感じていながらどうすることもできなかった、具象と抽象、感情と分析的思考のはざまの、すっぽり抜けていたものを、バルトークが音楽的示唆によってひとつひとつ埋めてくれている気がするのです。

2012年11月6日火曜日

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 バンベルク交響楽団




2012年11月1日(木)
ベートーヴェン:交響曲第3番 変ホ長調 op.55 「英雄」
ベートーヴェン:交響曲第7番 イ長調 op.92

(アンコール ベートーヴェン:エグモント序曲 op.84

2012年11月6日(火)
モーツァルト:ピアノ協奏曲第17番 ト長調 K453(ピョートル・アンデルシェフスキ)

(アンコール バッハ:フランス組曲第五番からサラバンド)
ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調 「ロマンティック」(ノーヴァク版)








1日と6日とも堪能してきました。

特に6日は素晴らしかった。体調があまり良くない中で行ったのに、帰る頃にはすっかり良くなって陶酔の中にいました。全くオーバーでなく歴史に残る名演と言ってもいいのではないだろうかと思います。

詳細な感想や批評はここでは書きませんが、ブルックナー4番を演奏するというのはブロムシュテットにとって、そしてバンベルク交響楽団にとって、(いろんないきさつや由来があって)本当に特別で素晴らしい事なのだと実感しました。



もう一つ、ピョートル・アンデルシェフスキ(ピアノ)のアンコールで演奏されたバッハ(たぶんフランス組曲第5番サラバンド)は、この世のものとは思えない美しさ。


演奏が終わっても、拍手がしばらく起きなかった。それだけ彼のピアノに吸い込まれ、感動の渦の中に聴衆全員が飲み込まれていました。


このアンコールの時も、そのあとのブラ4の時も、なかなか出会えない、会場中のすべての人の感動の共有感というものが、
この夜のサントリーホールにはありました。



正直に言って、6月のパーヴォ・ヤルヴィよりもずっと感動が深かった。
そして、何度も言いますが全然負けてないのが日本の飯守泰次郎です。