たまにはリーディングセッションのお話も。
私のセッションの特徴を少しだけ。
「リーディングでは、決してその人の未来の不幸を見てはいけない。」
というのが私のリーディングの鉄則です。
なぜなら、未来は変えられるから。
そして、全ての人は
「生きて良かった」と思える未来を歩む権利と義務があります。
未来を見る人間には、それを伝える責任があります。
かつて私のリーディングの能力が特殊能力であることを気づかせてくれた恩人に
「あなたみたいに霊感霊視に頼らずにズバズバ当ててしまう人はあんまり見たことがない。」
と言われた事がありました。
そして同時にもう一つ言われたことがあります。
「悪いことを言わないのはいいことだ」
多くの占いや霊感霊視は、仮に悪い未来を見てしまっても、それをほぼそのままクライアントに伝えてしまう。そして後から「そうならないために」ということを言います。
しかし一度言葉にしたものは、ほぼ確実に固定化してしまうのです。
全ての予防策はほぼ無駄骨に終わります。
この大法則を知らないまま占い師や霊能者を自認する人のなんと多いことか。
本人にとっても周りにとっても危険この上ない事です。
悪いことまでそのまま伝えてしまうのはカウンセリングでもリーディングでもなんでもなく、迷信と運命論に支配された、原始シャマニズムに過ぎないと、その恩人も喝破していました。
ただ、そうは言っても私とて霊視的な何かに頼らないで全てを完結している訳ではありません。
やはり正確に見ようとするために、知識や先入観を取り払って、原始のシャマンのような状態になることもあります。
でもそうすると、やっぱりというかたいていというか、かなりしんどい未来をその人の中に見てしまい、セッションの途中で具合が悪くなることもあります。
こういうことをやってるから、占いや霊視の人はたいてい長生きできないんですね。
そんなものを占い師やセラピスト自身が見ることも、クライアントにダイレクトに伝えることは、誰の得にもならないのです。
私のリーディングの引き出しは幾重にも重なっていて、クライアントによってセッションのプロセスは全く異なることがあります。
例えばある人には、シャマンモード全開で、最初から見えるものを伝え切ります。シャマンモードで得られるのはほぼ100%映像だから、見た映像を話せば良いわけです。このアプローチで進めることができるクライアントは、私が見た映像だけで全てを理解してくれます。
逆にシャマンモードでは絶対にダメな場合があります。それは現在の状況が極端にしんどい方、肯定的な人生観や氣の泉がすっかり枯れてしまっている方、そういう人に対しては、私は最初からシャマンモードを閉じてセッションを始めることにしています。
見える映像シャットダウンするのは、かなりやりにくい作業です。けれど、それでもシャットダウンすることで、違うアプローチにスイッチします。
クライアントからの言葉が10に対して、私の言葉は1か2程度。そして起こりうる事、起こすための条件や前兆は、私の全て私の瞑想の時に現れる「声」を通して伝えます。
それは最初、まるで絡まった釣り糸を解きほぐすような作業です。
目の前にいる、あるいは電話の向こうにいる相手に氣の焦点を合わせ、声を聴き、話を聴き、絡まった釣り糸をほぐすように、原初となるその人のキーワードを探します。ここまでは表層意識がかなり活躍します。
そしてある瞬間、キーワードにたどり着く。そこから瞑想状態が始まり言葉が出てくるのを待つ。
言葉は私の口から発声はされるけれど、実際に私はあまりその内容について覚えている事は多くありません。時間にしてだいたい10~20分程度、私はある種のトランス状態に入って言葉を並べていきます。
そこには悲劇的や絶望的な未来を表す言葉はありません。そういう言葉を、トランス時に放った感覚経験は全くありません。もちろん予感もです。
この現象は分析的に考えると、何か「こう生きて欲しい」とクライアント本人に伝えようとする、特定の意識がどこかに存在し、それを私の口を介して話しているようにも思うことがあります。
数年前、東北の沿岸地方のクライアントに「引越し」を薦めた事が続きました。あくまでも結果的にそうなっただけです。理由は分かりません。自分でも「ワンパターンだな」と、意識で考えるとそう思いました。
でも、セッションになると決まって「その地から離れることで氣の滞りがとれる」とか「あなたの望んでいる人との出会いは別のこれこれこんな地にある」とか、そういう言葉が続きました。
だから、私は地震や津波を予知した訳でもないし、そんなものしたくもありません。霊視してそんなものを見た日にはまともにセッションなどできなくなります。
ただ、そういう形で一人一人状況も事情も違う形で、命を守ったり未来を明るく変えようという声、ベクトルが働いている事だけは確かなのです。私はそれを「神の声」と呼んでいます。
「神の声」からは絶対的に愛の言葉しか聞こえてきません。そのクライアント自身の命を膨らませるような、許しと愛の言葉。。。もちろん罪とか罰とか因果応報みたいなこととは全く無縁です。
本当は、このような「神の声」は、心の耳を澄ませば、誰にでも聴くことができるものだということを私は知っています。ただそれを実現するためには、ちょっとした修行めいた事や、現代の社会生活に少しく支障をきたさなければならないライフスタイルも必要だったりするので、なかなかできる人がいないだけです。
もう一つ難しいのは、それぞれが「自分の事」を神の声から得られるものはとても少ないということ。なぜなら、客観視できないから。
この客観視というのはとても重要なことです。
「声」も「映像」も、自己や他者を客観視できないうちは、正確な像を結ぶことはありません。
これさえできれば、リーディングの8割は終わったようなものです。
トランス状態が進むと、言葉が勝手にその人の未来を語りだします。それは神や宇宙の原理に則った決まりに沿っているので、その人の魂にふさわしい命の繁栄と豊穣の未来がどうであるのか、そのためにはどう生きるのがいいのかを、指し示してくれます。
愛や生命の繁栄というものを実現できるベクトルそのものです。
結果として、悪い未来なんぞ一切見なくても、クライアントの未来を明るい方向に持っていくようなプロセスを示す事ができるようになるのです。それは生命繁栄という神や宇宙の原理に逆らわない、輝かしい未来から今を見つめるようなセッションです。
もちろんそれを実現するためには、クライアント自身の努力や、まっすぐに受け取ることができる素直さが必要ではあるのですが、それについてはまた別の機会に。