2023年8月25日金曜日

波動装置としての絵

小学校1年生の時に画塾に通い始め、師事していくうちに、絵を描く事は僕の幼い人生の一部になっていた。
それにもかかわらず、僕の僕自身の絵に対する肯定感は長い間低いままであった。

幼なじみや同級生は「チヒロは昔からとても絵が上手かった」と言ってくれるが、自分ではとてもそんな風には思えず、また図画工作や美術の教科書に載っている子供らしい絵だとか、中学生らしい絵とか、そういう全国レベルの子供たちの絵と自分の絵を比べてはいちいち落胆していた。

ただ、無心に描いた絵は自分でも好きだし、周囲からも賞賛される事は多かった。
時々「誰が描いたんだろう?」と自分でも訝しがるような出来の時もあった。
で、一旦それに気を良くして、もっとうまく描きたいと思って描き始めると、やっぱり気に入らない絵しか出来上がらない。

このことは長いこと自分の中での謎であり、このジレンマに小中高の間中悩み続け、そのうち絵を描くことが嫌になり、大学受験直前まですっかり中断していたこともある。

けれども、そのブランクやスランプのあとに絵筆を持ち描き始めると、自分でもびっくりするような素敵な絵が出来上がる。
決してうまい絵、自分の理想とする絵ではないのだけれども、なんとも味のある、じわじわ好きになるような絵だ。

誰でも、自分でこう描こうとか、誰かに褒めてもらおうとか、そういう気持ちが一切消えている無心の絵は、素晴らしいものが出来上がる経験を一度はしている。

もしそれだけなら「うまく描こう」をやめれば済むことである。

しかし僕はさらにその先に「自分が描いたとは思えないもの」が現れるのを頻繁に体験している。
自分が描いたとは思えないのに愛着が湧いてくる。絵が向こうから勝手にやってきて画面に勝手に描かれる。そしていつの間にかその時の自分に必要不可欠な絵になるのを感じる。
これが何なのか知りたかった。そしてそれを知ることができれば、もう絵を描くことで悩まなくて済むのだ。

そしてやがて得た一つの答えは「波動の描写」だった。

このことに僕は神秘的な何かで意味付けするつもりは一切ない。それは今も昔も同じである。ヒーリングやカウンセリング、パワーストーンを扱っているので「何か降りてきてるんですか」とか「描かされているんですね」と言うような質問を受けることもあって「そうですね」と適当に返事をすることもあるが、正確に言えばそのどちらでもない。

ただ、やっぱり僕の絵は向こうから勝手にやってくるのである。ただそのニュアンスを手短に伝えることはとても難しい。
「波動」それは一種の「ゾーン」と言えなくもないが、誤解してほしくないのは、瞑想とか坐禅とか、そういうもので短時間に得られるものともちょっと違うし、描いているうちに起きるゾーンエクスタシーとも違う。

幼少に絵を描き始めてから、今までもだが僕にとって絵を描くと言う作業はとっても億劫な出だしを伴うもので、真っ白のキャンバスを目の前にして制作作業に取り掛かるまで本当にバカみたいに時間がかかるものだ。

ところがある日突然、描きたいという気持ちが強くあるわけでもないのに、自分でも意識せず猛烈に描き始める瞬間が訪れる。やがて何時間も過集中状態が続き、画面にのめり込む。これは普通に言う「ゾーン」だ。でもその時点では何も起きない。
ここで意図を発揮してはいけない。
一段階目の無心ゾーンの時点であれこれ考えて手を加えても何も奇跡は起きない。

奇跡が起きるのは、仕掛かって一旦筆を置いてその数日後だ。

絵を見ていると突如画面にいろんなものが踊り出してくる。

その時、初めて自分がある種の波動と共振しているのを自覚する。
気持ちというより、精神の統一状態から解き放たれてなにかを手放した瞬間、絵との共振が起きている。

それから一手間だけ加える。加え過ぎてもいけない。
そうして、向こうの方から絵が勝手にやってきて画面に乗っかって作品は完成する。

「こうしてやろう」とか「こんなアイディアを試してやろう」と言うような思いは一切生じさせてはならない。経験上、そういう頭で考えた絵はろくなものにならない。これは他の人の絵にも通じる。考えた絵というのは、どこか魂胆が見えて絵が彷徨うことになる。

テーマを決めてうまく書こうとして訓練することもほとんどない。若き日のデッサンは必要不可欠だが、それにいつまでも頼った絵は、やはりつまらない。
成り行きで画面は構成され一発描きで必要なものは全て画面に登場してくれる。このパターンに気がつき始めてから、ずいぶんと絵の質のばらつきが減った様に思う。

自分のために描いているわけではないけれども、誰かのために描いてるわけでもない。ただその後、描いたその作品が、ある日、ある人のもとに迎えられて、その人の人生をガラッと変える。そのことは紛うことなく事実だ。

そういうことが近年は頻繁に起こるようになった。そういう時、僕はきっと時空を超えて、未来のその人と繋がってその人の人生を彩るために描いたのだなぁと思っている。その人に出会う前から、その人が輝かしい未来を味わうのに必要なものを描いている自覚がある。

このことは偶然でも神秘的な大きな力のせいでもなんでもない。天や神に描かされていると言うような真偽の定かでない表現も使いたくない。

自分の作品が誰かの胸を打った時、あるいは人手に渡る時、それを「たまたま」と思ったことも一度もない。全ては必然的に繋がる。

僕の絵が手元に届いた途端に人生の調子を取り戻しつつある、さる作品オーナーの姿を見て強く思うのは、そうなるのは絵のおかげなどとはもちろん言わないが、そこに至る本人の意思や覚悟、エネルギーが、僕の絵を呼び寄せて、良き燃料になった……ぐらいのことは確かである。それを起こすのはシンクロニシティであり、波動の共鳴、共振である。

僕の絵は、波動そのものを発する装置なのだ。

つまるところ、未来のその人が求めている「その波動」が自分にあれば、絵は勝手に向こうからやってくる…ということだ。

そのために常に自分の魂の波動をある部分にチューニングしておくことだけは心掛け、怠らないようにしている。そして、うまくチューニングができた瞬間、無心の制作作業が一気に始まり、完了する。



2023年8月18日金曜日

「そんなに言うならやってみろ」

大学時代、学生の間でどこからともなく、古いヨーロッパの諺と称して(真偽は分からない)こんな言葉が聞こえて来た。 「絵描き一代音楽家二代デザイナー三代」 食えるようになるまで、絵描きは一代でものになるが、音楽家は親子二代、デザイナーは親子孫三代に渡って頑張らなくてはならないと言う意味だ。 生まれた境遇や教育環境のことを指していっているのだが、いかにも「ヨーロッパwww言いそうwwww」な流言ではある。 実際には現代は、音大や美大も用意されているし、系統だった情報や知性やセンスに触れることも、その気になりさえすればいくらでもできる。一代であっても努力と才能で素晴らしい音楽家やデザイナーになっている人たちはたくさんいる。 しかしながら凡人にとっては、努力を積み重ねていくうちに、努力だけでは如何ともし難い壁というものを何度も感じることがあるものだ。 僕は早くからバイオリンやギターで音楽教育を受け、自ら進んで絵の師匠に付き、はたまた大学では工業デザインを専攻し、社会に出てからは成り行きとは言えデザイン事務所法人を長年経営してきた。 なので先述の3つのことは全部、割と本気でやってきた。その上で、あの言葉には長年反発しながら、また時には実感として「ああそうだな」と、身に染みているところもある。 自分にとってせめてもの救いなのは、現在一番力を入れている「絵描き」については一代でものになるらしい、というところだろうか(笑) 言葉の呪縛とは恐ろしい。たとえ根拠のないものであっても「そうらしい」と言う言葉に多感な10代が触れてしまえば、どんなに反発してもその言葉の呪縛から自分を剥がしていくのは、実に骨の折れる作業になる。 そんなだから僕は随分と長いことフラフラしていた。 母は、家でピアノを子供たちに教える仕事をしていたから、二代目の僕は音楽家にはもしかするとなれたのかもしれない。 実際、妹の方は難関と言われた音大のピアノ科を卒業し、主婦となった今でも細々ながらも音楽の仕事を続けている。 本人は才が無いと自分で言っていたが、高校時代に彼女が弾くショパンの「幻想即興曲(嬰ハ短調)」には、間違いなくショパンの熱情が映り込んでいた。 「映り込むぐらいじゃなれんのよ」と言われそうだが(笑) しかし、兄の僕はといえば音楽は聴くものであって、世の中で要求されるような音楽を作る才も演奏能力も、どんなに努力しても人並み以上に上達する事はなかった。 父は、公船の機関士だったが、僕が物心ついた頃には、陸に上がり実業高校の教師となっていた。 僕が大学に入り、得意な絵画の方に進むのではなく、工業デザインを選択したのは、父の背中を見ていた影響かもしれない。 しかしお世辞にも優等な学生とは言い難く、大学に入ったらやめようと思っていたはずの音楽を、友人に誘われるまま再開し、次第にバンド活動に耽溺、4年間をほとんどデザインとは無縁の状態で過ごしてきた。 それでも音楽家にはならなかった。いや、なれなかった。 2年間の教員生活を経て、とうとう僕は大学まで行かせてくれた父に「教師は続けたくない」と告げた。 僕にはやりたいことがあった。 父はと言えば、終戦後ソ連軍の占領下にあった樺太から命からがら引き上げ(ソ連から見れば逃亡、見つかれば銃殺かシベリア送り)、下北半島の不毛の開拓村で掘っ立て小屋から再スタート、さらに一家を助けるために漁船員になり、そこからさらに苦学しやがて公船の機関士になり…という、戦後復興日本を絵に描いたような苦労人であった。 そんな苦労人の父は、子供の勉強や努力といったものに対して実に手厳しい人ではあったが、不思議と僕の進路については「ああしろこうしろ」とは言わなかった。 母にとっては随分と希望や失望もあったろうが、父は「やりたいことがある」という僕に「そんなに言うならやってみろ」と言ってくれた。 おかげで僕は随分と自由に自分の人生を考えられるようになった。もちろんその自由と引き換えに失うものも多いことは分かっていた。 自由とは自己確立と自己選択である。そしてその選択には責任やリスクがついて回る。困難も失敗も織り込み済みである。それを跳ね除ける強靭さも要る。 父は自由に自分の人生を選択できる境遇には無かったが、自己の存立、確立のために、絶えず自己選択し、境遇、環境と闘い抜いて、最終的に「教師」という地に到達して来た人である。教師となってからも随分と武勇伝はあったようだが、僕の知る限り概ね平和で穏やかな後半生である。掛け値なく、境遇を跳ね除け人生の闘争に勝利した人生であった。 しかし彼は「人より何倍も勉強した」とは言っていたが、決して「苦労した」とは自分で言ったことがない。 そんな父の「やりたいようにやってみろ」という言葉を放つ目は決して甘い親の優しい目だったわけではない。 時代環境に翻弄され、闘争の連続であった自分の時代とは違う意味で「用意された環境を捨てるなら、お前も自力で闘ってみろ」と言ってくれたのだと、僕は今でも思っている。 前述したように、その後の僕の自由は、謳歌だけでなく常に失敗や困難と背中合わせだった。失敗の多くは自分の覚悟の足りなさから来るものが断然多く、父のそれに比べたらまだまだ甘いのは重々承知だ。 しかしそんな迷いや困難の数々も、月並みな言い方で言えば見事なまでに点と点が結ばれて線となり、今や気付けばそれが広大な多角形を作り出して、僕の創作や人々へのささやかな貢献に、多大なベネフィットを与えている。 結果的にそれらは失敗でも困難でもなく、乗り越えた先の僕の大切な財産となったのだ。 今僕は、人としての喜びも痛みも恥も哀しみも人並み以上に味わうことができている。 覚悟というものの本質についても今では少しは分かるようになり、あの時決断しなければ到底到達できなかったであろう人生観や哲学にも幸運にも出会うことができている。それが自己創作の深部に多大に貢献していることは疑いの余地がない。 そしてそうし続けて来れたのは、自己選択とそれに呼応して節節に助けてくれた人々のご恩の結果である。 そう感じた時、僕は初めて父が歩んで来た場所の一部に自分も足を踏み入れられたような気がした。 人とは結局、それぞれに与えられた境遇や宿命を自己確立という意志の力でねじ伏せ乗り越えていく存在に他ならない。 そこに時代も環境も関係ないのである。 どんな境遇に生まれようと、人は自己責任を全うし自己選択する限り、一代にして自己を確立できる。しかしその人が背負うものの重さはその人にしかわからないし、誰も代わりに背負ってくれる人はいない。それを教えてくれたのが父のあの一言であった。 結果、迷いも失敗も全て誰のせいにすることもなく自己に帰することで糧とし、また「苦労した努力した」などと吹くこともなく済んでいることは、本当にありがたい事である。 迷い戸惑い乗り越えた先に見えるものの価値は、本人にしか分からない隠された宝石である。 達成や喜び、また逆に困難や岐路に立つ度、偉すぎな父を思い出しても、俯く事なく少しはそう思えるように、最近は、やっとなってきた。

2023年8月11日金曜日

ジャッジ

善or悪、高いor低い、良いor悪い、陽or陰、白or黒、幸運or不運、清いor汚い。
分けてしまえば、それはそのように振る舞い、そうでない方を憎悪する。
しかし、実際には二値とはプロセスに過ぎない。

ひとつのものが全く異なるいくつものプロセスを通り、一つの結果に帰結する。

プロセスに気を取られそれを観察、ジャッジしようとすれば、一つのプロセスを結果のように受け取ることしかできない。


だからジャッジしてはならない。
観察してはならない。

みな一つのところに行くのだから。


(2004年「セッション」より サトチヒロ)