2022年5月10日火曜日

禍福は常に同居している

カウンセリングとかリーディングでは、抱えて来られる悩みや問題にいくつかの偏りがあります。それらを寄せ集めて煮詰めていくと「どうやったら自分は幸せになれるか」という一つのシンプルな問いに辿り着くことが多いです。

それでセッションのたびに「幸せになれますよ」「幸せになる権利がありますよ」と何度も繰り返していたことがありました。

しかしこの「幸せ」というのはやっかいな言葉で、具象化がとても難しい概念で、また主観によってどうにでも変化してしまう代物です。

「幸せになりたい」ということは、その方は幸福感を味わってないのでしょうか。話を聞いて行くと、どうもそうではないのです。

ただ、幸福感を上回る不幸感、不達成感が自分を襲う。それがあまりに強いために、他の幸福感がまるで消えてしまったかのように感じる。「これさえなければ…」「これさえ手に入れば自分は幸せなのに」と思ってしまう。

例えば仏教では、これを「執着」と呼びます。

執着の原因は「苦」です。

苦には様々な種類があり、それが起きる原因についてもさらに様々な分類がされています。説明が面倒なのでここでは省きますが、この「苦」は人間が生きている限り止むことはなく、常に我々につきまといます。どんな境遇で生きている人にも等しく必ずこの苦は存在します。しかし苦が生きている限り続くとは言っても、わたしたちは、常に流れの中に生き、とどまることはありませんから、幸せもまた去っていき、不幸もまた去っていきます。幸せの中にとどまることも、不幸せの中にとどまることも、誰もできません。

一度手にした幸せは誰しも手放したくないものです。この幸せの中に留まろうとする意識が「執着」なのです。この執着は幸福さえも「苦」にしてしまい、不幸感の原因となります。

また逆に、不幸せを手放したくないなどと思う人もいません。一刻も早くこの不幸感から脱したいと思うでしょう。でも実はこれもまた「執着」であり「苦」なのです。

どういうわけかわたしたちは、幸福はすぐに去っていき、逆に不幸からは永遠に抜け出せないのではないかという思いに駆られがちです。

そしてもうひとつ不幸感にとどまってしまうときの心の特徴があります。それは自分がすでに手にしているはずの幸福への感謝を忘れてしまっているという点です。(感謝についてはまた別の機会に書きます)

執着は幸福感を打ち消してしまう最も手強い敵です。そのなかでも一番やっかいなのは「これさえあれば」「これがなければ」「あの人に比べて自分は」という類のものです。

まあ、もっとも私達が普通に生きている限り、何かに執着するのは仕方ありません。

万物は流転していくものだという観点は大切でも、何もかも執着をなくしてしまうことはできないものです。

でも執着によって襲ってくる不幸感はとりのぞきたいものです。

執着を打ち消すのではなく、まず先に、今自分が抱えている別の「幸福」について考えてみることです。それから、なぜその執着が起きているのかについて考えるのです。

やがてその執着(不幸感)が実は今持つ幸福の上になり立っていることに気が付きます。

もしもその幸不幸に関連性を見つけることができるのなら、その執着は自分にとっての大切なエネルギーですから、打ち消したり捨て去ったりしなくてもいいのです。

「禍福は糾える縄のごとし」

(禍に因りて福となす。成敗の転がり、譬えれば糾纆(きゅうぼく…撚った縄)のごとし「因禍爲福 成敗之轉 譬若糾纆」by司馬遷)という言葉があります。

幸福と不幸は常に同居しています。

そして必ず時とともに流転します。