2017年6月7日水曜日

劣等生に優しかった前川教授

今までの人生の中で、「恩師」と言ってすぐに思い浮かべることができる人が3人います。

一人目は、廣野重雄氏(故人)。
6歳にして人生で初めて僕が「芸術としての絵画」に開眼するのを手助けしてくれた人です。
彼によって、僕は明らかに「開眼」しました。

広野氏は同世代以上の気仙沼で育った人なら必ず一度はこの名前を耳にするいわば郷土の偉人です。
彼に絵の手ほどきを受けた人はまだ何千人といるのではないでしょうか。


二人目は、大学時代の工業デザイン専攻の恩師である藤原俊三氏。
イタリアのデザインが日本でブームになるずっと以前から、イタリアンデザインの魅力と素晴らしさ、そしてその手法を、地方の大学の学生達に言葉一滴も漏らさず伝えてくれました。

ちなみに僕のアルファロメオ好きは完全にこの人の影響です。免許のある学生には惜しみなく自分の愛車を運転させてくれました。


三人目は、同じ大学の教授で、専攻は全く違うのによく目をかけてくださった、前川直氏(故人)。

本来ならば恩師というには接点も少なく、また遠い存在の大芸術家ですが、この方にはどういうわけか僕は事ある毎に助けられてきたのでした。

前川氏のいかにも江戸っ子らしい、豪放磊落な武勇伝と、そんな氏の姿からは全く想像のつかない繊細できめ細やかでありながら強いエネルギーを感じる装丁の世界についての魅力と実績は、わざわざ僕がここで語る必要もありません。

確かに当時、学生にとっては常に遠い存在でした。

何しろ、「絵なんか教えるもんじゃない」「オレは教えない。教えたい学生なんて10年に一人もいない」と豪語している人でしたから。

ところがどういうわけか、僕にとっては前川先生の思い出は、何十年経っても脳裏に鮮明に焼き付いて離れないのです。

彼はいつもバーバリー(三陽ではなく英国版)のコートを颯爽と翻しては、全然関係ないはずの、我々の研究室によく立ち寄ってくれていたものでした。
研究室で行う学生主催の飲み会にも、科も違うのによく顔を出してくださっていました。
僕は彼の話が大好きでした。



前川先生にまつわる様々な思い出の中で、僕が決して忘れられない思い出がいくつかあります。

一つはデッサンのこと。
当時、一年の必修であるデッサン担当の教授は二人いて、そのうちの一人が前川教授でした。

しかし「教えない」「教えたい学生なんぞいない」と言う前に、彼は版画科の教授であり、多忙な装丁作家であり、東京在住で仕事の傍ら、週一で盛岡に来てはちょっと大学に顔を出して後は飲みに行ってしまうのが常でしたので、一年生の相手なんかしてる暇はないのです。

それで学生の間では、前川教授にはデッサンは教えてもらえないというのが代々暗黙の約束事になっていました。

片や僕はその頃美術より音楽に夢中で、しかも石膏デッサンが本当にキライでしょっちゅうサボっており、あまり出来の良い学生ではありませんでした。いや、殆ど落第生に近い。

いつもやりかけのデッサンを放りっぱなしでデッサン室に近寄りもしなかったのです。

ところがある日、気まぐれにやる気になって(たぶん提出の前とかだと思います)カルトンの前に座っていると、ある教授から声をかけられました。

「『ヘタクソだが面白い絵を描くやつがいる』って聞いたけど、キミか。」

その教授は「うん、ホントにヘタクソだねえ」と一言付け加えるのを忘れませんでした。

がっくりきました。

ところがその数日後の提出前夜、今度は前川教授がひょこっとデッサン室に現れて、なんと僕の方にさっと近づいてくるではありませんか。

そして一言「キミのデッサン、おもしろいよ、そのままでいいよ。」とだけ言い残して去って行ったのです。

その時の僕の驚きぶりたるや。

よりによって「面白い」と言っていた当人が前川教授だったとは。

片田舎の学生を有頂天にしてしまうには十分な出来事でした。

ちなみにその時の石膏像は、ミケランジェロの「奴隷」です。
嬉しくて嬉しくて、そのデッサンはしばらく実家に飾ってありました。

しかし自分が見ても、本当にヘタクソでした。
個性?
うーん、おもしろいと言えるほどの個性があったとも思えないのですが。


まあ、今にして思えば、彼流のジョークだったのかもしれません。

それから僕は、少しだけデッサンのことが好きになりました。


しかし何と言っても、決定的にお世話になったのは、卒業制作の審査でした。

僕は卒業制作(他の学部でいうところの卒業論文)に、資金面でもスケジュール面でもかなり苦労していました。

テーマは、「新型の都市型コミューターにおける車両小型化のための新機構」というようなものでしたが、工業デザイン系の制作ですから、完成体を作らなければなりません。

ところがどうしても期日に間に合わない。
2週間以上も泊まり込みで徹夜を続けても間に合わない。
みかねた後輩達に手伝ってもらっても、担当の藤原教授に迷惑をかけても間に合わない。

とうとう、本当に「機構部分」だけ、審査に出してしまいました。
やぶれかぶれです。

これだけでも審査を通るのはかなり難しい状況でしたが、なお悪いことに、審査会場で、一番の売りであった、いや唯一の売りであった、機構リンク可動部分がどういうわけか、居並ぶ教授陣の目の前で、ぴくりとも動かない。

後で聞いた話では審査当日、会場に運ぶのを手伝ってくれてた後輩の手違いで、リンク部分のシャフトを折ってしまっていたのでした。

万事休す。
僕は落第留年を覚悟しました。

研究室に戻って落ち込んでいるとしばらくして、審査の結果を、僕の担当教官である藤原教授が知らせに来てくれました。

藤原教授「千洋、おまえ、命拾いしたぞ」
僕「え?」
藤原「当然、教授全員おまえの評定は「不可」でさあ。だけど、前川さんだけ、どうしても『これは絶対に新しい。面白いじゃないか。なんでこれが不可なんだ!コンセプトだけで可をくれてやれ』ってさあ。まさに鶴の一声だったんだぞ」
僕「……」
藤原「前川さん、昔メッサーシュミット乗ってたからなあ」

そう、僕の卒業制作は、昔のメッサーシュミットKR200に代表される「バブルカー」の現代版だったのです。




でもこんなじゃない。骨だけ。

前川教授がいなければ、僕は絶対に卒業できませんでした。

その後もどういうわけか不思議に目をかけてくださり、行きつけのバーに連れて行ってもらったり(もちろん僕だけではなく、何人かの取り巻きの一人として)、卒業後も就職活動もせず研究室でプラプラしていた僕に就職をあっせんしてくれたり(結果的に採用は実現しませんでしたが)、科も違う、大して愛想が良かった訳でもない、このあきれるほどのポンコツ劣等生に幾度となく手を差し伸べてくれたのでした。

きっと担当教官である藤原教授からの口添えもあったのだと思います。
にしても、なんであんなにかまってくれたのか、今でも不思議です。

僕が大学を離れてまもなく、彼はさっと風のようにこの世を去っていかれました。




追記)
僕が前川先生を勝手に「恩師」と思っているのにはもうひとつ、他に大切な理由があって、それは今の自分の画風の一つにつながっています。それはまた機会を改めていつか書きたいと思います。

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