2016年12月28日水曜日

象の親子


象の親子 Mother and baby elephant
333x333(S3) / Oil on canvas / 2016

お花畑で
たわむれつたわむれつたわむれつ
宝物



前回のブログの絵は、最終的にこうなりました。
魂が見えてきたので、完成です。

6割ぐらいまでは、今年の6月ぐらいに出来ていたのですが、どうしても気に入らなくて、途中休み休み、手直ししながら年の暮れまでかかってしまいました。

象の親がどれで子はどれだ?いや、そもそも象なんかいるのか?というような感じを受けるかもしれませんが、象の親子です。

でも、見る人によっては象ではなく違う動物に見えるかも。いや、人かも。
生き物ですらないかもしれません。

それでいいんです。

これは魂です。愛です。



2016年12月21日水曜日

風邪ひき絵描きは一回休み

先週の水曜日から風邪で体調不良のまま過ごしていました。

インフルエンザではなかったけれど
また熱もそんなに上がらなかったのだけど
とにかく頭痛、鼻水、咳で頭と体が言うことを利かず
制作がだいぶ遅れがちに。

今日(火曜)になって随分マシにはなってきました。

去年と今年、また風邪を時々ひくようになってきました。
断食してリセットすると引かなくなるんですけどね。


先月から大小おりまぜて5作品ぐらい同時進行しています。

そのうちの一枚はこんな感じ。S3の小品。


かなり難しい問題に直面しており、テーマ性と抽象性と質感の折り合いというか
バランスに苦しんでいます。

描きたいものは山ほどあるのですが、テーマが前に出過ぎてしまうと
意図が出てきてしまう。
かと言って意図を消し去ろうとすると、質感ばかりにこだわって進まなくなる。

もう完全に禅問答の世界なんですが、風邪はその答えのための瞑想を邪魔します。
そういう時は無理に絵筆は動かさないようにはしているのですが。

完全体の時のみ、魂は見えてくる。

うーん、もう少し置くとしますか。

2016年12月19日月曜日

言葉はとても大切で重大なものである



私たちは普段、何気なく言葉を使っている。

けれども言葉はとても大切で重大なものである。

何気なく言い放った言葉だから世界を変える力なんてないと思うのはとても危険な考え方だ。
どんな言葉でも人の思いも言動も住む世界も一変させてしまう。
だから言葉は大切に扱わなければならない。


ある日突然、自分が発した「あの時の言葉」が成就する。
思いもかけないようなプロセスで。
気付いた時にはもう結果が出ている。

そして自分が言い放った言葉に感謝したり、後悔したりする。

言葉の力には人称が効かない。
言葉には嘘が利かない。

全てが自分のこととして帰ってくる。
そして言葉にしたことは必ず起きる。
言葉を発した瞬間にそれは成就に向かってセットされる。

あとはカウントダウンがあるだけ。
プロセスも選べない。結果を待つだけ。
祈りも呪いも祝いも同じ。
言葉の力は善悪を判断しない。

発した言葉のカウントダウンを止める方法はあまり多くはない。

言葉はとても大切で重大なものである。

2016年12月15日木曜日

旋律


ぼくの絵にとっては旋律(線)が重要な要素なのではない。
それでも旋律は最終的には必要で、ただそれは結果であって先にあるものではない。
先にあって大切なのは魂のエネルギー。
大自然と生きるものへの愛。
そしてそこに肉付きされてゆく色と陽陰。

2016年12月14日水曜日

憑依が創作を生む

10代の頃の静物画

まだまだ若造だった頃、僕が自分の将来の方向を決めるのに、3つの選択肢がありました。
それは音楽、絵画、デザインの3つです。

どれも子供の頃から真剣に取り組んできたことであり、どれを選択しても悔いはないと思っていました。

最終的に20代〜30代はデザインを選び、そして今は絵を描いているという訳です。

自分の創作を後から振り返った時に、必ず「あ、これはなかなかの傑作だな」とか、逆に「これは駄作だなあ」「あ、もうこれは才能ないなあ」というような感想を抱きます。

ここまではよくある自己評価、反省です。

で、その中には「これは一体誰がどうやって作ったんだ?」というような、まるで他人事のような、手放しの絶賛がたまにあったりするのです。

何ヶ月も何年も経つと、本当にどうやって作ったのか思い出せないものもあります。

しかし、プロセスは説明できても、本当の意味で「なぜそうなったのか」分からないものがある。

そういう作品ほど、感心するほど素晴らしいのです。
もしかして自分が描いたのではないのではないか?と思うほど。

自分に何かが憑依して描かせてるとしか思えないほど、創作時の記憶がない。


で、だいぶ後から気づいた事なのですが、この「憑依現象」は絵画が一番多く、デザインが一番少ないのです。

デザインは頼まれて作ることが多いので理詰めや制約が多いということもありますが、自分自身で省みるにデザイン特有の「一般ウケ」を意識したものほど憑依は起きてないように思います。

実際、憑依なんかには頼れないルーチンがデザインワークにはたくさんあります。
理論や経験値や流行というものを常に身につけておかないとデザイナーは務まりません。

音楽はシロウトの域を超えてはいませんが、それでも真剣に演奏したり作曲していた頃は憑依は時々ありました。しかしそれはもうオーディエンス不在を前提にしたものであり、売れたいとかそういうウケを狙うとロクなものはできませんでした。

そういう過去の録音を聴き直しても、「やり直したい」と思うものはあっても「時を超えて良い」と自信を持って言えるものは殆ど無いようにも思います。

やはり自由きままに作った方が面白い音が出来上がっています。


絵は、ハッとするような作品があるので、正直嬉しいです。


ほぼ常に誰の目も気にせずに「自分の世界をたった一人で表現する」のですから、憑依も起きやすいのでしょう。

なんでこんな題材を選べたのか、過去の自分スゴイなあとか、この陰影の感じ、天才的!とか。

まさに自画自賛。

僕自身瞑想や祈りやそういったものに若干のたしなみがあり、祈りから入ればそれが込められる途上でやはり意識が別のものに変わるという現象を何度も体験しています。

自分で描いておきながら、自分じゃない者が描いているというのは、なんというか創作当事者としても鑑賞者としても自分が存在している訳で、なんとも不思議な感覚です。

そして確実に、二度美味しい。

単純に、潜在的に、僕は絵が好きなんでしょうね。


2016年12月12日月曜日

休息 Rest


「休息」Rest
1455x1120(F80)/Oil on canvas/2016

その人は休息していた
安らかに
何かを想うように
何かを待つように
日だまりの中で

2016年12月11日日曜日

コンセプトとは解釈のための入り口である

絵で、言いたいこと、描きたいことが表現できた時は、たいてい言葉を発したくない。
何かを説明したいとも思わない。

「絵は絵でしか表現できない」
とは、マーラーの名言のもじりである。

東洋の美術はだいたいそうだ。

「見たままです」
「見る人の自由です」

という作者は多い。

まあ、そうなんだけど。

けれども、それは解釈を見る人に丸投げする姿でもある。

丸投げでいいのか?

そういう疑問がいつもある。

ヨーロッパに出品すると、作品の要旨やコンセプトをかなり細かく要求される。

これもまためんどくさいんだけど、彼らの鑑賞は分析的で、抽象芸術を解釈するのにかなりアンテナが立っているから、仕方がない。一所懸命、何か書く。

それも一理ある。

作者のコンセプトと、絵そのものと、鑑賞者の解釈が入り混じったところで「感動」がより深くなるという相乗効果を、僕自身も体験している。

例えば下の絵を見て欲しい。



これは僕の制作途上の作品の一例だけれど、何に見えるだろう。

黄色い風船のようなものが5つほど、下に向かって膨らんでいるのかしぼんでいるのか
まあ、そういう画面。
これを、何の説明もなしに解釈できてしまう人は、よほどの精通者であるに違いない。

では、題名を付けたとしたらどうだろう。

例えば「放出」とか「解放」とか。

そうすると、この黄色い風船が、風船ではなく、液体や気体に見えてくるかもしれない。

題名によって一つの「コンセプト」を与えたことで
その方向性、とっかかりは、単なるしぼんだ黄色い風船から
風船もしくは物体が物語る「何か」にレベルアップする。

「一体、何が放出されているか」
「何が解放されたのか」

「では、なぜそれは黄色いのだろうか」

実はここからが鑑賞、解釈の始まりである。
鑑賞、解釈は人によって千差万別だ。そして自由だ。
見る人の人生や体験によって全く異なるものとなる。

同時に作者の言う「放出」「解放」もとても気になってくる。

世の中には、作者が意味を持たせないで描いている絵はたくさんある。
それでも、見る者にとっては「意味のない絵」では困るのだ。

実際のところ鑑賞者の立場としては「意味のない絵」は僕は好きではない。

だから制作者として、知恵を振り絞って絵に魂を吹き込もうとする。

意味というよりは、魂と呼びたい。

僕はいつも魂のエネルギーを描いているから。

人やもののカタチそのものより、そこから発する魂のエネルギー。


さて、この作品にはどんな魂が込められるのだろうか。

それこそが、言葉にはできない、衝動と閃きと感性のみが支配する過程となる。

「絵でしか表現できない世界」である。








2016年12月9日金曜日

慈母、フランス人に批評される

2016年10/21〜23、ルーヴル美術館の地下(カルーセル・ド・ルーヴル)で開催されたサロン・アート・ショッピングに「慈母」を出品させてもらいました。



8号の小さな作品ですが、なかなか好評でした。


知らないおじさんが、こんなのくれました。



おじさん、よくわかってらっしゃる。


2016年12月8日木曜日

Rattray's Dark Fragrant



ラットレー・ダーク・フラグラント
使用葉:ブラックキャベンディッシュ、ペリク
原産国:デンマーク(UK OEM)
価格:4500円/ 100g(2016)

ちょっと前まではなかなかお目にかかれなかったラットレーの銘柄が、相次いで国内のカタログラインナップに加えられたようです。

僕もこのところはブラック・バージニア(Black Virginia)やアカウンタンス・ミクスチュア(Accountants Mixture)、そして定番のオールド・ゴーリー(Old Gowrie)と、ラットレーばかりを愛用しています。

このうちブラック・バージニア(Black Virginia)については次の機会に印象をここで書きたいと思っています。


今回はダーク・フラグラント(Dark Fragrant)。

ラットレーと言えば、上質なバージニアを主体とした葉の旨さがなんとも言えません。
その中でもマーリン・フレーク(Marlin Flake)は、その上質なバージニアとキャベンディッシュ、ペリクのバランスが絶妙で、常喫葉としては本当に上質です。

ちょっと乱暴な言い方になりますが
オールド・ゴーリーはマーリン・フレークからブラックキャベンディッシュを抜いたもの
対して今回のダーク・フラグラントは、バージニアを抜いたもの…と表現できそうです。

文字通り、香りがやや強い、黒いキャベンディッシュが主体
そこに僅かのペリク(希少なtobacco葉の漬物のようなもの)を加えています。
葉様はフレークで、あまり細かくはなく、ひらたく丸みを帯びた形状です。



生葉の香りは、レーズンのような芳香。
これはキャベンディッシュにアプリコットか何かのフルーツを使用しているからのように思われます。
僅かにバニラの香りもするけれど、バニラ加香はされているかどうかは分かりません。

火着き火持ちは開封直後でも申し分ありません。
アロマはずしっと重く、バーなどではルームノートに気を使いそうですが、着香のそれとは違って嫌味はないので、パイプやシガーに慣れた人であれば気にはならないでしょう。

喫味は序盤からとても甘いです。これも人によって変わるとは思いますが、イギリス葉に慣れた人にとって「甘い」と感じる甘さで、tobacco本来の熟成された甘さといえるでしょう。

冬になると、バージニアオンリーの葉が段々辛くきつくなってくるのですが、それに反比例するように、ブラックキャベンディッシュ主体の葉がとても味わいを増してきます。

まさに冬のよく温まった暖かいリビングにピッタリの一品。

合う飲み物は、紅茶、シェリーなど。
時間帯は夜。

2016年12月7日水曜日

秋景 Autumn scene



秋景 Autumn scene

333x333(S3) / oil on canvas / 2016

栗の山の向こうから秋が来て
里の水が冷たい
神社でお参りして
お豆腐を食べて帰ろう

2016年12月3日土曜日

夏の疾走 Sprint in Summer


夏の疾走 Sprint in Summer
oil in canvas / 455x333(P8) / 2016

きらきら、ざわざわ、さらさら、ぐるぐる、夏の思い出は疾走する。





風景画がとても好きで、かつては風景画家になりたいと本気で思っていた事もあった。
僕が画業に復帰したきっかけも風景を描きたい一心からだった。

でも、描いてもちっとも気に入らない。
見た人が「素晴らしい」と言ってくれる絵でも、描いた本人にとってはつまらない。

「これじゃ写真を見ていた方がマシだ」

印象派的な画風は昔から変わらないけれど、荒くざっとした色だけで表現しようと思えば表現できるし、まあ、面倒なのであんまりやらないのだけれど、逆に細かく描こうと思えばいくらでも細かくできる。

でも、そうじゃない。

なんとか自分だけにしか描けない、自分が見てきたものをどうにか画面に表せないものか、何年も試行錯誤しては、ただ失敗作が累々と積み重ねられてきた。

そのうち、「雨上がり」「慈母」「夜明けの岸」という、僕にとっては記念すべき3つの小作品を描き上げた頃から、明らかに自分の目が、ありのままをあるように描くということから脱却し、そこにあるもののエネルギーそのものに目を向けることができるようになったのだと感じた。

夏の高原にいる時、僕は清々しい気持ちと、ざわざわした気持ちがいつも同居する。
その原因は一体何なのか。

山や森や湖は、夏に生命を燃やして一斉に叫んでいる。
ものすごく急いでいる。
生命が沸き立っている。
立ち上がって僕に呼びかけている。

そういう姿が見えた。

夏の高原は走っているのだ。