2022年12月20日火曜日

マミヤのコントラスト

 亡き父のマミヤ……はしばらく前に母が売り払っていた。


取り戻そう……と思って中古カメラ屋やネットオークションをだいぶしばらく彷徨った。


けれど、そのカメラは1950年代のマミヤの技術の粋を集めたような複雑な機構が売りで、調べていくうちに、おそらく手に入れられたとしても、60年後の今、まともに動くものを取り戻すのは無理だと分かった。


そこで僕は、父のものよりさらに4〜5年ほども旧い、性能は変わらないがややシンプルなモデルを手に入れることにした。


初めて現像から帰ってきた写真を見た瞬間

「あ、子供の頃に見た、あの光だ。」

と思った。



マミヤの光は、陽だまりだ。

「忠実故に平凡」と誰かが言ってたけど、僕にとってのマミヤはそうじゃない。

幼い頃の家の、マサキの生垣に反射した陽射しが、淡い緑と陰の深い深いコントラストを作り出し、その温度差まで伝わってくる。


生垣の陽だまりで感じた肌の温もりを今でも覚えていられるのは、父のマミヤのおかげだ。


そしてこの緑のコントラストは、今の僕の作風にも強く影響している。


僕のアート人生の大半は、色とコントラストの追求の歴史といっても過言ではない。


「黒を使うな」という最初の師匠の鉄の掟は、30代後半まで僕を苦しめた。

黒を使えない絵は、コントラストが甘くなる。

結果として色相環を無意識レベルで扱えるようになるまで叩き込むことになる。


もちろん今は4種類以上もの黒を使い分けて多用しているが、そんなこともあって黒という色を使わずにコントラストを上げる方法を10代は身につけた。


アクリルや水彩では、黒は「黒」だが、油彩ではピーチブラックやチャコールブラック、マーズブラックなど何種類もの黒がある。


プラス、僕はインディゴやペインズグレイ(国産と海外製とではこの色の意味するものはだいぶ違う)、さらにはプルシアンブルーを、混色やグレージングを利用して「黒」として使う。


それは、光のコントラストを確実に豊かなものにしてくれる「黒」達だ。


加えて「水晶」である。

水晶は、パワーストーン、パワーアートとしての役割だけを狙っているのではない。


光を集め、コントラストの極の一端を担う、大切な「画材」である。


強いコントラストは、強さと同時に優しさや懐の深い奥行きや暖かみも表現してくれる。


そんなコントラストを教えてくれたのが、幼い頃の、父のマミヤだった。



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2022年11月5日土曜日

画家一代、音楽家二代、デザイナー三代

 画家一代、音楽家二代、デザイナー三代

まだ学生の頃「画家一代、音楽家二代、デザイナー三代」という言葉があって、やたらと意識していた時期がありました。

ネット検索しても出てこないところを見ると、古い世代の書籍か、あるいは限られたアカデミズムの中で言われた言葉に過ぎないのかもしれません。「デザイナー」の部分は正確には「建築」だったのかもしれませんが、僕が見知った範囲では「デザイナー」でしたので、デザイナーで話を進めます。

この言の意味するところは、それぞれひと門のものになるまでは、これぐらいの「代」はかかるよということです。


デザイナーの素養は親ガチャの典型

絵描きは例を挙げるまでもなく初代で成功している人がたくさんいます。
ただこのことは後述しますが、かなり近年、複雑な思いで捉えています。

音楽家を育てるには、親の代が音楽の素養を持ち、それなりに子どもに音楽教育を施せる環境であること。有名どころではベートーヴェンやモーツァルトなど。

これにはかなり納得行くところがあります。
身の回りもそうだし、僕の知る限り、クラシック、ロック、ジャズ、演歌、民謡その他全て、親の世代で音楽に全く興味のない方で音楽家になった例を挙げるのが大変なぐらい知りません。

最後のデザイナー三代というのは、デザイナーの素養の多くは、教育というよりは生まれ育った家庭の経済、文化レベルに依存するのだという例えです。良い環境で育ち、良い物を使って文化的な生活をし、社交を経験して人とのつながりを肌感覚で見据え、またかなりの教育投資を受けていないと、人が手にして使うものをどう構成すべきかという本質が見えてこないのだそうです。親ガチャの典型です。

残念ながら僕はデザイナーとしてはまあそれなりに生活の糧になるようなレベル止まりでそれほど高貴な成果(笑)は残せていませんし、人の感性に訴える綿密な設計というものについては未だに全く自信がありません。

まあ、それでも今は経験を通じて、デザイナーも人様の役に立つためだったら「意識体験と勉強と研究」さえ怠らなければ良いデザインは生み出せるという考え方に変わっています。



絵描きになるにはお金がかかるという事実

さて、「絵描き一代」に戻ります。僕はこの「絵描き一代」にかなりの疑念を抱きながら「そんな簡単に言っていいのか?」といつも考えてしまうのです。

今から僕が書く文章は、定説や常識の逆のさらに裏を見ているような文章ですので、あくまでも正しい正しくないではなく、思考の参考までにお読みいただければと思います。

近年のアートは、相当な知的水準、技術訓練と感性、そして投資が必要な分野となって久しく、少なくとも美大を卒業し院まで進みアーティストデビューの「頼りない」切符を手にするまでに、莫大な親からの投資が必要なことが当たり前になってきています。

投資金額がそのままアーティストとしての名声や立ち位置に影響する。

もちろんその裏にはアーティスト自身の血の滲むような努力があっての話です。

が、です。

さらにそんなにまでして頑張ってきたアーティストの作品を見せられていつも感じさせられる共通の感想があります。

「まて。これって……、デザインじゃね?」

この場合の「デザイン」という言葉の使い方にご注意ください。

デザインにはターゲットがあります。

アートにはターゲットはありません。

デザインには関係ある人とない人がいます。

アートは否が応でも作者から時代への概念的関係を迫るものである。

さらに言います。

デザインとは、ターゲット(役立つ)が絞られた中でのみ価値が創造される。役に立たないデザインは淘汰される。

ところでターゲットが絞られたアートは現状、ターゲットの絞られた価値創造市場の中では莫大な富を生むが、人類の恒常的価値とは無縁のものとなっています(今のところ)。つまり、関係ない人にとってはどこまでも関係のない世界で終わる。

まあ、アートをそんな大上段で捉えるつもりはありません。
河原や路傍の石を見るようにアートも見るべきという僕の基本概念は変わりません。

眼の前にあるものがアートでもデザインでもどっちでもよろしい。

関係ない人に関係ないのは絵もデザインも一緒。人類には関係あるけど。


アートではなくデザインさせられる人たち

が、やっぱり「ん?これってデザインじゃね?」と思う作品からは、なにかこう得体の知れない「市場臭」がする。

長年のデザイナー経験から来る、独特の嗅覚がそうさせる。
それは、ある特定の人には僕はこの人の作品を紹介説明はできるけれど
別のある人にはとてもそれが価値あるものとは説明できないと感じるからです。

そこでそんな経験豊富な僕は考えるのです。

そうか!
アーティストも今や三代かかるアレなんだ!

アートは逆境を跳ね除け、美に対する止むに止まれぬ枯渇感から生まれる挑戦や、無邪気に野山で遊んでは夕日に見とれているぼんやり人間のものではなく、今やターゲット顧客層の気持ちを汲める、かゆいところに手が届く「こんなのいかがですか?」を提案する商品価値を問われるものになった!

アーティストもデザインの市場創造システムに組み込まれたのです。
彼らはデザイナーなのです。

河原で見つけたきれいな石を拾い上げて小躍りしながら家に持ち帰ってみんなにワクワクしながら見せるのではなく、ショベルカーで乗り付けていって川底まで掘り返し、ベルトコンベアーでじゃんじゃん街に送り込んでガラガラ磨いてお店に並べるのです!
アイデアだね!
アーテイストになるために、川底採掘権やショベルカーの操縦まで必要なんだ!

アイデアや驚き、新しさはとても大切なことです。技術も大切だ。

でも……

静寂から聴こえるあの音は? 詩は? 空を見た時のドキドキや締め付けられるような切なさは?

個人的見解です。
僕は「絵描きは1.5代」だと思います。

0.5はなにか。それは自分の人生をどう生きどう捉えたか、そしてそれを通じて世界や自然をどう見たか……です。

それは画面に必ず出る。
作家本人が気づいてなくても。


お互い、がんばろうね。

という…お話でした。







2022年10月31日月曜日

個展への思い〜現時点でやれることはやった感謝の4週間

個展を見に来てくださったみなさん、ありがとうございます!

 2022年10月3日から30日まで約1ヶ月間という、自分史上最長の個展を体験しました。

ロングラン個展だと、作家は週に1度か2度在廊…というような持久戦で臨むようですが、僕は今回、全日程在廊を目指し、無事実現することができました。

おかげで多くの方々との出会い、交流はまたしても僕の宝となりました。

「アート」という敷居の高さを乗り越えて、電車やクルマで銀座に向かい、ギャラリーに足を運んで、サトチヒロの作品を見てくださったというのは、本当にもう「感謝」というような言葉では足りないほどにありがたいものでした。

個展のたびに身体がガタガタになりますが(笑)それでも個展というものは、何にも代えがたい珠玉のものです。



なぜ個展にこだわるのか?

僕は数年前まで出品していた公募展に出品することもやめ、アートストンギャラリーを除く企画展も殆ど参加しなくなりました。その代わり、個展をとにかくやれるだけやろうと決心したのが、コロナ禍の真っ只中、2020年のことでした。そして今年はとうとう、オール新作での個展が実現しました。

僕がなぜこれほどまで個展にこだわるのか?

改めてここに書いておきたいと思います。


1.アートは宇宙と宇宙を繋ぐコンセントである

まず、アートは自分にとっては僕の宇宙の自己表現であると同時に、社会あるいは見てくれるお客さんの宇宙、世界観とのコンセントと言えるものです。そこに到達するためにまずたくさんの方に見てもらいたいと思っています。それは一点や二点ではダメです。世界観そのものが、その場を支配している空間が重要なのです。制作している時点では無の境地でいる僕も、個展に出品する作品にはその世界観を大切にしています。


2.サトチヒロ作品をじっくりと味わい、時間をかけて向き合って欲しい

さらに一定時間足をとめて、そのアートと向き合ってもらいたいと思っています。じっくりと向き合うためには、ある程度閉ざされた落ち着いた空間が必要です。



3.サトチヒロ作品との対話、そしてインプレッションを語り合える

さらにその作品との対話を通じて、自己投影による解釈を加えてもらえたら嬉しいと思っています。その素晴らしいインプレッションを聞くためには、自分が常に在廊している必要があります。出会いや縁というのは不思議なものです。


4.サトチヒロ作品を購入することで活動資金をサポートして欲しい

アートは子ども同然の存在であると同時に、創作活動を支えるための資金を生み出す商品でもあるという矛盾を抱えながら「買ってほしい」と思っています。お客さんがその作品を「独占したい」と思ったとき、そして値段を見て、そのアートやアーティストに投資する価値があると判断した作品は買われていきます。そしてそれが部屋に飾られた時、アートオーナーだけに許された、長く知的で甘美な美への旅が始まるのです。それに値するものを絶えず生み出したいと思っています。個展はその大切な機会です。




5.サトチヒロ作品に触れる事で幸せになってほしい

あ、もし仮に購入できなくても後ろめたく感じることはありません。サトが作ったアートが、一人でも多くの方の人生にとって希望となったり、発想思考の転換のきっかけとなったり、幸福を提供できる存在であってほしいと願っています。そして他の人にもアートの素晴らしさや役目を広めてもらいたいと思っています。ギャラリーをそのための場にしたいし、年に一度のアートフェスはその一環です。さらにサトチヒロの個展もまたその場になりたいのです。


6.個展はアーティストと美意識を共有できる交流の原点である

お客さん一人ひとりと「アーティスト対客」という垣根を超え、人間と人間の親交や友情を深め、それをずっと継続したいという夢があります。それは僕を介さない、お客さん同士の交流も含めてです。美意識やアート思考を共有できる人は、必ず仲良くなれます。それが僕サトチヒロのアートを通じてなら、なんと素晴らしいことでしょう。僕の個展がその場になれるならこれ以上の喜びはないのです。


来年は、もっと皆さんが幸せになれるような、そんな個展を目指したいと思っています。

ご来場してくださった方々、ご購入くださった方々、そして応援を頂きながら残念ながらお越しいただけなかった方々も、心から御礼申し上げます。ありがとうございました。




2022年8月29日月曜日

アーティストはビジョナリーではあるけれど

 現代アートにおいては、アーティストのあり方の理想像はビジョナリーです。

ビジョナリーとは、先見の明、新しい価値観、世界観、変革を起こすビジョンを持つ人のことです。

それを視覚的な、あるいは聴覚的な作品に起こし、見る人(鑑賞者)に新しい視点の地平を提示できるということが、アーティストとしての理想のあり方でしょう。しかし、その理想は時として「見ただけ」では瞬時には理解できないことも多かったりします。

何故かというということは後述しますが、鑑賞者がアートを見て自分のものにするためには、何かしらのヒントや背景がどうしても必要なのです。

ですから、私は常日頃から、「作家は作品を説明できなければならない」といっています。

でも、この説明が決して得意ではない人もいます。

ビジョナリーを目指してアーティストになったわけではない人もいれば、また絵を描いているから、映像や立体を作っているからといってすなわち全てビジョナリーになれるとは限らないのです。当然です。

だから無理やりビジョナリーを目指したり、難しい理論を展開したりする必要はありません。

また、アートや技術を勉強すればビジョナリーになれるというものでもありません。技術の習得とビジョンとは全く別物です。全てのアーティストが到達しなければならないというものではないのです。

ただ、現代に生きているアーティストである限り、自作についての説明はできなくてはならないでしょう。やはり現代人は「説明」を求めているのです。

しかし、表現の説明は表現の説明で良いのです。

それをビジョナリーであらんがための説明とミックスしてしまうから、話がめんどくさくなります。

アーティストがビジョナリーであるためにはむしろ、アート以外についての遠い回り道の経験や学習が必要です。

視点、視野、価値観は異質なものに触れることで加速度的に広がり、新しいビジョンが見えてきます。一つや二つの価値観だけで生きているうちは見えてこないのです。

そういう回り道を無駄とか損と考えて、知識や理論武装による近道をしようとする人もいます。しかし私はビジョナリーに近道はないと思っています。また理論武装のテクニックを学ぶことは、デッサンを学ぶことと同じぐらい重要で、なおかつ突き詰める意味の薄いものです。

アーティストのなかにはそこに真剣になるあまりに、言葉や論理が難しくなりすぎる人もいます。その結果、意味のない作品に無理やり意味(のありそうな言葉)をつけてみたり、新しくないものを新しいと主張してみたりと、見る者聞く者に時間の浪費を強いて、より一層人々からアートを乖離させてしまう原因を作っているという側面もあります。なんとなくその辺が「作家説明」のベンチマークになってしまっているような気がします。

アートコンテクストにおける理論武装は確かに重要なことですが、それが独り歩きしてしまっているのでは、元も子もありません。

ビジョナリーによるビジョンとは、ビジョナリーの人生と多様な価値観が盛り込まれながらも常に隠されているものであり、なかなかすぐには判別判断できないものです。

それはやがてそれが社会の常識となってから客観的に分析されます。

それ以前に、アートとは、まずは見られて、触れられて、心や肌感覚で何かを感じてもらうことで完成します。

その何かを感じてもらうためには、アーティストの経験と深い考察が作品ににじみ出ていることがどうしても必要なのです。それは視覚から伝わる気です。それは一朝一夕では決して得られるものではないのです。

アーティストの説明責任とは、その気を伝える手助けに過ぎません。経験、視野と、その結果現れた画面の関連性についてを話すことであって、自己作品に評論家のような評論をつけることではないのです。

アートが必要以上に理論化してしまうのは、アーティストの責任ではありません。むしろ絵の描けない「専門家」が、なんでもかんでもアートを「言葉」に置き換えようとして、アートの無言語の世界に首を突っ込んできたおかげです。それと同じ共通言語をアーティストに強いているだけに過ぎません。

それに迎合して、美術史的視点から自作を無理やり説明しようとすることはやめたほうが良いでしょう。なぜなら歴史は歴史にとって不必要なものを淘汰するからです。歴史のジャッジは歴史が行います。


2022年5月10日火曜日

禍福は常に同居している

カウンセリングとかリーディングでは、抱えて来られる悩みや問題にいくつかの偏りがあります。それらを寄せ集めて煮詰めていくと「どうやったら自分は幸せになれるか」という一つのシンプルな問いに辿り着くことが多いです。

それでセッションのたびに「幸せになれますよ」「幸せになる権利がありますよ」と何度も繰り返していたことがありました。

しかしこの「幸せ」というのはやっかいな言葉で、具象化がとても難しい概念で、また主観によってどうにでも変化してしまう代物です。

「幸せになりたい」ということは、その方は幸福感を味わってないのでしょうか。話を聞いて行くと、どうもそうではないのです。

ただ、幸福感を上回る不幸感、不達成感が自分を襲う。それがあまりに強いために、他の幸福感がまるで消えてしまったかのように感じる。「これさえなければ…」「これさえ手に入れば自分は幸せなのに」と思ってしまう。

例えば仏教では、これを「執着」と呼びます。

執着の原因は「苦」です。

苦には様々な種類があり、それが起きる原因についてもさらに様々な分類がされています。説明が面倒なのでここでは省きますが、この「苦」は人間が生きている限り止むことはなく、常に我々につきまといます。どんな境遇で生きている人にも等しく必ずこの苦は存在します。しかし苦が生きている限り続くとは言っても、わたしたちは、常に流れの中に生き、とどまることはありませんから、幸せもまた去っていき、不幸もまた去っていきます。幸せの中にとどまることも、不幸せの中にとどまることも、誰もできません。

一度手にした幸せは誰しも手放したくないものです。この幸せの中に留まろうとする意識が「執着」なのです。この執着は幸福さえも「苦」にしてしまい、不幸感の原因となります。

また逆に、不幸せを手放したくないなどと思う人もいません。一刻も早くこの不幸感から脱したいと思うでしょう。でも実はこれもまた「執着」であり「苦」なのです。

どういうわけかわたしたちは、幸福はすぐに去っていき、逆に不幸からは永遠に抜け出せないのではないかという思いに駆られがちです。

そしてもうひとつ不幸感にとどまってしまうときの心の特徴があります。それは自分がすでに手にしているはずの幸福への感謝を忘れてしまっているという点です。(感謝についてはまた別の機会に書きます)

執着は幸福感を打ち消してしまう最も手強い敵です。そのなかでも一番やっかいなのは「これさえあれば」「これがなければ」「あの人に比べて自分は」という類のものです。

まあ、もっとも私達が普通に生きている限り、何かに執着するのは仕方ありません。

万物は流転していくものだという観点は大切でも、何もかも執着をなくしてしまうことはできないものです。

でも執着によって襲ってくる不幸感はとりのぞきたいものです。

執着を打ち消すのではなく、まず先に、今自分が抱えている別の「幸福」について考えてみることです。それから、なぜその執着が起きているのかについて考えるのです。

やがてその執着(不幸感)が実は今持つ幸福の上になり立っていることに気が付きます。

もしもその幸不幸に関連性を見つけることができるのなら、その執着は自分にとっての大切なエネルギーですから、打ち消したり捨て去ったりしなくてもいいのです。

「禍福は糾える縄のごとし」

(禍に因りて福となす。成敗の転がり、譬えれば糾纆(きゅうぼく…撚った縄)のごとし「因禍爲福 成敗之轉 譬若糾纆」by司馬遷)という言葉があります。

幸福と不幸は常に同居しています。

そして必ず時とともに流転します。

2022年4月15日金曜日

対象を観察する目

トは2022年コラボ展(アートストンギャラリー 銀座)の共同制作で観音菩薩的女性像を担当しました。@oimy30さんと@water_to_birthdayさんの描画を眺めているうちに、観音菩薩が画面に現れました。

一切モデルも資料もなく1時間ほどで描き上げたので多少雑ではありますが、それが逆に僕が最近感じる女神像からのインスピレーションがずっと強烈に続いているのだということを実感しています。
人物(や神仏)を描く方々の間には「人物を描くなら、顔と手は必ず描くべし」という鉄則があります。
僕もそれに賛同します。下手くそですが逃げません。
いくら「上手く」ても顔と手から逃げていては、それは人間を描いていることにはならないんです。
下手でもいいから描かなくてはならないどころか、下手だからこそ描かなくてはならないと思ってます。

いや、上手い下手など絵の魂の中ではどうでも良いことです。
その絵が人間や仏?神?を表現する限り、特にお顔は何を置いても重要です。

で、さらに強めに、それ以上に僕が重要だと思っていることは、……このことは僕の三人の師匠が異口同音に僕に伝えてくれた教えでもあり、かつ自分自身の体験でその裏付けを見た教訓でもあるので、この際書きますが……
もっとも大切なことは「写真を見なくても」「スケッチを繰り返さなくても」その対象を描けるようになることです。
「手癖」とは違います。
手癖とは訓練の賜物です。
しかし対象を観察し続けて見たものは、「真実」です。
たとえぎこちなくても、デッサンが狂っていても、本当に深く観察し得たものは、真実、内面が確実に絵に出ます。
アートが共感である以上、この観察眼こそがアーティストの命そのものと言っていいとさえ思います。
アーティストは、シャーマン(神託を伝える者)なのです。

写真は資料としては秀逸です。
僕も時として使います。
しかしそれに頼るあまり、二つの目で穴の開くほど観察し時の流れや内面にまで迫ることを忘れて、ただ資料のためのシャッターを切るのはかなり危険なことで、特に自然の光の移り変わりをこの目で見ていた後に、写真を見直してその「違う光、色」に引きずられて、当初の色のインスピレーションを見失うことも少なくありません。
まして対象に迫ることなく、ネットや他人の資料を拝借し、レンズのままの遠近法丸出しで何かを描くことなどあってはならないことと僕はいつも肝に銘じています。
プロならもちろんそんなのは見抜きますけれど、一所懸命に働いて、そのお金で絵を選んでくれるお客さん(サポーター)なら、もっと瞬時に直感的に見抜きます。
アートはその方の人生のパートナーなのだから。
それなので、僕は取材旅行に出かけても写真を撮らないことが殆どだったりします。
その目に焼き付けて、それが僕の中で変化して熟成していくのを待ちます。
モデルさんのことも殆どスケッチしたことがありません。スケッチはなるべく心がけてはいるのですが、デッサンやクロッキーは小学生までに散々やらされて飽きてるのと、それと似せて描くということにどうしても神経が入ってしまい、やっぱり、ただ見ていた方が、後からサラサラ描けたりします。。。

2022年3月23日水曜日

文章を書くことの効用

 「書く」ということの衝動というのは、どこかリビドーのような部分があって、まあ知的作業なのでリビドーとは違うんだけど、とりあえず知的なリビドー的な部分があります。

他にやることがなかったりすると、世の中や自分の身の回りに対して何か言いたくなる、何か言いたくなるけれど、実際に言ったりするとまとまらなかったり、あるいは人間関係になんとなく齟齬が生まれたりするから「書いたほうがいいや」ということを分かっている人は、なんか書くのです。

それは日記だったり、SNSだったり、ブログだったり、あるいは小説だったり漫画だったり……それぞれ。

逆に忙しくてリアルで手一杯だったりすると、何も生まれない。書けない。

あるいはツイッターなどで一日のうちにちょこちょこ書いたりしてると、これもまたまとまった文章が書けなくなる。短文を書くことで自分の知的リビドーのエネルギーが発散されちゃう。満足しちゃう。

さて、これを逆にして考えてみます。

何かしたいけれどそのエネルギーがない、あるいは何もやれることがない時は、その時の思いを書いてみれば良いのです。

誰に見せるでもない、プラスとかマイナスとか、良いとか悪いとか考えずに、世の中に対して思ってること、人に対して思ってることを書いてみる。

まとまった文章が書けなかったら、散文や詩でもいい。

何かしたいことがあったとして、今の自分にはいろんな理由でできなかったりする。でも「それができない」ということは、「それに対する思いが強い」ということでもあります。

だからその思いを文章にしてみればいいんです。

そして自分で書いた文章を、あとから読み返してみる。

意外といいことが書いてたりする。

「へえ!」と感心することもある。

その時の思考に驚くこともある。

そしてその先には、自己を中庸に導く力が働いていることに気がつくのです。

それは心身のバランス。

どちらかに傾くと、辛い。

でも傾いたら、バランスを取れば良い。

文章を書くということは、このバランスにとっても良いことなんです。


2022年3月15日火曜日

神様が降りてくる方法

 僕がいつも思ってることですが、絵は自分が「こう描こう」と思って首尾一貫してもだいたいダメなんです。

計画的な絵ほどつまんない。デザインじゃないんだから。

意図的に描いて、意図的に運んで、技術で描いた絵はすぐに分かっちゃう。

上手だね、でもつまんない絵。

じゃどんな絵が面白いかっていうと

神様が降りてきて、勝手に描かされた絵が一番面白い。

神様が降りてきて描かされた絵は、それ自体が光ってる。

超越している。

上手い下手関係ない。

神様が降りてきて描かされた絵こそが芸術だ。

でも、描かされてるなんて安易に言っちゃだめだよ。


…みたいなことをいうと

「へえ、じゃ神様が降りてくるにはどうしたらいいんですか」って聞かれます。


えーと、それは


まず、毎日描くことです。

アイデアが湧いてるうちは神様は降りてこないので、アイデアが枯渇するまで描く。

そうして、もう自分でアイデア出そうなんて頑張っても出ない状態になって

ただとにかく描く。

デタラメに描く。

デタラメは下手っぴだ。

へたっぴでもいい。

キレイに描けたらもっといい。


それから、描かない。

描きたくなっても描かない。

ひたすら違うことをします。

ぼーっとしたり、遊んだり、旅に出たり。

絵とやりたくないことをやらない限り、何をしてもいい。


もうやることがなくなってつまんなくなったら、それからまた描き始める。

もうネタなんかない。


でも、旅に出たからなんか出てくるかなあ。

遊んだ時のことを思い出してみて。


パレットになんか色を出してみる。

キャンバスに塗ってみる。

叩いてみる。

こすってみる。


そうするとそのうち、神様の声が聞こえてくる

「ここはこう見える」

「ここはこう描くのだ」


お?ほんとだ。

そのとおりに描いてみる。

言われたとおりに。

変にテクニカルにいじらずに、セオリーなんか無視して筆やナイフや指を走らせる。

それがそう見えたならそのように

テーマもモチーフも、神様が勝手に考えてくれるから

なんにも考えなくていい。


あんまり欲張らずに。

「わあ!キレイだなー」と思う。


自分の手は自分で動かしてるようでいてそうじゃない。

神が教えてくれる。

それが、神が降りてくるという本当のこと。



それを認識すればそれは来る

 ちょっとわかりにくい概念ですが、例えばどこかで戦争が起きていることをTVやネットで見たとします。その情報に嘆いたり、悲しんだり、怒ったりするかもしれません。

その時点で、その人はその戦争に既に参加しています。

つまり、「戦争反対!」とか「〇〇国は軍国主義で酷い!」とか、何かしらのジャッジをした時点で、その人はその戦争の加担者となっているのです。


さて、ネットの向こうの戦争を嘆くのをちょっとだけ休んで、自分の周囲半径10mの様子を眺めてみてください。

いかがですか?

この瞬間、自分の目の前に銃弾は飛び交っていますか?空から何か落とされていますか?


それとも平和ですか?


自分がこの瞬間と前後2秒間ぐらい、それが自分自身の宇宙、世界のすべてです。


自己が感じる、いまこの瞬間の前後2秒間、自己の眼の前の世界が平和なら、あなたが住んでいる世界は平和です。


戦争を起こさない、やめさせる唯一の方法は、そのたった半径10mのあなたの平和を、宇宙を広げることなのです。


概念は認識を生みます。

認識は感情を動かします。

感情は現実を生みます。


「戦争が始まる」「戦争が始まった」「その影響が自分にも」それをネットやTVで認識した瞬間、感情が動かされます。

怒り、嘆き、同情、悲しみ……。

それは起きるためのプログラムを始動し、そして現実化が始まります。


天はジャッジしません。

戦争が良いとも悪いともジャッジしません。

戦争が良いとか悪いとか思うのは人間の感情です。病気や災害、個人的不幸について感じるものと全く同じものです。


そして少なくとも今この瞬間、天はあなたの目の前には戦争を起こしてはいません。


目の前の子どもたちや老人たちは、銃弾やミサイルに傷つけられたりはしていません。


あなたが「情報」だと思っているそれは、あなたの宇宙には元々無かったものです。

それをネットやTVによってあたかも事実のようにあなたの宇宙を侵蝕しているから、あなたの心がかき乱されるのです。


繰り返しになりますが、もしも本当に平和を希求したいのなら、今この瞬間のあなたの半径10mの宇宙に存在する恒久的平和を、少しずつ少しずつ広げていけば良いのです。


見たこともない場所の漠然とした「詳しい情報」に踊らされずに。


2022年2月5日土曜日

選ばれること

 思いもよらない幸運に恵まれ、愛に満たされ、道が拓かれ、そこに絶えず惹きつけられている時は、天(神仏、霊、宇宙人…なんでもよい)に嘱望されています。

もしそこに気づいたのなら、それにふさわしい思考を保ち続ける必要があります。

その気づきは、愛と一歩引いた謙遜、そして感謝がセットです。

逆に、憎しみや嫌悪、怒り、妬み、尊大、悪口、不平などとはとても相性がよくありません。

天(神仏、霊、宇宙人…なんでもよい)は愛のエネルギー。

繁栄と富に向かって突き進むエネルギー。

そのエネルギーに選ばれていることを自覚すること。


2022年1月26日水曜日

ポストコンテンポラリーへのヒント

マルセル・デュシャン以降のコンテンポラリー(現代)アートにおける最大の弱点は、意識的にせよ無意識的にせよ、結果として見る者の思想の文脈を規定してしまっているという点にあると、常々僕は考えています。

作家のコンセプトが明確であればあるほど、その枠組みの中で解釈しなければならない、背景に流れるコンテクストを知っていなければならない、それを分からない者は排除される、鑑賞者に感性の自由が許されないという、美の追求という人間の意識進化にとっては歴史上類を見ないほどの途轍もなく大きなハードルを抱えているのです。

「これはなんだ?」という鑑賞者の疑問が、「なるほどそういうことか」に至るまでの過程が作者の敷いたレールから外れることは許されない。作者の思う通りに思考し、思う通りに意識を変革しなくてはならない…

このことは作家の哲学、経験、思想が常に鑑賞者の意識を啓蒙出来るほど先進的で優れていなければならないことを意味します。

しかしアーティストとはそんなに優れた人たちなのでしょうか?私はそうは思いません。

私の知る限り、例えば環境問題の啓蒙を試みる作家の多くは、その主張が一方的な視点でしか物事を捉えることが出来ずに自己矛盾を抱えたままです。
アート以前に、物事を論ずるために持つべき基本的な知識や論理的思考が圧倒的に足りないのです。

そういう状態で作られたアートが持っているメッセージ性は、特定のカルト的な考えを持つ人々には強く受け入れられることでしょう。しかし広い世界の目で見れば一過性の錯乱に過ぎません。

そして何よりそれらに共通している致命的な欠陥は、時代や主張を問わずに残されるはずの「美しさ」が欠如しているという点です。

普遍的美しさを広く訴えることのできないマテリアルは、時代の現象としては記録されることはあっても、美としてはカウントされないのです。

「なんだこれは」という違和感の先にあるものが「美しさ」「美」「愛おしさ」ではなく、「作者の企図」のみであり、それを理解しないでは作品を通じた顕在意識化というたった一本の道さえも見つけられない…というのが現代アートが約一世紀に渡ってたどり着いた荒野であるというのは言い過ぎでしょうか。

そういうものを継続的に見せられている「大衆」は鑑賞者としての価値観、感性に常に自信が持てない状態を強いられています。
アートを見るたびに不安感を抱くようになっていると言っても良いかもしれません。

この現代アートの荒野から、本来全ての人が持っているはずの美への感性を取り戻す、救出、救済を試みる、というようなテーゼだけでも、僕はやりがいのある「抵抗」ではないかと思っています。





2022年1月24日月曜日

アート

 なかったとしても世の中は変わらない。

なくても生きていける。

知らないで一生を終えることだってできる。

でも一度この世に生まれて

誰かの目に触れたなら

その日を境に、誰かの心と人生に確かに刻まれる。

宝物になる。

世界になくてはならないものになる。