2022年3月23日水曜日

文章を書くことの効用

 「書く」ということの衝動というのは、どこかリビドーのような部分があって、まあ知的作業なのでリビドーとは違うんだけど、とりあえず知的なリビドー的な部分があります。

他にやることがなかったりすると、世の中や自分の身の回りに対して何か言いたくなる、何か言いたくなるけれど、実際に言ったりするとまとまらなかったり、あるいは人間関係になんとなく齟齬が生まれたりするから「書いたほうがいいや」ということを分かっている人は、なんか書くのです。

それは日記だったり、SNSだったり、ブログだったり、あるいは小説だったり漫画だったり……それぞれ。

逆に忙しくてリアルで手一杯だったりすると、何も生まれない。書けない。

あるいはツイッターなどで一日のうちにちょこちょこ書いたりしてると、これもまたまとまった文章が書けなくなる。短文を書くことで自分の知的リビドーのエネルギーが発散されちゃう。満足しちゃう。

さて、これを逆にして考えてみます。

何かしたいけれどそのエネルギーがない、あるいは何もやれることがない時は、その時の思いを書いてみれば良いのです。

誰に見せるでもない、プラスとかマイナスとか、良いとか悪いとか考えずに、世の中に対して思ってること、人に対して思ってることを書いてみる。

まとまった文章が書けなかったら、散文や詩でもいい。

何かしたいことがあったとして、今の自分にはいろんな理由でできなかったりする。でも「それができない」ということは、「それに対する思いが強い」ということでもあります。

だからその思いを文章にしてみればいいんです。

そして自分で書いた文章を、あとから読み返してみる。

意外といいことが書いてたりする。

「へえ!」と感心することもある。

その時の思考に驚くこともある。

そしてその先には、自己を中庸に導く力が働いていることに気がつくのです。

それは心身のバランス。

どちらかに傾くと、辛い。

でも傾いたら、バランスを取れば良い。

文章を書くということは、このバランスにとっても良いことなんです。


2022年3月15日火曜日

神様が降りてくる方法

 僕がいつも思ってることですが、絵は自分が「こう描こう」と思って首尾一貫してもだいたいダメなんです。

計画的な絵ほどつまんない。デザインじゃないんだから。

意図的に描いて、意図的に運んで、技術で描いた絵はすぐに分かっちゃう。

上手だね、でもつまんない絵。

じゃどんな絵が面白いかっていうと

神様が降りてきて、勝手に描かされた絵が一番面白い。

神様が降りてきて描かされた絵は、それ自体が光ってる。

超越している。

上手い下手関係ない。

神様が降りてきて描かされた絵こそが芸術だ。

でも、描かされてるなんて安易に言っちゃだめだよ。


…みたいなことをいうと

「へえ、じゃ神様が降りてくるにはどうしたらいいんですか」って聞かれます。


えーと、それは


まず、毎日描くことです。

アイデアが湧いてるうちは神様は降りてこないので、アイデアが枯渇するまで描く。

そうして、もう自分でアイデア出そうなんて頑張っても出ない状態になって

ただとにかく描く。

デタラメに描く。

デタラメは下手っぴだ。

へたっぴでもいい。

キレイに描けたらもっといい。


それから、描かない。

描きたくなっても描かない。

ひたすら違うことをします。

ぼーっとしたり、遊んだり、旅に出たり。

絵とやりたくないことをやらない限り、何をしてもいい。


もうやることがなくなってつまんなくなったら、それからまた描き始める。

もうネタなんかない。


でも、旅に出たからなんか出てくるかなあ。

遊んだ時のことを思い出してみて。


パレットになんか色を出してみる。

キャンバスに塗ってみる。

叩いてみる。

こすってみる。


そうするとそのうち、神様の声が聞こえてくる

「ここはこう見える」

「ここはこう描くのだ」


お?ほんとだ。

そのとおりに描いてみる。

言われたとおりに。

変にテクニカルにいじらずに、セオリーなんか無視して筆やナイフや指を走らせる。

それがそう見えたならそのように

テーマもモチーフも、神様が勝手に考えてくれるから

なんにも考えなくていい。


あんまり欲張らずに。

「わあ!キレイだなー」と思う。


自分の手は自分で動かしてるようでいてそうじゃない。

神が教えてくれる。

それが、神が降りてくるという本当のこと。



それを認識すればそれは来る

 ちょっとわかりにくい概念ですが、例えばどこかで戦争が起きていることをTVやネットで見たとします。その情報に嘆いたり、悲しんだり、怒ったりするかもしれません。

その時点で、その人はその戦争に既に参加しています。

つまり、「戦争反対!」とか「〇〇国は軍国主義で酷い!」とか、何かしらのジャッジをした時点で、その人はその戦争の加担者となっているのです。


さて、ネットの向こうの戦争を嘆くのをちょっとだけ休んで、自分の周囲半径10mの様子を眺めてみてください。

いかがですか?

この瞬間、自分の目の前に銃弾は飛び交っていますか?空から何か落とされていますか?


それとも平和ですか?


自分がこの瞬間と前後2秒間ぐらい、それが自分自身の宇宙、世界のすべてです。


自己が感じる、いまこの瞬間の前後2秒間、自己の眼の前の世界が平和なら、あなたが住んでいる世界は平和です。


戦争を起こさない、やめさせる唯一の方法は、そのたった半径10mのあなたの平和を、宇宙を広げることなのです。


概念は認識を生みます。

認識は感情を動かします。

感情は現実を生みます。


「戦争が始まる」「戦争が始まった」「その影響が自分にも」それをネットやTVで認識した瞬間、感情が動かされます。

怒り、嘆き、同情、悲しみ……。

それは起きるためのプログラムを始動し、そして現実化が始まります。


天はジャッジしません。

戦争が良いとも悪いともジャッジしません。

戦争が良いとか悪いとか思うのは人間の感情です。病気や災害、個人的不幸について感じるものと全く同じものです。


そして少なくとも今この瞬間、天はあなたの目の前には戦争を起こしてはいません。


目の前の子どもたちや老人たちは、銃弾やミサイルに傷つけられたりはしていません。


あなたが「情報」だと思っているそれは、あなたの宇宙には元々無かったものです。

それをネットやTVによってあたかも事実のようにあなたの宇宙を侵蝕しているから、あなたの心がかき乱されるのです。


繰り返しになりますが、もしも本当に平和を希求したいのなら、今この瞬間のあなたの半径10mの宇宙に存在する恒久的平和を、少しずつ少しずつ広げていけば良いのです。


見たこともない場所の漠然とした「詳しい情報」に踊らされずに。