2016年3月30日水曜日

一晩の神の手

色と色を重ね合わせる。
どうも判然としない。
心の中でしっくりいかない。

一晩経つ。

同じ場所を見る。

素晴らしいコントラストにはっとする。

明らかに、一晩のうちに何かが起こって、色が変化し、重ね合わせが違う色を生み出している。

溶剤が硬化したからなのか
それとも何かの科学変化が起きたのだろうか?

神の手だろうか?

何れにしても、その変化が、次の一手の大きなヒントになっていることは間違いない。
油彩における絵描きの一手はこうしていつも神によって助けられている。

2016年3月29日火曜日

新しい表現方法


2月の半ば、筆で感情に任せて描いたものの、この先どうしょうもないと感じていた絵に絵の具を垂らし、パレットナイフでごたごたしてるうちに、街の風景が出てきた。

これはと思い描き進めているうちに、とても良い感じに空気感というか、奥行きが出てきた。
最後に黒と藍と白で陰影や輪郭を整える。

意図とシャマンモードの一致。
久しぶりに来た。

この表現だ、欲しかったのは。

これを再生できるだろうか。

例えば同じような色が続く空、森、葉、地面はどうなる?
もっと洗練された陰影はできないか?

どこまで意図し、どこまでを神の意志に任せる?


アートとはイノベーションではなく、アート化することである

イノベーションばかり気にする自分と現代美術家達へ


アートとは、イノベーションではない。
アートとは、アート化することそのものである。

アート化するというのは時間というフィルターを乗り越えて長く広く大切にされることである。

それはイノベーションとはさほど密接な関係はない。

イノベーティブでなくとも、例えば価値の定まった定型的な工芸や日本画であっても、生まれて直ぐに芸術とされるものがある。それは、それが誰の目にも時代を超えて大切にしたいと分かるから。
それまでの歴史や文化の伝統が、アートをはっきりと定義付けているのだ。


その時代に「訳のわかんないもの」が、「これはアートである」と誰か特定の人物が宣言することでその場でアート化したりゴミになったりすることは決してない。

アートかゴミかの分かれ道なんてアーティストは考えて創作してはいない。

そこにあるのは衝動と美への探究心だ。
自分がイノベーターであらんとすることは悪いことではないが、そこを注視し過ぎると、道を見誤る。

その作品がアートかゴミかを判断するのは、時代をまたいでそれを見たり聴いたりして「おお!」と思う人々であって、それを担えるのは、時だけだ。
つまり、イノベーションよりももっと大切なことは、時の経過を想って創作するということである。

見た瞬間に特定の人物が、一般論として「これはアートだ!これはゴミだ!」と即断することはできないのである。

もちろんその大前提には、創作そのものがアートたらんとすることが必要だが。

時が経ち、残るものだけがアートとなり得る。それまでは「おお!」と思う人だけの宝物。あるいはエンターテイメント。その人の中でアートだと思えばアート。その辺は理屈じゃない。

「音楽であれデザインであれ絵画であれ、本当に良いものだったらちゃんと残る」と言ったデザイナーがいた。本当にその通りである。

イノベーティブなものとアートはイコールではない。

ダヴィンチやゴッホをイノベーターとするのは後出しじゃんけんのようなものである。彼らは突然変異でも何でもない。
ダヴィンチの前にはフィリッポリッピやドナテッロやベロッキオがいる。

ゴッホをしてアーティストたらしめたのは、ピサロやモネをはじめとする並み居る印象派の面々である。

一見、突然変異に見えるものでもよく見るとちゃんと長い前触れがあったりする。それは環境が要因になって起こる。
ある日いきなり何の前触れもなく人為的にイノベーションを起こしてそれがリアルタイムに広まるなんてことは、実はない。変化は常に順当だ。


それができるだけ「個」に近い力によって成されたものであればあるほど、アート化へのブースターは持っているのかもしれないが。

2016年3月28日月曜日

身を削る

精神的に追い詰められて、どうしようもなくなった時
シャマンモードのように、絵に逃げて
絵が光ることがある。

絵が描けなくて追い詰められて、絵が描ける。

悲しみや苦しみや、慟哭ではなく、身を削ってそれは生まれるのだ。

そう、僕は世界一の絵描きだ。

2016年3月25日金曜日

「雨上がり(After the rain)」


「雨上がり(After the rain)」
455x380(F8) / Oil on canvas / 2016 / Chihiro SATO

あんなに降っていた雨があがって
街はざわつきを取り戻した
日が差せば
冷たい足も
傷ついた心も少しだけ
乾いてくるのだ
変わるのだ

Rising up the rain
which had been so pain

Sunlight comes to a shuffle
Town regained up bustle

Little bit may change
the cold feet
to be dry

Little bit may change
the hurt heart
to try

240,000(仮縁付き)

2016年3月23日水曜日

メルセデス W123とW116

先日、ふらふらとほっつき歩くうちに、メルセデスのセミクラシック、W123,W116系で有名なショップの近くまで来ていることに気が付きました。
お邪魔してきました。


なんとなく日頃から「絵が積めるツーリングワゴン」を探してはいるのですが、やはり目が行くのはセダン。




グリーンメタリックのW123型。W123というのは、今で言うところのEクラスに相当するベンツで当時は「ミディアムクラス」と呼ばれていました。
1976年〜1985年まで作られていたメルセデス初めての普及型セダンです。

普及型といってもエンジンの排気量は2800cc。直列6気筒です。今はもうメルセデスは全てV6かV8になってしまいましたが、やはり直6エンジンは素晴らしいのです。

日本ではもちろん高級車。今の2000ccぐらいの性能しかないのですが、当時はかなりの高性能車です。

メルセデスが「ベンツ」と呼ばれていた時代。「理想のクルマ」としてドイツ車の神話を打ち立てていた頃のクルマです。
中東でトヨタや日産が走り回る前は、このミディアムクラスが広く普及していたのです。





今のベンツに比べたら本当にシンプルですが、日本に入ってくるクルマはパワーウィンドウ、集中ドアロックやエアコンは全車標準装備だったそうです。
写真のクルマは1982年式で、なんとエアバッグまで付いてます。
1980年型から装備しています。
ちなみに日本車でエアバッグが搭載され始めたのは1980年代終わり頃から。




ATは3速。

それにしてもシンプル。僕が昔乗ってたゴルフとそんなに変わらない(笑)
ゴルフより売れていた時期もあるそうです。
シートはファブリックとビニールレザーのコンビ。あんまり贅沢には作ってないのですね。

メルセデスをして曰く「我が社は高級車を作ってる訳ではない。実用車を作っているのだ」と豪語していたのがこのW123型です。



もう一つのクルマはW116。今で言うところのSクラス(当時もSクラス)。
同色なので紛らわしいのですが、違うクルマです。


ミディアムクラスより20cmぐらい長くて、幅もちょっとある。1970年〜1980年と、先のW123より一世代古いのですが、非常に良く似ています。
というより、このW116が最初にあって、それをコストダウンして普及版にしたのがW123です。


見分け方は、先のW123(ミディアム)の方はシングルバンパーですが、W116(Sクラス)の方はもう一つ小さなバンパーがライトの下についています。そしてトランクがやや長い。

ドアや小さな部品に至るまで、コストなんかそっちのけで作った感があって、ドアなんか金庫のように重くてしかも建て付けも素晴らしい。
このベンツのドア以上にしっかりしたドアはないんじゃないでしょうか。
これに比べたら今のベンツなんか紙並にペナペナです。
オートクルーズも付いてます。

ちょっと意外だったのは、シートの柔らかさです。
これ以降のメルセデスはかなりシートが固くて「ドイツ車のシート」に対する今の我々のイメージそのままなのですが、このW116はまるでアメリカのソファのようにスプリングがぼわんぼわんしています。
ヘタっているのかと思いきや、これが正常なのだそうです。
フィット感はありませんが体重をしっかり支えていて、柔らかいのに沈まない、不思議なシートでした。


「普段の足に使いたい」と言ったら、「問題なく使えます」と言われました。
ただ都内のユーザーの平均が年間5~6000kmだそうで、その倍は走る僕にとっては消耗度合いはもっと大きいような気もします。

それと、今の電気仕掛けのクルマに慣れた身にしてみると、あちこち手動でギコギコやる「コンフォートセダン」というのはやはりいろいろ我慢して乗る必要があるだろうなあと感じます。
これがスポーツカーなら当然なんてことないんですけど。

やっぱりW124あたりが自分にはフィットするのかなあ。



「早春」(In early spring)



「早春(In early spring)」
530x455(F10)/Oil on Panel/2016/Chihiro SATO

春の到来を告げるもの
暖かなもの、冷たいもの
やさしいもの、厳しいもの
雪解け、うねる波
希望、心のなかに抱えたもの
明るい、弱々しい
刻々と変わりゆく陽の光

The usher in the spring
Warm ones, cold ones
Friendly ones, tough ones

Thawing snow, undulating wave
hope, some of the mind
Bright, feeble
The changing light by the sun

120,000(仮縁付き)

2016年3月21日月曜日

絵の具の総量

今のところ
筆致の数または画面の分割量
絵の具の総量
色彩の変化の数
で、作品の完成度が測られている。
この全てが揃った時、満足度は高い。

このどれかが欠けても、なんとなくぼやけたり不満足だ。

2016年3月20日日曜日

描くしかない

画風のことを考えれば迷いが出る。
その時描きたいように描く。
筆致など気にしない。

構成はしっかりとやれ。
視点と構図。
そしてテーマ性はなるべく思い描いてからだ。

そのための構想スケッチはやはり重要だ。アイデアスケッチだ。
デザインと変わらない。

一つや二つのスケッチだけでそのままキャンバスに当て込むのは良くない。

10、20のスケッチを描いて、その中から一つか二つ採用されるかされないかだ。

6〜8号のキャンバスを用意する。なるべく上質なもの。

あとは無心に描く。

2016年3月18日金曜日

Cornel&Diehl Star of the East Flake



コーネル・アンド・ディール・スター・オブ・ザ・イースト・フレーク
使用葉:ラタキア、オリエント、バージニア
原産国:アメリカ
価格:2600円/56g

難しいtobaccoです。
そして個性的でとても味わい深いtobaccoです。

缶を開けると真っ黒なブロークンフレーク(フレークをほぐしたような状態)が現れます。
とにかく真っ黒です。そして非常に脆いのです。


とにかく黒く脆い。
指でつまみ上げると、ちょっと力を入れただけでモロモロと崩れてきます。
こんなに脆くていいのでしょうか。
うまくやらないとパイプが詰まってしまいそうです。

脆いので一見乾燥しているように思いますが、開封してからしばらく外気にさらしておいた方が火持ちは良くなります。
その乾燥がまたさらにフレークをモロモロにしてしまうのですが。

香りは酸味の強い発酵臭。
ラタキアが50%程度入っているとのこと。

注意深くボウルに詰めていきます。
詰め方は、なるべくゆるく、タンパーは使わず縦にフレークが並ぶようにするとうまくゆっくり燃えてくれます。隙間はピックで調整します。

序盤、ラタキアらしさはそれほどではありません。
粉っぽい渋み。
アメリカンブレンドに共通の、淡白さと辛味の少なさ。

ですが、スパスパやっていると突然舌を刺激するバイトが出てきます。
火が安定してきたら、なるべくスロースモーキングに徹します。
お手本のようなブローアンドドローが必要です。

そうすると次第に味わいが出てきます。
爽やかな甘み、ミント、コーヒーのようなコク、熟したワイン、トースト……。
いろんなヒントが出てきます。
それは喫い方によって、また喫う度に違う印象があります。

ラタキアらしさが出てくるのは中盤以降、次第にアロマにそれが現れます。
しかしそれはラタキアを主張するのではなく、極端にストーブされたオリエントとヴァージニアの下支えとして、ベースラインに徹しています。
あくまでも主体は喫味です。

燃え方は非常にゆっくりです。
ゆっくりでないとうまく喫えません。
そしてバイト(舌荒れ)が起きます。


このスターオブザイーストフレークは、あらゆるフレークに飽きた人に最適です。
ビギナーはおそらく寄せ付けないでしょうけれど
長年パイプに親しんできた人にとってはとても美味いtobaccoと感じられるでしょう。
じっくりとパイプと向き合える、新しいタイプのアメリカンブレンドのように思います。

サミュエルガーウィズにBlackXXという極めつけの葉(縄)がありますが、それとは味わいもニュアンスも全く異なりますが、「なんじゃこりゃ度」と征服感には似たものがありそうです。甘みがある分、こちらのほうが親しみやすいでしょう。

ニコチン酔いの心配は少ないですが、バイトに注意。
それとタンパーでがしがしやるとあっという間に煙道が詰まるのでそれも注意。

合う飲み物はウイスキーやコーヒー。


人は常に混沌の中から

人は常に混沌の中から現実を見出そうとする

分離したものから統合した光を見出そうとする

直感は過去の経験からの類推に過ぎない

その先にある潜在意識こそが重要である






2016年3月17日木曜日

技法の試行錯誤、長所と短所


点描ドリッピングは細かニュアンスや色彩の変化がある。
しかしこれだけにこだわれば絵が縮こまる。

ゆるい画液でのドリッピングは大胆なマッスが作れ勢いも増す。
しかし乾燥まで動かせず、時間とスペースを食う。

筆は下地と仕上げの調整には最適だ。
しかしそれ以外はなるべく使いたくない。
筆だけで描くのは絵を平坦にし、平凡にしてしまう。

ナイフは下地がしっかりすればマチエールや景色が現れて面白い。
ただ使いすぎれば荒っぽくなってしまう。


下地をまず大筆で単色で
乾燥
ゆるいドリッピングでおおまかなトーンを作る
乾燥
何に見える?

ナイフでトーンに変化をつける
乾燥
何に見える?

点描ドリッピングでトーンに細かなニュアンスを作る
乾燥
何に見える?
テーマが決まる

さらにナイフでイメージをはっきりさせる
乾燥
筆やナイフで細かい修正

今のところ、これがプロセスで一番インスピレーションとテクニックをうまく融合させられる技法だ。

2016年3月14日月曜日

絵を描くのが好きだって?

絵を描くのが好きでたまらないって?
描いてれば満足だって?

冗談じゃない。
制作途上の自分の絵を見るのは大嫌いだ。
なんでこんなふうにしかならないんだ?
何が面白くてこんなもの自分は描いてるんだ?
もうやめたい
もう潰して違うものを描こう
今日は描きたくない
どうして描けないんだ
もっとこうすればよかった
どうしてスラスラ描けないんだ?

新しいものが描きたい
こんなの使い古されたモチーフじゃないか
ありふれた絵だな
なんで自分はこんなにヘタクソなんだ

そんなことばかり考えて救われない気持ちを抱えたまま、身体と心をよじらせて、自分を絵の前に引きずり出す。
音楽をかけて、心を絵に向かわせようとする

他のことが出来るのか?
あの仕事もこの仕事も、そう、放り出して絵にかけたんだ
お前には絵しかないじゃないか

そう、絵しか残されてないんだ
絵を描くことでしか自分を表現できないんだ

ここさえ描ければ、うまくいくのに

そうして何度もなんども描いたり消したり上塗りしたりしていくうちに
ある日、じっとその絵と向き合ってる自分が出て来る。

静かに、心穏やかに
絵に何かを語りかけている自分に気がつく。

この絵でよかった
これを描いててよかった

もうこれはこれでいいじゃないか

サインしよう

これが今の自分なんだ

また次に頑張ろう
これはこれでいいじゃないか
絵を描いててよかった
ありがとう
神様
僕に絵を下さって

その繰り返しだ
それが絵描きだ

描くことが好きで好きでなんて
僕には口が裂けても言えない






2016年3月12日土曜日

ライブペインティングというもの

ライブペインティングが大流行だ。
大元は出版社主催の漫画家のイベントのようだ。
集客にもなるし、観客も喜ぶ。

即興で描いていく姿、あるいはいつもの制作行程をじかに見られるというのは、鑑賞者にとっては興味のそそられるものであり、そうそうお目にかかれないので貴重な体験になることだろう。

作家にとっても、特にオーディエンスによって感性が刺激され、パフォーマンスにインスピレーションやモチベーションが刺激されるタイプの作家にとっては、面白い体験ではないかと思う。

さて、自分にとってはどうかと振り返ると、残念ながらライブペインティングはおそらく成立しないと思う。

実際にライブイベント…どころか人前で描いて見せたことすらないので、何とも言えないのだが、おそらくモチベーションだけはかなり刺激されると思う。

だが、心のどこかに「うまく描いてやろう」とか「褒めてもらいたい」という意識が働くと、僕の絵はダメになる。この邪念を人前では振り払えないと思う。

結果的には作品はほめてもらいたいし、ほめてもらえるほど鑑賞者の感性を刺激するのでなければ意味はないのだが、制作の瞬間にそれが意識上に上ってはいけないのだ。

途上でどうやって絵や絵の対象と向き合ってきたか、どれだけ内観してきたかが、僕の作品の場合は如実に画面に現れてしまう。

描いてない時間も大切な制作のプロセスだ。
考えこんで何時間もぼんやりしている姿はオーディエンスにとってもあまり面白いものではないだろう。

描いてない時間を自分の中で昇華していくには完全な静寂と孤独がなければならない。
氣が渦巻いたり淀んだりしてはこまる。

鍛錬が足りないと言ってしまえばそうなのだが
一人で篭って描きたいというのはおそらく今後も変わらないだろう。
なかなかめんどくさい。

ライブパフォーマンスとしてではなく、制作工程の途上を見せるとか、僕の知らないところでのぞき見する分には構わないかな。



2016年3月11日金曜日

芸術のルール

ファインアートのルールって、そんなものないという人もいるんだけど、長いこと見て考えてやっぱりルールはあるように思う。

音楽や演劇のそれに比べたらとてもゆるいし観念的ではあるけれど。
それは遊びのルールにも似ている。

神に委ねる一手というのがある。
人の意図の限界は低い。
神の意志がないとそれは完成しない。
でも人の意図がないと神の意志は働かない。

明確な意図。人智を超えた結果。
この2つが矛盾することなく同居するものは
音楽でも演劇でも絵画でも、素晴らしい。

2016年3月8日火曜日

芸術絵画は、人間と神の合作である

芸術としての絵画は、人間と神の合作である。

強烈な作者の意識やテクニックによる筆運びと共に、神の意志〜それを人は往々にして偶然と呼ぶ〜が描く線や色がなくてはならない。

その境界は曖昧であり、どこからが人間の所業であり、どこからが神の技であるかの判別は難しい。

しかし結果として現れた絵には、神の技としか思えない美しさ、凄みがある。それは作者自身にも意図しなかったものである。

では神の領域、つまり人々の言う偶然性に任せたらそれは芸術としての絵となり得るか?

ならない。

神の技は自然であり、自然の美しさであり、そこに人間の解釈の余地はないからである。
それは作者のある絵ではなく、現象である。

故に行為のみ人間が行ったとしても、結果そのものを偶然性のみに頼った絵画というものは成立しない。

画面を構成する要素はあくまでも人間が担うのであり、その途上にて神が宿るのである。

意図から始まり、神で終わることもある。
神から始め、意図で終わることもある。
神から始め、意図で進み、神で終わるのもある。

一番良いのは、神と意図の交感で進み、神で終わる絵。

そのためには制作の途中で神に委ねる時間と作業が必要なことがある。

描き進めた絵に神を宿すために、敢えて意図とは違う作業を行う必要がある。

そしてそこにまた作者の発見が起き、意図が始まる。

最後にまた神が仕上げる。

この繰り返しである。

神が宿るために必要なことは、作者の絶え間ない探求と行為のみであることは言うまでもない。

中古車が好き

中古車屋さん巡りが好きです。
話題の新車を見にディーラーにもよく行くけど、やっぱり中古が好き。

新車にはない独特の雰囲気。

もちろんオンボロは好きじゃないです。
キレイで古いのが好き。
でもキレイなだけじゃダメなんだ。
2年落ち3年落ちなんてのはてんで興味がない。
改造車もダメ。アメリカ風のレストアもいただけない。
古いのにやけにピカピカしてるのも違う。



新車の頃の姿から、次第に熟成し老成していく時間というものが、クルマにはあると思っています。

やれつつあるのに、新車の頃にはなかった風格が出てきます。
これは同じクルマであっても、あるのとないのとがあるのです。
走行距離じゃない。
年式じゃない。
性能じゃない。
ボディが輝いてるかどうかじゃない。
キズがあるかないかではない。

顔を見ると分かる
座ってみると分かる
エンジンをかけると分かる
離れてみると分かる「氣」

僕はこれを日頃「佇まい」と呼んでいます。



大切にされてきたクルマは、何かが宿っている。
まだまだ働けるのに放置されているクルマは何かを訴えている。
十分に働いたクルマは、自らの命を終えようとして、鼓動が消えつつある。

「こんなところに、こんな名車が!」ということもあります。
現行の頃はつまらないクルマだなあと思っていたクルマがやけに光って見えることもあります。
クルマ屋さんが命を吹き込んだクルマもあります。

そんな佇まいのクルマに出会うと、クルマ好きの血が騒ぎ出します。
どれも欲しくなります。
そして「これ買う!」と言いたくなります。



2016年3月7日月曜日

芸術家の頭脳

のらないからといって筆を休めてはならない。
1時間でも1分でも、絵の前に座り、絵と向き合え。

時間のない時でも、ある時でも、健康な時も病の時も。

描きたいからといって、絵の前にへばりついてはならない。
1時間でも1分でも、世界を見、世界と向き合え。

時間のない時でも、ある時でも、健康な時も病の時も。

芸術家の頭脳は、そうやって磨かれる。

2016年3月4日金曜日

「夏の日」


「夏の日」(A summer day)
530x455(F10)/Oil on Panel/2016/Chihiro SATO

たくましく、燃えるようにいきる。
夏の終わりの夕暮れの
葦が生い茂る小さな川のほとりの思い出

「夏の日」(A summer day)


「夏の日」(A summer day)
530x455(F10)/Oil on Panel/2016/Chihiro SATO

たくましく、燃えるように生きる
夏の終わりの夕暮れの
葦が生い茂る小さな川のほとりの思い出

160,000(仮縁付き)





2016年3月3日木曜日

芸術的魂柱

絵に、具象も抽象もない。

ただ残念ながら現在の抽象や現代美術の多くの手法には限界がある。
鑑賞を人間の理性か無意識という、幅の狭い無個性なものに頼りきっているからだ。
抽象の鑑賞は簡単だ。
ほぼ一種類しかない。
それが純粋に「成り立つものである」とするか否かである。

だがそれは現代音楽にも似ていて、数見ているうちに、段々個々の区別がつかなくなってくる。

おそらく抽象を描いている多くの作家は、無意識というものに頼りきって線を描いているのではないだろうか。
それを補完するように分析的コンセプトを付け足しながら。

ただ「だから絵には説明は要らない」と勘違いしてもらっては困る。
説明がなければ、さらに鑑賞者は途方にくれ、無意識でしかその絵を見ることができなくなる。

無意識でしか見ることのできない絵はつきつめれば無個性であり、共感性がなければゴミになってしまう。

丸を描くだけではダメだし、丸に見えるだけでもダメだ。
一体全体、なぜそこに丸があって、その丸はなぜ丸で、なぜその色をしているのかを、描き手は説明できないといけない。

実際に説明するかどうかは別としてだ。説明のための手稿は準備しておくべきだ。

禅画は禅の思想があるから禅画なのであって、それだけでは存立しないのと同じである。

故に抽象の理論的構造は、絵の中ではかなり重要性が高い。
高いが故に絵の独立性の限界が低い。

その限界を破った時、抽象はもっと新しい芸術の世界を切り拓けるだろう。


絵が立つためには、神の意志がどうしても必要だ。
神の意志が宿るには、理性的コンセプトや無意識に訴えるものだけでは不十分である。

それ以外に「芸術的魂柱」がどうしても必要である。
芸術的魂柱によって初めて「響き」という目に見えない神の意志が高らかに奏でられる。

芸術的魂柱とは、魂の共感である。

例えば具象の場合、緑色の筆跡が葉っぱに見えれば人は安心する。
かなりデタラメな線でも、その中に目や鼻があれば人はそれを人として認識して安心する。表層的共感である。

そしてその中に自己本来の共感の何かを見つけようとする。
表層の共感から深層の共感へ。
その橋渡しをするのが「芸術的魂柱」である。

この場合、葉っぱそのものが魂柱として機能するのではない。
葉っぱであると認識した鑑賞者が、共感によってそこに隠されたものが「確実にある」と信ずるに値するファクターである。

葉っぱに意味があると思うからその意味を探る。
意味の分からない線に「意味がある」と強制的に思うのは理屈であって、共感はそこにはない。共感のないものに意味を探るのは非常に難しく、また苦痛である。

それは別に高尚なものでなくてもよい。モラルに則ってなくても良い。
もちろん高尚でもよい。しかし高尚かそうでないか、モラルかインモラルかは人間の決め事であり、神の意志とは関係ない。

優れた絵、つまり神の意志が宿った絵には、共感がたくさん詰まっている。


現代の抽象は得体のしれないフォルム、またはアンチフォルムを「こう読み取る」という説明を強制されるか、完全に丸投げかの双極のために、自己の体験や深層心理に重ね合わせた鑑賞ができず、理性もしくは無個性の潜在意識によってのみ理解せざるを得ない。
つまりはどちらにせよ解釈は結局のところ受け手に丸投げなのだ。

丸投げということは、見る者の神へのアプローチも相当に難解になる。というか響く確率は非常に低くなる。

魂柱を自分で用意しなければならない芸術は芸術としてかなり片手落ちである。


葉っぱの形の訳には、描き手が強烈に込めた意味と、描き手も気づいていない真実がたくさん隠されている。そこに神の意志が宿っている。
つまり、絵は二重構造なのだ。

書き手の強烈な意志による、描画の動機と筆跡。そしてそのコンセプト。
これはハッキリしている。
見る者は見ることによって絵を鑑賞する。
作者のコンセプトを知って理解を深める。
共感が深まる。
さらに絵に宿る描き手のコンセプトを超えた絵の本当の意味、つまり神の意志がある。
見る者は直感や潜在意識、そして更にその奥にある魂によってそれを感じ取り、作者のコンセプトを超えた理解や解釈をする。

それを結ぶのが、芸術的魂柱である。



上手い絵がキライな訳

デッサンを全くやらずに絵描きになるのもどうかとは思うが、デッサンを鼻にかける絵描きはそれよりももっと好きじゃない。
絵に、俺は上手いだろう?というのが透けて見える。デッサンに頼った絵は鼻につく。表層的で絵の深みが落ちる。

上手い下手を言ってるうちは絵は立ってこない。

絵は神の意志だ。
神の意志はオーラに現れる。
オーラをまとう絵には神が宿っている。
神が宿っている絵は、デッサンが上手くてもそうでなくても、絵そのものが立つ。

神はテクニックには宿らない。
テクニックを超えた場所に宿る。