2023年5月14日日曜日

フィルム写真の表現ベクトルが…


 巷ではフィルムカメラのリバイバルブーム、僕も去年ぐらいから再びフィルムカメラで写真を撮り始めています。

使っているフィルムカメラは1950〜1970年代に作られたマニュアル機種が中心です。


撮るものの明るさに合わせて露出を合わせ、シャッタースピードを選び、そしてピントを調節しないとちゃんと写りません。そんな不便なカメラです。


1990年代ぐらいまでならフィルム写真は生活の一部として当たり前でしたが、仕事でデジタル一眼を使うようになってからは、すっかりデジタルに取って代わられたかのように思って放置したり処分してしまっていました。本当にご無沙汰でした。


「ちゃんと写って当たり前」のiPhoneやデジカメから、設定や操作をちゃんとしないと写らないフィルムカメラを久しぶりに扱ってみて、いろんな発見があり、改めて絵画と写真のことについて思いを馳せています。


絵画と写真の関係は古く、19世紀中頃から20世紀初め頃までには既に、肖像や記録など、それまで絵画が担ってきた実用的部分の多くを写真が取って代わられようとしていました。


このままでは「絵画の存在意義がなくなるのではないか?」そんなアーティスト達の危機感の中「写真にはできないことをやろう!」と奮起して生まれたのが、写実から離れた印象派であり、抽象絵画や表現主義、抽象表現主義と言われています。


今ではそんな古典的対比などは遠い昔の事になり、写真は写真、絵画は絵画の存在意義をしっかりと確立しています。


そればかりか、写真はデジタル化し、アートはCG全盛からさらにAI進化大爆発の時代へと進み、写真も絵画も、彫刻でさえも、もはや手業そのものが存亡の危機に瀕している言っても過言ではないかもしれません。

手業に一体どんな意味が込められるのか、アートそのものの存在意義が再び疑念の霧の中に迷い込んでしまったようです。

新しいテクノロジーの登場による危機感と閉塞感。人間の意識の変革を余儀なくされる状況。アートだけではないですが、アーティスト達を取り巻く環境は1800年代末ととっても似ていると思います。

話を戻します。
フィルムカメラを使っていて面白いのは「絵画と写真」を比べながら撮るのではなく「デジタル写真表現とフィルム写真表現の違い」に主眼を置いてファインダーを覗いている自分に気づいた事です。

はじめのうちは、軽く

「やっぱりフィルムは面白い」

そのぐらいに思っていました。


でもフィルムの本数を重ねていくうちに、次第に頭の中にもやもやするものが広がっていくのを感じました。

どうも失敗した写真のほうが面白い。


それは昔なら「ヘタクソ」とか「ダメカメラ」と言われたもの。


逆に、80年代のように…つまりきれいに撮ろうとすればするほど、つまらない。


僕自身は、平面による表現……絵画(水彩、油彩)、写真(デジタル、フィルム)、CG(ベクター、ラスタ、3Dモデリング、レンダリング)の全てのスキルを一通りやってきているので、それらの区別は「画材と結果の違い」ぐらいに思っていました。そして

「自分はいざとなれば何でだって創造表現できる」

という一本ベクトルの自負みたいなものすら感じていました。

普段、私達はデジタルもアナログもどちらも「同じ写真」として見ます。ところがいざ意識して表現を始めると、両者(フィルムカメラとデジタルカメラ)は似て実は全く非なるものになります。覗いてシャッターを切る世界は全く同じでも、現れくる世界観は全くの別物になることもあります。そこに意識を集中して撮っていくと、両者の世界観には大きな違いがある。


デジタルとフィルムで撮れるものの範囲は重なってはいるが(しかもそれらの多くはデジタルが圧倒的に凌駕しカバーする)、デジタルではどうしても表現し得ない、つまり両者が全く重ならない部分も未だにかなり多いんじゃないか?ということに気が付き始めました。


これって、写真と絵画の違いにそっくりじゃないか!


ダイナミックレンジの問題ではなく、表現し得る色、空気感、間合い……つまり「自分が見ているものとは何か?」という、表現ベクトルが全く違うのです。


画材の違いは結果の違いを生み、それは表現の世界観まで変わります。鉛筆でしか表現し得ない世界、絵の具でしか表現し得ない世界……。


僕も「写真では絶対に表現し得ない表現」を追求しているうちに「水晶」に出会いました。写真やCGで表現できるものは、わざわざ油彩で表現しない。僕のずっと変わらない矜持です。カッチリしたスーパーフラットは油彩で表現するよりアクリルや、あるいはイラレ(Adobe Illustrator)で表現したほうがずっと良い。


ところで、デジタル写真はフィルム写真のダイナミックレンジなどとうの昔に易易と乗り越え、ときには肉眼さえも超えています。


ところがそうなればなるほど、フィルム写真にも、デジタルカメラが逆立ちしても決して捉える事ができない空気感、感情の機微の表現があるということがわかってきました。単なるノスタルジーだけではない、アナログにありがちの不思議な空気感。いや、本当のところフィルムによって本当は一体何が表現できるのか、析出できるのか、まだまだわかりません。可能性は全くの未知数です。

ただ、フィルム写真全盛の時代はあまり顧みられず「失敗」と片付けられていたものが、まだまだ眠っている気がします。

実際、新興のフィルムメーカーは、以前には考えられなかった「色転び」(CMYKのどれかに極端に偏った色の写真になること)や極端なコントラストを意図的に作り出すフィルムなども発売されています。

とにかくフィルム写真はデジタル写真に取って代わられるのではなく、デジタルでは表現しきれない独自の表現世界を構築していく段階にある。印象派前夜の油彩のように。
そうチャンネルを切り替えてフィルム写真と付き合わないと、フィルムと付き合っている意味がないぞ…と。

そう感じています。

アーティスト目線でいうと、絵画〜写真〜CGは、描画や表現方法の違いのみならず、それぞれによる独特の世界観表出の結果同士が、お互いに影響し合いながら補完し、自分自身の意識そのものを変革させてそれぞれの表現方法に影響しています。そこにフィルムも加わった…のです。


前世紀の(写実を一心不乱に目指していた)フィルム写真全盛期にはちょっと考えもしなかった事です。前世紀は「写真」とはフィルム写真のことであり、無邪気に「絵と写真は全くの別物」として考えて良いのでした。

だから、シンプルに自分は表現するのに絵筆を持つのかカメラを持つのかを選択するだけで良かったのです。

けれども、デジタルが当たり前になり、肉眼や視覚を超えた表現までを写真が担うようになった今、フィルム写真で捉える世界は、それとは異なる、いわゆる従来の概念でいうところの写真とは違う分野を担う可能性を秘めている、と感じるのです。