私たちの思考や言動の殆どは、外界からの刺激に対する反応に過ぎません。
その時に起きる身体や外界に返す信号(波動)が「氣」です。
氣は一度生まれ外界に放出されると、新しい刺激によって変質しない限り
そのまま他の人や自然界に新しい影響を与えます。これがカルマと呼ばれるものの一形態です。
見知らぬ誰かを幸福にしたり、不幸にしたりする力をも持っています。
例えば、一人ひとりの氣が良い国は栄え
あまりよろしくない刺激を呼び起こす氣が充満している国は衰えてゆきます。
富の氣を充満させた国は発展し、貧の氣を充満させた国は衰退します。
喜びの氣を充満させた国は居心地がよく、怒の氣を充満させた国は荒れます。
しかしその氣の最初の出所は、自然現象であったり、気候であったり、地の氣であったりします。それは引いて言えば、宇宙の、天体の動きが元になっていたりするかもしれません。
最終的にその刺激を受けて、もっとも大きな氣を発し、人間が生きる「場」に充満させるのが、人間の魂、精神です。
どんな人も、この氣の刺激から逃れることはできません。
例えば、これはちょっと政治的な話ですが、日本を嫌いな国があったとします。彼らの国の言い分は「日本が過去に自分達に悪いことをしたから」というものです。しかしその大半は事実ではなく、むしろ実際に彼らが受けているのは、自国に住む自分の仲間達の「怒」の感情であり、「貧」の感情です。それはもはや憤怒に近いものですが、それが自分達に向かわないように、外部に排出しよう排出しようとする、言ってみれば自浄作用の一種の様な事になっているわけです。
しかしこの感情、氣の渦巻きとて、元々は彼らの人間性云々のせいではないのです。
この氣を呼び起こす氣の大元が、どこからやってくるかというと、自然、地の氣、天体からなのです。
民意、民度はこうして醸成され、戦争とは、こうして起きます。
日本は、風土的に元々持っている自然の氣は決して悪くはありませんが、地理的にはその憤怒を受けやすい条件にあります。ですから刺激も激化しやすく、氣の渦巻きも、一度起きると大変な事になりがちです。
救いなのは、台風や偏西風が、東の洋上に常に抜けて行ってくれるという点です。台風が少ない年は、逆に氣の滞りに気を付けなければならないかもしれません。
そうしてもう少し自省的に言うならば、もしも私たちが、日本を救い、世界を救いたいのなら、まずは自分自身の反応、言葉、氣を発するこの装置そのものの扱いに十分に注意しなければらない、ということです。
良い氣、望ましい氣は、その瞬間瞬間の人の充実感、歓喜への渇望から生まれます。
それは人の氣の中でもっとも強く激しいもので、周囲に対して、日常与える氣の力の何十倍ものエネルギーを持っています。
日本が世界に誇る文化や志向とは、このような「氣の変質」によって生まれました。
良いものはすぐに日本の氣となり、そうでないものもどうにか変質化してよきものにかえようとする努力。
怒を怒で返してはなりません。
それでは彼らに同化してしまうでしょう。
そうして先の大戦は起きたのです。
怒は私たちと無関係の氣の流れから生まれたエネルギーです。
それがカルマとして渦巻くのを放っておくのではなく、歓喜によって自分達のエネルギーにし
私たちはさらに発展、繁栄することができます。
外界から刺激を受けた時に、それが例えばもしもよろしくない氣だったとして、それに対してダイレクトに「怒」や「悲」を感じる氣だとします。
もしもここで、ダイレクトに外界にその反応を返すことはごく自然なことですが、しかし大きなカルマとなって充満し始めます。
もしもそれをテクニックや努力によって充実感や歓喜に変えるためのエネルギーにできるとすれば、外界の良くない氣は浄化され、変質され、何十倍もの強いプラスのエネルギーとなって私たち自身や外界に帰ってゆきます。
それは一体どのようにして可能になるのでしょうか。
それは、私たち一人一人が、「瞬間」に意識を集中して、今を生きる事に他なりません。
私たちは未来を向いて生きています。そして過ぎ去った過去を記憶しています。この事自体はとても素晴らしい事です。
しかしそのせいで、「今」という瞬間をまるで未来や過去の従属物のように扱う傾向があります。
それ故、目の前の事をおろそかにしたり。意味なく立ちはだかるものに顔をしかめてしまう傾向があります。
しかし未来を司るために、、、というよりも、将来、自分に望ましい氣が到来し、カルマの浄化が行われ、未来を幸福に、歓喜によって生きるためには、「今この瞬間」、私たちは自分を燃やし尽くし、毎日死ななければならないのです。
こうすることによってのみ、人間は生きるという行為を自分から発信してゆけるのです。
これはパラドックスのように見えます。
一回のブログでは到底説明できませんので、今は象徴的な2つの言葉でそれを代弁しようと思います。
ローマの諺、名言の中に、とてもとても有名で、私も大好きな言葉、座右の銘と言っても良い言葉が2つあります。
ひとつは、メメントモリ(MEMENTO MORI)と、いう言葉
「死を覚えておけ」つまり、人はいつか死ぬのだから、今を精一杯に生きようという意味です。
帝政ローマのことわざであるだけに、日本では何故か刹那的に生きろと誤解して解釈されがちですが、全然違います。
その瞬間瞬間を、全身全霊を込めて、有意義に生きる大切さを言ったものです。
日本人は特に、安寧を求めるが故に「今苦労しなければならないのだ」と思いがちの人が多いのです。
しかし、もっと大切なことは、「今、この瞬間を歓喜と全霊によって生きること」だけが、幸福な未来を作るという真理です。
もう一つの言葉で言えば、カルペディエム(CARPE DIEM)。
意味は「その日を摘め」
つまり「未来や過去に何かを託すのではなく、その日を生きなさい」という意味の、ローマ時代の詩の一説です。聖書にも出てきます。
「今を生きる」という邦題のついた、ロビンウィリアムス主演の映画にもなりました。
この2つの言葉は、「今」というものの大切さを強く訴えています。
重ねて言いますが、今を生きるということは、一時的快楽や安寧を求めよという意味ではありません。
それらも大切です。しかし本筋ではありません。針が振り切れたものの見かたです。
今が良ければ未来も過去も考えなくて良いという事でもありません。
今が良ければ未来もよく、過去もよく、今が辛ければ未来も過去も辛いのです。
であれば、今をしっかりと「良くする」ことをすればいいのです。
刹那を生きる、今を生きるということは、今の自分が、いつ死んでもいいように、目一杯の可能性と目一杯の歓喜を持って、味わい尽くし、生き抜く、という意味なのです。
何かをしている時に、明日の心配をしてはなりません。
明日の心配のために、今していることを無意味と思ってはなりません。
あなたが無意味と思えば、この瞬間はあっという間に無意味になってしまうでしょう。
それでも神様は、そうならないようにどうにかあなたを押し留めて、今日のどんな行動さえも、明日の何かの結論に結びつけてくれようとはしますが。
もししたいことがあるなら、「今」してください。そして、歓喜を味わう覚悟をしてください。
あなたが実際に味わうべきなのは、未来のための苦悩ではなく、常に今この瞬間の歓喜なのです。
疲れて眠ることさえも、否定せずにとことんやってください。
眠ることは死であり、再生です。
目が覚めたら生まれ変わります。
そうして「今」の氣を浄化し、歓喜に変えることこそが、全体の氣の流れを変えることにつながります。
そうして怒に対して怒で返す何十倍、何百倍もの圧倒的な影響力で、怒の正体を屈服させることができるのです。
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