哲学研究者の間ではとっくに解決している問題なのかもしれないが(サルトルとカミユの論争は知っている)、一般人にとっては、今まさに旬として、カミユの不条理という概念に翻弄されている様に思う。
人間は本来の人間性の発露であるはずの自由を求めて自由になろうとすればするほど、不条理と名付けられたものに自由を奪われている。
けれども、不条理と名付けたものは、本当に自由の敵なんだろうか?
都会で成功した二人の若い男女が、田舎に里帰りした。二人の服装は都会では華やかで美しいが、田舎の田園では派手で裸みたいでおかしな格好だ。そのうち「あそこのガキが都会さ行っていきがって帰って来た」という様な噂が立つ。
笑いものになった若い二人は、田舎に錦を飾るどころか、田舎の閉鎖性や噂好きに辟易し「遅れている」「田舎者!」などと悪態をついて都会へ帰ってゆく。 これは病的な現象でもなんでもなく、全世界の全ての世代がどの時代においても必ず体験してきた普遍的「不条理」の一場面である。
実はこの手の不条理というのは、高邁な自由と引換にしているように見えて、実は単純に「処世術に対する不明」が招いている結果にすぎないという事に気づく人は少ない。
自由を分析的に突き詰めていくと、この点が見えなくなってきて、自己の無限大の自由と引換にするものを探し求めて帰納しようとし始める。
これは、無限大の経済力と引換にすべきものは何か?を探し求めるようなもので、実に無意味だ。人間には無限大の経済力も無限大の自由も必要ではないという観点が、西洋の分析的哲学には欠けている。
日本には仏教などの影響から「ほどほど」「中庸」という概念が浸透している。「足るを知る」というのもそうだ。この観点では、無限大の自由という事自体があり得ない。ただ、これも諸刃の剣で、自由の程度を状況や他者の視点から勝手に規定される危険性を帯びてはいる。
先の男女の若者には、田舎の親兄弟がいる。彼らとてその親兄弟に褒められたくて、あるいは親孝行したいと思って帰って来たに違いない。都会では華やかで自由で生き馬の目を抜くような生活をしていてもだ。それは人間の二面性である。
人間には必ず二面性がある。どんな人にでもある。そこを無視し一つの現象「自由」というものだけを分析肥大化させていくと、田舎に帰る時はほんの少し親孝行できる服と化粧で帰れば?という、単なる処世術の問題が「自由に対峙する不条理」というような遠大な話に変化してしまう。滑稽。
彼らは、都会の色に染まってはいても、優しさや故郷を捨てた訳ではない。生き方に少年時代には持ち得なかった自由と闘争を都会で身に着けて来た。それをお披露目したかっただけなのだ。
しかし、彼らも含めて現代人はみなこう言う。「田舎には自由がない」と。まるで深刻な不条理の問題に直面し、息の出来ない状態が起きているように感じる。しかし、現代の田舎で起きているのは、自由や因習や不条理の問題などではなく、人間の二面性の否定の問題である。
この二面性の否定は、僕はヨーロッパ人やアメリカ人が持ち込んだ価値観であると断言する。実に非哲学的で野蛮な思想である。元来日本人は人間の二面性を許容して生きていた。
どこまでも良き人、誠実な人、品行方正な人を目指して、陰の部分やうしろめたい部分をなくして生きると、その人間は必ず破綻する。「そんなことをする人には見えなかった」と証言されるような犯罪を犯すか、自ら死に向かう。
日本人や哲学的哲学的東洋人は、そのことを昔から知っていた。人間には善も悪もある。どちらかだけには成り得ない。だからどちらもほどほどに持っていればいいと。
自由とはどこまでも肥大化させる程の価値はない。むしろ人間の二面性を認めてしまえば、自分の居心地の良さのためにどれほど自分の自由を費やそうか考えられるようになる。
そして元来、日本人にはその二面性を許容できる社会的メンタリティが備わっている。ヨーロッパやアメリカに比べると、ちっとも窮屈なことなんかないのである。
まあ、要するに、心底いい人になる必要もなければ、他人の目を気にする必要もありませんよ。ってことです。
※Twitterに書いていた事をそのまま転載しているので、表現不足で分かりにくい部分があるかもしれません。気がついたら後で加筆修正します。
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