2015年11月17日火曜日

本当に幼稚なのは日本人だろうか

パリだけが友達で、アレッポは違う生き物か?

「祈るとき、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ書)


「テロを憎む」というフレーズは、我々を思考停止に追いやります。

しかし憎むべきものを作り出したのは誰か?


本当のテロリストは誰か?

もしも悲しみが本当に友人だけに注がれるのが自然で、見知らぬ人には注がれないもので、その本能をコントロールできないのだとしたら、やはり我々は敵と味方という括りからは永遠に逃れることはできないのです。

本当に幼稚なのは日本人だろうか?

友人から聞いた、立川談志の話。

(以下引用)
『師匠立川談志の死去に対して、弟子の皆さんは明るくテレビに出てましたね。司会者が「弟子の皆さんは一人も悲しんでいませんね」と問いかけたらその弟子の一人が「はい。泣いたりしたらそれこそ師匠に叱られますからね、この偽善者め!って」と言ってました。談志さん生前から「業の肯定落語」なんて言ってましたから、さすがそのお弟子さんたちですね。落語に出てくる人たちが江戸時代の日本人というわけでもないでしょうが、みんな仲よく、業を肯定した上で、さらに、それを言っちゃーオシメエよ、みたいなルールもあったんでしょうね。
(以上引用)


「業の肯定」

そこには全てを認めるという寛容と慈悲の魂がある。
まあ、こんなだから日本人はのんきだとか言われるのかもしれませんが、宇宙的普遍的な直観は少なくとも感じる。


貿易センタービルにせよ、真珠湾にせよ、西洋人は「問題の発端はココだ!」という風にリセットしちゃって洗脳するのがやたらとうまい。
それが「悪の皆殺し」を肯定する。
それを喜んでる連中が確実に存在する。
それに安々とのせられたくない。のせられてはならない。

ハッキリ言います。
哀悼のパフォーマンス流布は洗脳の片棒を担いでいます。

哀悼は人として自然な感情です。
それを利用してやろうというのがいる。

人の痛みを自分の痛みのように感じる。
悲しみは怒りに簡単に転嫁する。
そこを圧してお互いの立つ瀬や許しや取り込みや共存や和解もあろう…と考えるのが日本人のお人好し。

もちろん今、ISISにそれをやっても意味はない。
戦うしかおそらく選択肢は残されていないでしょうね。
思う壺ですが。

ただ、本当の敵はISISじゃない気が僕はする。
あれはただの木偶。
ISISと我々は、ただ戦わされているにすぎない。
この連鎖を止めるために、どの時点、どこかに日本人特有の「慈悲」や「寛容」を使わないといけない気がすごくするのです。

まあ、ユダヤもイスラムも西洋人も「迫害されたら皆殺し」が共通の宗旨ですから慈悲もへったくれもないでしょうが。

ISISはどんなに叩いてもどんどん湧いて出てくる。
今の西洋人を映している鏡です。

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