2022年1月26日水曜日

ポストコンテンポラリーへのヒント

マルセル・デュシャン以降のコンテンポラリー(現代)アートにおける最大の弱点は、意識的にせよ無意識的にせよ、結果として見る者の思想の文脈を規定してしまっているという点にあると、常々僕は考えています。

作家のコンセプトが明確であればあるほど、その枠組みの中で解釈しなければならない、背景に流れるコンテクストを知っていなければならない、それを分からない者は排除される、鑑賞者に感性の自由が許されないという、美の追求という人間の意識進化にとっては歴史上類を見ないほどの途轍もなく大きなハードルを抱えているのです。

「これはなんだ?」という鑑賞者の疑問が、「なるほどそういうことか」に至るまでの過程が作者の敷いたレールから外れることは許されない。作者の思う通りに思考し、思う通りに意識を変革しなくてはならない…

このことは作家の哲学、経験、思想が常に鑑賞者の意識を啓蒙出来るほど先進的で優れていなければならないことを意味します。

しかしアーティストとはそんなに優れた人たちなのでしょうか?私はそうは思いません。

私の知る限り、例えば環境問題の啓蒙を試みる作家の多くは、その主張が一方的な視点でしか物事を捉えることが出来ずに自己矛盾を抱えたままです。
アート以前に、物事を論ずるために持つべき基本的な知識や論理的思考が圧倒的に足りないのです。

そういう状態で作られたアートが持っているメッセージ性は、特定のカルト的な考えを持つ人々には強く受け入れられることでしょう。しかし広い世界の目で見れば一過性の錯乱に過ぎません。

そして何よりそれらに共通している致命的な欠陥は、時代や主張を問わずに残されるはずの「美しさ」が欠如しているという点です。

普遍的美しさを広く訴えることのできないマテリアルは、時代の現象としては記録されることはあっても、美としてはカウントされないのです。

「なんだこれは」という違和感の先にあるものが「美しさ」「美」「愛おしさ」ではなく、「作者の企図」のみであり、それを理解しないでは作品を通じた顕在意識化というたった一本の道さえも見つけられない…というのが現代アートが約一世紀に渡ってたどり着いた荒野であるというのは言い過ぎでしょうか。

そういうものを継続的に見せられている「大衆」は鑑賞者としての価値観、感性に常に自信が持てない状態を強いられています。
アートを見るたびに不安感を抱くようになっていると言っても良いかもしれません。

この現代アートの荒野から、本来全ての人が持っているはずの美への感性を取り戻す、救出、救済を試みる、というようなテーゼだけでも、僕はやりがいのある「抵抗」ではないかと思っています。





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