現代アートにおいては、アーティストのあり方の理想像はビジョナリーです。
ビジョナリーとは、先見の明、新しい価値観、世界観、変革を起こすビジョンを持つ人のことです。
それを視覚的な、あるいは聴覚的な作品に起こし、見る人(鑑賞者)に新しい視点の地平を提示できるということが、アーティストとしての理想のあり方でしょう。しかし、その理想は時として「見ただけ」では瞬時には理解できないことも多かったりします。
何故かというということは後述しますが、鑑賞者がアートを見て自分のものにするためには、何かしらのヒントや背景がどうしても必要なのです。
ですから、私は常日頃から、「作家は作品を説明できなければならない」といっています。
でも、この説明が決して得意ではない人もいます。
ビジョナリーを目指してアーティストになったわけではない人もいれば、また絵を描いているから、映像や立体を作っているからといってすなわち全てビジョナリーになれるとは限らないのです。当然です。
だから無理やりビジョナリーを目指したり、難しい理論を展開したりする必要はありません。
また、アートや技術を勉強すればビジョナリーになれるというものでもありません。技術の習得とビジョンとは全く別物です。全てのアーティストが到達しなければならないというものではないのです。
ただ、現代に生きているアーティストである限り、自作についての説明はできなくてはならないでしょう。やはり現代人は「説明」を求めているのです。
しかし、表現の説明は表現の説明で良いのです。
それをビジョナリーであらんがための説明とミックスしてしまうから、話がめんどくさくなります。
アーティストがビジョナリーであるためにはむしろ、アート以外についての遠い回り道の経験や学習が必要です。
視点、視野、価値観は異質なものに触れることで加速度的に広がり、新しいビジョンが見えてきます。一つや二つの価値観だけで生きているうちは見えてこないのです。
そういう回り道を無駄とか損と考えて、知識や理論武装による近道をしようとする人もいます。しかし私はビジョナリーに近道はないと思っています。また理論武装のテクニックを学ぶことは、デッサンを学ぶことと同じぐらい重要で、なおかつ突き詰める意味の薄いものです。
アーティストのなかにはそこに真剣になるあまりに、言葉や論理が難しくなりすぎる人もいます。その結果、意味のない作品に無理やり意味(のありそうな言葉)をつけてみたり、新しくないものを新しいと主張してみたりと、見る者聞く者に時間の浪費を強いて、より一層人々からアートを乖離させてしまう原因を作っているという側面もあります。なんとなくその辺が「作家説明」のベンチマークになってしまっているような気がします。
アートコンテクストにおける理論武装は確かに重要なことですが、それが独り歩きしてしまっているのでは、元も子もありません。
ビジョナリーによるビジョンとは、ビジョナリーの人生と多様な価値観が盛り込まれながらも常に隠されているものであり、なかなかすぐには判別判断できないものです。
それはやがてそれが社会の常識となってから客観的に分析されます。
それ以前に、アートとは、まずは見られて、触れられて、心や肌感覚で何かを感じてもらうことで完成します。
その何かを感じてもらうためには、アーティストの経験と深い考察が作品ににじみ出ていることがどうしても必要なのです。それは視覚から伝わる気です。それは一朝一夕では決して得られるものではないのです。
アーティストの説明責任とは、その気を伝える手助けに過ぎません。経験、視野と、その結果現れた画面の関連性についてを話すことであって、自己作品に評論家のような評論をつけることではないのです。
アートが必要以上に理論化してしまうのは、アーティストの責任ではありません。むしろ絵の描けない「専門家」が、なんでもかんでもアートを「言葉」に置き換えようとして、アートの無言語の世界に首を突っ込んできたおかげです。それと同じ共通言語をアーティストに強いているだけに過ぎません。
それに迎合して、美術史的視点から自作を無理やり説明しようとすることはやめたほうが良いでしょう。なぜなら歴史は歴史にとって不必要なものを淘汰するからです。歴史のジャッジは歴史が行います。
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