以前の記事(http://mixchihirosato.blogspot.com/2022/11/blog-post.html)で、アートがデザイン化しているというような話を書きました。
デザインは初めから市場がありきで用途がはっきりしており、役に立つものは重宝されるが役に立たないものは淘汰される、アートは市場関係なく存在するけれど、近頃はアートの市場化著しく、どうもデザイン化している…というようなお話でした。
後日談…というか補足です。
まあ、こういうことを言ってる時の、大方の訳知りによるアートとデザインの区分けというのは、今のマスマーケティング全盛の時代における既成概念、便宜上の区分けで使っているに過ぎません。
アートとデザインとの間には、本来は壁などありません。
歴史的に見れば、アートが複製技術の進歩により大量生産できるようになった結果が、デザインだというだけの話なんです。で、アメリカ式マーケティングがグローバルスタンダードになったところで、デザインが高度理論化した、それに追従することを拒んだ、あるいはついていけなかった売れないデザイナーが続々と純粋アーティスト参入した……とは言いすぎかもしれませんが、まあそんなもんです。
アーティストの中には小難しい理論をひりだしてなんとか明確に区分けしようとしたりする人も後を経ちませんが、大方おそらく彼等が共通して言いたいのは、「アートはデザインより偉いんだ!」ということぐらいだと思います。
しかしながらアートの社会性というのは、そんなに狭い場所で優劣や上下関係をつけられるものではないのはみなさんご存じの通りです。
今や世界的な偉大なアーティストである葛飾北斎が生きている間、「俺はアーティストであって絵師ではない!」などと叫んだという記録や状況はどこにもないのです。
信仰の対象であったはずの仏像が文化遺産としてだけでなく、アートとしても価値を認められ、フィギュアすら販売されている、もう、時代が進んでしまえば文化的成熟を担う、貴重な財産となりうる。
デザインも骨董も博物もアートも区別などないのです。
つまるところ、たった1.5世代で染まってしまった我々アメリカンマーケティング世代の価値観で見れば峻別できるアートとデザインなる分類は、長い長い人類の歴史の中では、全く無意味な分類というわけですです。
逆に、今の「現代アートのデザイン化」現象を純粋にアーティストの視点から眺めたとき、むしろアートへの需要(必要性)がより高まり、またパーソナル化(あるいは消費財化)している現象なのかな?と僕は、あの時とあの後、ぼんやりと考えたのです。
「アートにも市場論理は働いてるんだ」という、考えてみれば全く当たり前の事実に、ハタと気づいて愕然としたんです。
しかも長い年月で俯瞰してしまえば、アートとデザインの区分けなんて、もっと意味ないんです。
やっぱり人は自分の作るものが人類の役に立ってくれることが嬉しい。
複製すら自由自在ですし、複製を前提にしたアートもどんどん出てきています。
ただ、旧来のやり方で歩んできたアーティストにとってはなかなか厳しい状況かもしれません。アートに瞬間風速が必要になってきてますし、トレンドの移り変わりもずいぶんと加速し始めているように思います。
そんな中、遅まきながらグッズ販売等に手を染めてらっしゃるアーティストもいらっしゃるようですが、若い頃から市場論理に揉まれてきたわけでもない方は、ずいぶん苦労されているようです。
個人的には「タダで配っちゃえば?」って思うこともありますが
あれ?
「自分の作品は決してタダで配ってはいけない」
という一家言を持つ僕が何を言ってるんでしょうね。
外注した複製グッズはアートではない?
ま、アーティストのこだわりなんて、そんなもんです(笑)
僕の作品?
複製は難しいです。
0 件のコメント:
コメントを投稿