「労働者が働くのと同じように、芸術家も自分の仕事をしなければならない」
(パブロピカソ)
いろんな珍訳、解釈で、意味がいろんな風に変質している、ピカソの有名な言葉の一つです。
「自分の仕事」のところは、「勉強」に変わっていたり、「働かなければならない」に変わっていたりします。
要するに、芸術家(アーティスト)は芸術家(アーティスト)だからといって、怠けたり遊んだり、天性のものだけで勝負していてはいけない、ということを、彼は言いたかったのですが、やはりアート、創造を志す者は、アート、創造を怠けてはいけないのであります。
音楽家が音楽(の練習)をしない日があってはならないように、画家もまた、絵を描かない日があってはならない。
表現をする者にとって、描く事と、奏でる事と、書くことは、一日も絶えてはならない。
アーティストという職業が、神から与えられた職業である以上、神の期待には忠実であり続けなければならない。
だそうです。
しかし私自身はどうもそうではありません。
絵を描く事、音楽をすることを、時々忘れます。
自分自身の中では、それ以外の「表現をする」ということで創造を行っているのだという言い訳をしながら、日々に追われることもあります。
言い訳?
いや、どうも私の表現は毎日毎日作業のように「術」として究めて得るものではなさそうです。
今私は、絵と、人の歩く先をほんの少し照らす手助けを生業としています。それらは全て繋がっています。それらは、私をかつて形成した、音楽と絵とデザインと心理学、哲学、教師というもののノウハウから来ています。
それを昇華するものとして、絵筆を持つ事をしています。
時々サボっていますが、ある日突然、まだ熱を帯びて再開するのです。
かつては絵筆を持つ事の意味が、自分だけに向かっていましたが、今はそうではありません。
はっきりと、その表現が、誰かのためになるという目的があります。
音楽もそうです。
かつて音楽は自分だけのためのものだった。
今は違います。
誰かのために作る音楽、奏でる音楽。
音楽になってなくても良い。音でも良い。
かつての表現が、今は全て繋がっています。
私が神のために捧げたものは、すべて誰かのためになっている。
そのためには、自分と向き合ってただ描き続けるだけでは無理なものがある。
何かを見据えて、それを注意深くやります。
描き続けます。
奏で続けます。
息絶えるまで。
0 件のコメント:
コメントを投稿