2011年5月6日金曜日

来るべきアート(1)

「なぜ絵を描くのか?」
私の場合は、描かずにはいられないからです。衝動でもあり、自分の本能の中でもっとも強いものの一つであり、直感、無我、霊感を表現する、もっとも自由な表現方法だと思っています。そして何よりも一生を通じて自分が自ら進んで行う行為の重要な根幹です。小さな頃から、ふと気がつけば紙に鉛筆で夢中で絵を描いていました。それは親に半ば強制的に始めさせられた音楽よりもずっとその動機が強いものでした。




「絵は最初からうまかったのか?」
最初から下手で、今も下手です。掛け値なしに。子供の頃、絵を褒められた事はなく、いつも周囲の子がアニメのヒーローやメカを上手に描けるのが羨ましかったのを覚えています。どうして自分はあのように描けないのだろうと。自分にはセンスがないのだと悔しかったです。




「ではどうして絵を描くようになったか?」
小学校に入ったばかりの時、風邪か何かで1週間ほど学校を休んだことがありました。休み中に他の子はデザインの授業でデザインなるものを描いていたようで、休み明け、先生が私だけ居残りさせて、「デザイン」を描いてごらんと、色画用紙とクレヨンを渡しました。私は訳もわからずに、大好きだったジドウシャをたくさん並べて描いた。それが校内の何かで金賞をもらったのです。それまで誰にも褒められた事がなかったので、それは嬉しい出来事でした。訳も分からずというのがポイントでした。その時に、自分はもっと絵を描きたい、上手くなりたいと思い始めたのです。自発的に画塾に行きたいと親に頼んで行かせてもらいました。ところが、やはり一向に絵は上手くならない。誰も褒めてくれない。そんなある日、もう絵がイヤになりかかっていた頃、何も考えずに適当に描いた鉛筆の下書き、それは急須と何か静物だったと思います、それを画塾の先生が感激して褒めて下さったのです。そしてそのデッサンを譲ってくれとまで言われたのです。もちろん譲れば再度描き直しになります。気を良くした私は2枚目も得意気に先生に見せました。ところが先生はそれには目もくれなかったのです。とてもがっかりしました。持ち上げられて、落とされる。
その瞬間、上手く描こうとする絵というのは、実は上手いのではないと気づいてしまった。自分は上手い絵を描いてもだめなんだ。他の子が線を上手に引けたり、整った何かを記号の様に描くという行為と、自分のいつも大雑把で整わないデッサンとは、本質的に何かが違う、他の子のそれも自分のそれもあっていいが、行く道はそれぞれどうも違うようだと子供の時分でそれに気づけたというのは幸運だったと言えます。「気づいた」と自発的に言っていますが、実際のところは画塾の先生の率直な感想と、薫陶と、空から降って心に湧いて来るものに導かれていました。それからは「上手く描こう」とするのをやめる努力をするようになり、印象派の様な絵ばかり描くようになっていました。その分、輪郭とかデッサンというものは2の次3の次のままでした。実際、上手く描こうとすると絵は死んでしまいます。絵は、本能なんです。直感なんです。本能と直感でないと描けない。




「デッサン力は重要ではないか?」
鑑賞者側に立って言えば、そんなものは必要ないと思います。一生のうちに数点だけの制作しか残さないというのであれば、それもそう。しかし欲張りにたくさん制作して、その芸術性をより高めて行くには、やはりデッサンを学ぶ事は重要だと思います。私自身もずっとコンプレックスに思い、克服しようとそれなりに努力してきました。
もちろんデッサン力がなくても素晴らしい絵は描ける。けれども、やはり偶発的面白さだけで終わってしまう。絵、芸術の面白さの多くはその偶発的面白さなんだけれど、偶発的面白さで描ける絵というのは、子供なら何枚でも描けるけれど、大人には邪心がいっぱいあるのでそうそうは描けない。子供の絵には邪心がないので、物凄い訴求力と面白さがある。ところが大人が描いた絵は邪心があって、訴求力にも邪心が見える。邪心というのは、こういう意図を伝えてやろうとか、驚かせてやろうとか、上手く描こう上手く描こうという心。そういう邪心は大人だからしょうがない。でもそれを消してしまわないと、本当には自分も世界も感動できない。芸術は感動できないと面白くない。
大人になって、そんな邪心なしに描ける絵は、1年にせいぜい1枚か2枚だと思う。30年描き続けたとすれば、30枚、それでも十分に素晴らしい芸術家だと思います。でもそこまで描き続けたらもっと欲張りに描きたいと必ず思うようになります。高まって行きたいと思う。そう思えば、意図、思考、技能を全て分かりつつ否定してかつ到達できる世界というのがあって、それはやはりデッサンをある程度はかじっていかないと見えてこない。
すなわち邪心を消すには、逆説的にデッサンの素養がどうしても必要なんです。一度デッサンを身につける。そしてそれを壊す。その作業があるのとないのとでは、どんなにデッサンや写実性、技巧性と無縁の作品であっても、やはりその訴求力、芸術性は全然違う。これは一見矛盾するように思えますが、不思議な真実です。例えばピカソにしても、デッサン力は神がかっていましたが、結局それを全て捨て去って初めて彼の芸術が生まれました。彼にデッサン力がなかったら、おそらく彼のあのような芸術は生まれなかったと思います。試しに、ピカソの様な絵を描いてご覧なさい。「あんなもの自分にでも描ける」と豪語した人のほとんどは、あれほどの構成を逆立ちしても作れないのです。彼のあの一見意味の分からない造形には、彼のデッサン力の賜物がたくさん隠されています。
しかしデッサン力があれば全てが事足りるということではありません。デッサンなんかよりもずっと重要なことが他にもたくさんあります。デッサンを難なくこなしてしまう人の中には、デッサンを過大に重要視する傾向が見えることがありますが、あまりそこに終始すると、やっぱりつまらないものしか描けなくなる。デッサン力は身に着けて後壊す、その勇気が何よりも大切だと考えています。




「デッサン力はどうやって身につけるのか?」
デッサンというのは、デッサン力の高い絵を見たり、同じ様に描く事でしか到達できないことは確かですが、実は理屈がちゃんとあって、その理屈を最初に学ぶ事です。そのもっとも重要なものは遠近法です。
私がデッサンというものを本当の意味で勉強し始めたのは大学受験から大学生にかけてです。美術を学ぶ学生ならみんなが通る、石膏像の木炭デッサンです。でも、それで実はデッサン力はまるっきりつかなかった。やはり周囲の「形の輪郭をとるのが上手い」同級生達に太刀打ちできるようなものは何も身に付かなかったのです。それは理屈を教えてもらえなかったからです。遠くのものが小さく見えると言う事ぐらいは分かる。しかし遠近法の理屈はそれだけではない。理屈が分かったら今度はとにかく描いてそれを確認する必要がある。
私の専攻は工業デザインでしたから、デッサン力のなかなか身に付かない私にとって、レンダリングという究極のデッサン力を要求される絵を描かなければならない日々は、致命的な屈辱を味わう日々でした。その上レンダリングで多用されるパステルという画材が、実に相性の悪いものでした。それでその頃、初歩的な線が描けて陰線処理計算ができるCADが普及し始めた初期のパソコンに触れ、実はレンダリングというのは、コンピュータでもできるのではないか?と思い始めました。落ちこぼれは常に新しく楽ができる事を考えるものです。そうして1990年前後に出始めの3DCG(コンピュータグラフィック)ソフトウェアをMacと共に導入し、手描きレンダリングを一切せずにデザインの仕事を始めました。工業デザイン分野でフルCGをレンダリングの道具にしたのは、日本でもかなり最初の方だったと思います。
ところが皮肉なことに、そうやって3DCGでレンダリングを描くようになってから、メキメキと自分のデッサン力が上がって来るのが分かりました。3DCGによるモデリング、レンダリングの設定は、完璧な遠近法の鑑賞と構成の機会を私に与えてくれ、加えて立体認識や輪郭の把握力というものも授けてくれました。今まで自分が描けなかったものが、Macで描けるようになった時、同時に手描きでも同じ様に描けるようになっていたのです(ある程度ね)。これは本当に喜びでした。そして面白いことに、それからは逆に3DCGから離れていったのです。




「色彩とは何か」
人の顔を肌色に塗るという事でないことだけは確かです。色彩は常識や先入観の破壊です。そして破壊ができて初めて、真実の色が見えて来るのです。だからといって単純に、じゃあ顔を青く塗ってやれというのではありません。そこには驚かせてやれとか、上手くやろうとか、奇をてらうとか、そういう意図があってはならない、あくまでも真実の色というものが必要なのです。無になり真実を見る目。それが色彩だと考えています。
もう一つ重要なこととして、色彩は人の氣、場所の氣に大きな影響を与えるという点です。色の持つパワーを良く分かることは、私の制作にとってはとても重要なことです。




「どんな芸術(アート)を目指しているのか?」
誰よりも何よりも、自分が感動したり面白いと思うもの。でもそれは「面白いものを描いてやろう」とか「感動できるものを描いてやろう」としても描けない。何か指針を置いて、その中で自分の本能、直感を自由に泳がせる必要がある。
芸術というのは人間の自然の本能で、理屈で「これが芸術だ!」とやることはナンセンスです。が、先にも描いたように本当の本能、才能、直感だけで作れる作品というのには限りがある。誰でも自分の能力を限りないものとして人類に貢献したい。そうするためには、やはり作り手側には高い理念と厳しい自己規制、コンセプト、鍛錬、試行錯誤、人生の投影と提案がなければらないと考えます。
同時に、鑑賞者はそれを芸術と見ようが娯楽と見ようが、はたまた路傍の石や雑草と同じに見ようが自由です。もちろん、芸術を理解する力というものがあれば、人生はより豊かで哲学的になるでしょうけれど、あまり大上段に構えても芸術は面白くもなんともない。けれども、作り手側にはかなり強い自己規制が必要という、ちょっと矛盾した世界がある。
だから、「芸術(アート)とはなにか」「芸術家(アーティスト)とはなにか」「どうあるべきか」ということは、すっかり決めてしまってはつまらないけれども、それを大いに論じる事、言い放つ事はとても重要でステキな事だと思います。
だからこそ多くの偉大な先人達が様々な解釈、持論を持って取り組み、一定の、誰もが納得できる答えを出してきているわけです。


そんな訳で、ことさらここで私が「アートとは何か」などと新たに何かを構えなくてもいいようにはなっているのですが、しかしやはり今再び「芸術とは何か?」という問いを、もう一度投げかける必要がある時代にさしかかっているのではないかと、直感的に感じています。
直感とはたいていの場合、論理の飛躍を起こしているので、言葉にすると意味不明瞭になりがちで、一言で済む様な話にはなりません。しかしその飛躍を恐れずに言えば、次の様な前提条件が言えます。


1)20世紀の先人達が到達した芸術の目標や意義はある程度達成された。
2)その延長で今後も芸術運動を続ける事は無意味になりつつある。
3)それを超えるさらに大きな潮流が求められている。


(続く)

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