2011年5月6日金曜日

来るべきアート(2)

「芸術の役割とは何か」
時代を経ても変わらない、芸術の存在意義、役割の一つに、美の創造があります。美とは人間の命の根幹の一部を担うものです。意外に思われるかもしれませんが、住む場所やご飯がなければ生きられないのと同様、実は美もまた、私たちが生きるためににはどうしても欠かす事のできない要素なのです。多くの人がそこに気づかずに過ごしていることは確かです。特にこの国ではそのように思われがちですが、それはこの国に元々深淵で豊かな美が当たり前のように横たわっているからです。元からふんだんにあるのに、わざわざ自ら作り出したり大切に思う事はありません。しかし、自然の美のみに頼っていては人間らしい生き方はできません。人工物にこそ、本来は美が必要なのです。美は、目や耳を通じて私たちに訴えかけ、私たちの心に大切なものを植えてゆきます。この国では残念ながらまだ人工物についての美の研究や理解が足りないと感じています。
美が私たちの目の前から持ち去られたとすれば、私たちは一ヶ月と生きることはできません。何に美を感じるかという個人差の問題はさて置くとしても、人にとって、美とは生きるエネルギーの根幹を為すものなのです。それを私たちは自ら作り出し、美しくない物は美しく変えてゆく努力を惜しんではならないのです。それを担うものが、古来からの美術、芸術です。そして、そこから派生し、発展し続けているのが現代の芸術です。




「芸術の進化とは何か?」
現代芸術が、芸術としての独自のアイデンテティやポジションを変容、定着させ始めたのはそう昔の事ではありません。変容を遂げて新たな存在意義を見いだして大きく発展した明確なターニングポイントは、産業革命の時代でしょう。それは、大量生産や功利主義へのアンチテーゼ、抵抗運動としての側面も持っていました。また非常に大きくゆっくりとしたうねりを持つ、人間回帰運動の一種とも言えるでしょう。とにかく全ての芸術運動に共通していたのは、人間の存在意義とそのスーパーパワーの挑戦です。例えば一人がどこまで時代を超越した感動、希少性を創造し得るか。美が人に与える価値観の変容。20世紀はそれがピークを迎えました。そして一方では、複製という形での産業化、大量生産、大量消費という現象も起きています。
この矛盾する2つの現象を、どちらも芸術と呼んでいるのが、現在の私たちの姿です。すなわち芸術が機械文明を取り込んだか、機械文明が芸術を取り込んだのか、古い「人間回帰」というテーマが、機械や先端技術と対峙するものであるというような従来の考え方では芸術を捉えられなくなって来ている。20世紀の一時期「芸術なんてどうでもいい、芸術と大上段構えてしまえば芸術でなくなる」というような突き抜けた様な、あるいは無力感のような話も聞かれた事がありました。それは結局のところ、効率的機械文明の極みの中で、人間回帰というものが機械文明と対峙しなくてもよくなってきた、そして対峙してきたはずの芸術も目標を失い、戦闘を放棄する宣言であったとも言えるでしょう。その結果、芸術はエンターテインメントと同一視化され、より手軽で分かりやすいものがアートと言われるようになってきた。
しかし、元来アートは大衆や大多数が好むものを提供するために存在して来た訳ではないのです。時にそれは少数にしか理解されず、あるいは長くは無視されながら、ゆくゆく世界の潮流、人の生き方を決定するための先頭に立つ役割をしてきています。
そういう意味において、芸術はエンターテインメントとはやはり一線を画し、啓蒙、解釈、熟考、鑑賞、永続性というものに耐え得る先進性をもって存在しなければならないことは明白です。しかしながら分かりやすいもの、流行でもてはやされるものの中に、その鑑賞に耐え得るものがあるのだという論が、現代のエンターテインメントアートの言い分でもあるのです。
そういう意味において、旧来芸術と呼ばれて来た芸術家の古い解釈や感性は、危機に瀕していると言っても過言ではありません。21世紀に入ってからはさらに一層、鑑賞者も創作者も、一人一人が真剣に芸術のレゾンデートル(存在理由)を探す必要性に迫られているように思います。



「来るべき「芸術」とは何なのか。」
もう一度「美」に立ち返って考えてみましょう。美は人間に欠かせないものであり、かつ生き方のヒントやパワーとなるものです。そこが芯です。
さて、私にも「自称アーティスト」という肩書きがあります。アーティスト(芸術家)というのは、たいてい自称なんです。もっとも、アーティストなんていうのは、職業の呼称ではありません。「オレはアーティスト(芸術家)だ!」と叫べば、今日からアナタも芸術家です(笑)
でも、そこには大きな大きな代償があります。経験則、先人達の生き様を通して明確なことは芸術家には、平穏な日々はないという事です。
もう一つの話、絵だけ描けて、上手いねと言われるのは、これはアートでもアーティストでもありません。プロではあるかもしれませんが。それでほくほくしている向きもありますが、絵が上手いだけや、音楽が上手いだけでは、プロフェッショナルにはなれても、アーティストにはなれないというのが、歴史上の巨匠達が口を揃えて言い放った芸術家の変わらぬテーゼです。
「アートは作品ではない、人間そのものだ。人間の生き方の創造である。」
と。このテーゼは21世紀も変わる事なく生き続ける事でしょう。なぜなら生き方を取りざたされずに作品だけが一人歩きした芸術家など、芸術家が芸術家と呼ばれて以来一人もいないからです。そう、アーティストとは、職業の呼称ではありません。尊称でもありません。生き方の創造宣言なのです。

単なる宣言。
しかして、大いなる決意。

そこから導きだされるものは、生き方が凡庸であったり、何かに追従するものではあってはならないという事です。新しいもの、進化したもの。だから、前提として、平穏な人生はあり得ない訳です。誰も歩いた事のない道だからです。常に試行錯誤や失敗、恥辱や抵抗、逆風、そういうものと隣り合わせでいる。平穏な日々から生まれる「生き方の創造」というものはあり得ない。そういうものなら、みんなやってるからです。
絵を描く事がアートではない。音楽を奏でる事がアートではない。もっとも、それで作品を何も生み出す必要がないということではありません。やはり作品は必要なのです。作品から生き方、生き様を逆引きできるようでなければならない。
過去、誰もが認める芸術家達が目指したものは、「人間は全能でなければならない」というテーマでした。全能になれないとしても、少なくとも全能を目指してもがいて泥だらけになっている人間そのものでなければならないと、彼らは異口同音に主張しています。
生きるという行為を、孤独と共に決意し、全能に向けて一心不乱にもがき苦しむのだ、嵐の中を突き進むのだと覚悟することが、アートであるとも言えます。そして20世紀、アートは哲学までに昇華を遂げました。機械文明に対する人間回帰は、表層の生き方の規範という部分では大成功を収めたのです。そしてそれは機械を取り込んだ。それはリテラシーの高い者にとっては、強い味方となりました。強さを持って雄々しく生きるための協力者となったのです。

しかして、それらの芸術が成し遂げていないものがあります。それは、残された人々のための生き方です。すなわち先人達のアートに関する偉大なる成果の上に立って言えば…


来るべき芸術とは、全ての人が絶望から這い上がり希望に溢れて生きるための、魂の高次進化(アセンション)を目指す創造運動とその成果物であり宣言である。」

ということができます。


私は「絶望」という言葉を入れました。自分でもどうしてそう入れたのか分かりません。しかし私たちは絶望から這い上がる必要性があるように思えてならないのです。その絶望は、早いか遅いかの違いこそあれ、全ての人にやってくるものです。しかしその絶望は絶望のままではない。神からの未来の保証がある絶望である。だから正確には絶望とは言わないのかもしれません。必ず希望へと変わる何か。凹み。その絶望を既に味わった人は幸いです。既に希望へとシフトできる準備が整ったからです。
もう一つは魂の高次進化です。今流行のアセンションというやつです。このアセンションの意味、解釈は様々に取りざたされていますが、私はやはりそれは魂の進化だと考えています。人間は進化する動物であると考えています。その進化は、もはや魂以外には残されていない。人間の進化は最終段階に来ているのです。それが、美と共にやってくるのです。本当の美とは何か。全ての常識が変わります。



長々と書いてしまいました。これは無論、まだ思考の途上です。直感的思考の。何かの叩き台になるかもしれませんし、考えが変わるかもしれません。言葉足らずのところは、順次推敲して直してゆくつもりです。




0 件のコメント:

コメントを投稿