2014年4月20日日曜日

直観と祈りのとりとめないこと

3月中旬ぐらいから徐々に始まっていた「シャマンモード」が3日ぐらい前からピークのようです。

シャマンモードというのは、自分で勝手に名づけている精神の状態のことで、子供の頃からの不思議な能力が開花するサイクルなのです。軽いのは多い時で1ヶ月に一度、重たいのは半年に一度はやってきます。

普段もそうですが、シャマンモードの時は、人と話していて、その人の未来が漠然と見えたり、直観が鋭くなって(「直感」ではなく「直観」と呼んだほうがピンと来るのでそう書きます)分かる事が多く、そして何よりはっきりしてきます。

その代わりすぐに瞑想状態になるので、無口になったり社会性が極端に落ちたりやたら眠くなったりと、一見精神疾患ではないかと思うようなところもあります。
でもうつやナルコレプシーではないのです。

一人でいて瞑想状態にある時、至福の瞬間があります。仏教でいうところのニルヴァーナの状態です。
天とも神ともつかない心に響く大きな智慧の存在が自分を支配し、自己が消えます。そしていろんなことが瞬時に見通せるようになります。
もちろんそれは自分が普段から焦点を当てているものだけですが、氣を発するものについてなら結構向こうから飛び込んで来る事もあります。それで「分かる」のです。

要するに感性がやたらと鋭くなってしまうのです。それで本能的に不活発な状態になるのだと考えています。こういう時に変な氣に触れるととっても疲れます。

今回は不思議とそれが軽くて済んでいるようで、まあ、だからこうしてブログを書いていられるのですが、社会性はそれほどスポイルされずに済んでいます。


思考の癖と直観との関係は面白いもので、何か一つか二つのことについて興味を持ち始めたり焦点を絞って考え始めたりすると、数ヶ月間、そのことで頭の中がいっぱいになります。
そうして起きている間じゅうそのことだけを考えているうちに、ある時突然全てのことが直観的に分かり見える瞬間があります。
その直後ぐらいから急激に他の事象にもその直観が及んで、シャマンモードに突入します。

シャマンモードの時は祈りの力も強くなります。
それは自我や私欲が薄れるからです。


祈りは自我や我欲と相性があまりよくありません。
他利的で多欲的であればあるほどその祈りは強くなります。

しかしそれでいて、愛も必要なのです。
この辺は言葉で説明するのがとても難しいです。

「突き放して祈る」とか「手放して祈る」とか表現します。

それが成就する事について自分を勘定に入れずに祈るのです。

直観もそうです。
自分を勘定に入れずに何かを見る時、それは実に的確な像を結びます。

本来は誰にでもできることです。

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