サトは2022年コラボ展(アートストンギャラリー 銀座)の共同制作で観音菩薩的女性像を担当しました。@oimy30さんと@water_to_birthdayさんの描画を眺めているうちに、観音菩薩が画面に現れました。
人物(や神仏)を描く方々の間には「人物を描くなら、顔と手は必ず描くべし」という鉄則があります。
僕もそれに賛同します。下手くそですが逃げません。
いくら「上手く」ても顔と手から逃げていては、それは人間を描いていることにはならないんです。
下手でもいいから描かなくてはならないどころか、下手だからこそ描かなくてはならないと思ってます。
いや、上手い下手など絵の魂の中ではどうでも良いことです。
その絵が人間や仏?神?を表現する限り、特にお顔は何を置いても重要です。
で、さらに強めに、それ以上に僕が重要だと思っていることは、……このことは僕の三人の師匠が異口同音に僕に伝えてくれた教えでもあり、かつ自分自身の体験でその裏付けを見た教訓でもあるので、この際書きますが……
もっとも大切なことは「写真を見なくても」「スケッチを繰り返さなくても」その対象を描けるようになることです。
「手癖」とは違います。
手癖とは訓練の賜物です。
しかし対象を観察し続けて見たものは、「真実」です。
たとえぎこちなくても、デッサンが狂っていても、本当に深く観察し得たものは、真実、内面が確実に絵に出ます。
アートが共感である以上、この観察眼こそがアーティストの命そのものと言っていいとさえ思います。
アーティストは、シャーマン(神託を伝える者)なのです。
写真は資料としては秀逸です。
僕も時として使います。
しかしそれに頼るあまり、二つの目で穴の開くほど観察し時の流れや内面にまで迫ることを忘れて、ただ資料のためのシャッターを切るのはかなり危険なことで、特に自然の光の移り変わりをこの目で見ていた後に、写真を見直してその「違う光、色」に引きずられて、当初の色のインスピレーションを見失うことも少なくありません。
まして対象に迫ることなく、ネットや他人の資料を拝借し、レンズのままの遠近法丸出しで何かを描くことなどあってはならないことと僕はいつも肝に銘じています。
プロならもちろんそんなのは見抜きますけれど、一所懸命に働いて、そのお金で絵を選んでくれるお客さん(サポーター)なら、もっと瞬時に直感的に見抜きます。
アートはその方の人生のパートナーなのだから。
それなので、僕は取材旅行に出かけても写真を撮らないことが殆どだったりします。
その目に焼き付けて、それが僕の中で変化して熟成していくのを待ちます。
モデルさんのことも殆どスケッチしたことがありません。スケッチはなるべく心がけてはいるのですが、デッサンやクロッキーは小学生までに散々やらされて飽きてるのと、それと似せて描くということにどうしても神経が入ってしまい、やっぱり、ただ見ていた方が、後からサラサラ描けたりします。。。
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