子どもの頃、妹が貰ってきた兎の小屋を作ろうと勇んで作ってみたものの、グラグラするし扉は閉まらないわで使い物にならず、父が作り直して立派なのを完成させた。
父は舟釣りが好きで、自分で釣り船を持ち、だいぶ沖に出ていた。僕にも釣りをさせたくて日曜日のたびに連れて行ってくれるのだが、僕は外海に出るとすぐ船酔いするので、その度に釣りが中断させられるのだった。ある日父はとうとうしびれを切らし、近くの島の無人の浜に僕を半日置き去りにして、半日帰ってこなかったこともある。それ以来僕は父の船には乗せてもらった事がない。子どもの頃はそんなことがある度に「じくなし」(不器用で根性のない役立たず…樺太時代の方言)と言われたものだった。
成長してからの僕は、何かやりたいことがあってもほとんど父母に相談したことがない。覚えているのは、教師を辞める時だけだったように思う。それでも二人の猛反対に遭うことは分かっていたから、半ば事後承諾のような形で辞表も出し、後戻りできない状態にしてから言う、父母からすればとても相談なんて言えたものではなかった。
こんな調子で言い合いならまだしも、父とは取っ組み合いに至ることもあった。
高校生の頃、組み伏せられた際に勢い余って父の親指を思い切り噛んで離さなかった時は「おい!母さん!警察呼べ!」とまで言わせた。
こう書くとまるで高圧的な父とそれに反抗する息子の険悪な親子関係を想像してしまうが、事実はそうではなく、普段の父はいたって穏やかな人である。
思い返すと、自分が何かをしたい時に決まって反対するのは母であり、父はその相談を母にされて渋々僕の話を聞くというのが始まりだった。
ところがその度に母が横からヤイヤイ口を挟むので、次第に僕の方が感情的になり声が大きくなる、それを父が叱る、僕が激昂する…というのがだいたいお決まりのパターンであった。
最終的に僕のやりたいことを認めて庇ってくれるのは、母ではなく、いつでも父であった。
それがどんなに見込みのないと分かっているものであっても、父自身の希望とは違うものであっても、全く理解のできないものでも、最終的に「分かった。そんなに言うならやってみろ」と一言だけ言って終わる。
そんなことで僕は随分と好き勝手をやらせてもらった。それが思うように成果を出せなくて苦しんでいても、何一つ教訓めいたことも言わずに、帰省で顔を見るたび言うのは「どうだ?」「がんばれよ」だけだった。
そして決まって母に「ほんとにお父さんは甘いんだから!」と叱られて小さくなっているのだった。
0 件のコメント:
コメントを投稿