2023年9月10日日曜日

共にまだ見ぬ地平へ

【共にまだ見ぬ地平へ】

僕が画業に専念すると決めた日以来、様々な人が応援してくれました。

そして実に驚くべき事に、それは今日まで一日も欠かす事なく続いています。


作品を購入してくれるのはもちろん、個展開催のために骨を折ってくれたり、人の縁を繋いでくれたり、展示に欠かさず足を運んでくれたり、励ましてくれたり、寄り添ってくれたり、所有のサト作品をSNSで取り上げてくれたり、中には残念ながらお目にかかることも叶わなくなってしまった方もいますが、現在進行形でいまでも数えきれない方から様々な形でかけがえのない恩を頂いています。


今の僕があるのは、この方々の応援のおかげ以外の何物でもありません。

その幸運に恵まれたことを心から感謝せずにはいられません。


この御恩は、自分がしっかりとアートの地平の先を踏みしめ、サトチヒロのアートを応援していて本当に良かったと思ってもらえることでお返ししようと、日々決心と覚悟を新たにするのです。


その地平の先とはなんでしょうか。

それは

「世界のアートの中心地日本という国で、みんなと共にアートの新世界を踏みしめる」

ということです。


日本はアートの国になります。

(ポテンシャルとしては既になっている)

そして東京をはじめとする日本の各都市は、世界のアートの中心を担う事になるでしょう。


そして、作る人も見る人も、全てのアートを愛する人々が、アートによって立つ、豊かになるという社会が到来します。

それが僕の見ている「アートの地平、新世界」です。


今、僕はとても貴重な体験をしています。

これまでのような、アートが単に発表の場が与えられるとか、アーティストとオーディエンス、限られたマーケットだけの関係に留まらない、観る側、所有する側が主体となる一つのアート運動、イズムが起きつつある、アートが媒介するトランスフォーム体験です。


「なんのこと?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。この事についてはまた機会を改めて詳しく書きたいと思います。


ともかくこの体験は、これまでの日本にはなかった、いやおそらく世界にも類を見ない、全く新しいアート文化の誕生を予期させる動きです。


この潮流は、やがて日本中に広がるだろうと思っています。いや、シンクロして各地で同時進行で始まっているかもしれません。


そしていずれ世界の美術史にページが割かれる日が来るでしょう。

日本は、パリやニューヨークに負けない世界のアートの都になる素質を十分に持っているのです。


この体験をリアルタイムでより多くの人と分かち合いたいのです。


ただし、ただ絵を描いているとか発表して見てもらうというだけでは、このムーブメントは大きくはなりません。一人一人の自然で無理のないトランスフォームが欠かせません。


僕もその一助になろうと、銀座アートストンギャラリーのオーナー先崎氏をはじめとし、アンバサダーになっていただいているお客様やアーティスト、キュレーター、またアートに直接関わらない異分野の方々、経済界や文化人の方々と、日々様々な意見交換をし、いくつかの企画も立ち上げています。


一例として、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、今年1月から、有料ですがアーティストのためのワークショップを開催しています。


といっても描き方の教室ではありません。アーティストが創作活動を持続発展させていくためには、正しく自分のアートや考え方を知ってもらうこと、アートを応援してくれる人達とのコミュニケーション、アートの社会的役割、努力に応じて用意されたチャンスをしっかりと掴むことができる技術や考え方、意識、観察力が必要です。


まずはアーティスト自身それを身につけようと始まりました。動画の配信やイベントも行っています。どなたでもいつでも参加可能です。


それらは自分だけが身につけるだけでなく、分かち合い共有する事でさらに大きな力となります。

このワークショップの当面の目標は、これらを共有した方々が、さらに大きな流れを作って下さることにあります。


遠くないうちに、アートを作る側でない、オーディエンス、アートファン、これからアートに触れたい方のための企画もお知らせするつもりです。


まだまだ小さな流れに過ぎませんが、やがてこの「新しいアートムーブメント」が大河となって大海へ注ぐ姿が、僕にははっきりと見えています。


「共に新しいアートの新世界に立とう」


この考えに賛同して下さる方は、いつでもお気軽にコンタクト下さい。


これからもどうか変わらぬご支援、応援を何卒よろしくお願い申し上げます🙇‍♂️


2023年9月9日土曜日

創作とアンビバレンス

【優れた創作は、作家の人生のアンビバレンス(非整合性、葛藤)と無縁ではいられない】


…とはよく言ったものですが、説教臭い人生論はさておき、今日の夕飯は絶対に魚にしようと決めていたのに気がつけば火鍋屋にいたとか、ヒゲを剃るはずなのに顔を洗っていたとか、とにかく生きている限り、自分の言動に整合性がとれていることなど珍しいものです。


ベートーヴェンがゲーテの振る舞いに激怒して訣別した(※)なんてのは彼のアンビバレンスを説明するには全然生やさしい事件に過ぎませんが、彼は訴訟や難聴、借金など、あまりにゴタゴタした私生活と困難や絶望を繰り返しながら、その一方であまりに美しくそしてエネルギーに満ち溢れた旋律の数々を生み出し、それまで王侯貴族のためのものであった音楽を一般市民のための音楽にまで昇華させ、古典主義音楽を完成させました。


そんな楽聖ベートーヴェンの葛藤に比べれば凡俗中の凡俗に過ぎない僕のそれなどノミの地団駄に過ぎませんが、やはり制作していると、勝手に生まれる色彩やカタチは、自己の非整合性と戦ってる感がいろんなところで出るなあと、妙に感じ入るのです。


まあ、どんな葛藤があろうが最終的に美しいもの、自分でヨシとするもの、そして誰かを幸せにできるものに昇華されていくのであれば、何でもいいんです。


(※註釈)

当時はまだ王侯貴族からの召し抱えが無ければ安定収入が得難い時代。安定収入を渇望しながら、ゲーテの貴族たちにおもねる振る舞いに激怒してゲーテと訣別してしまうという、彼の反骨精神、反権威主義的姿勢を代表する武勇伝。


2023年9月5日火曜日

抽象化からのパーセプション変革

【パーセプション】

パーセプションとは、直訳すれば感知、主観的知覚のことを言います。要するに論理や抽象的推論なしに五感やその人の持つ認知能力によって感知される外界事象事物への認識、判断であり、それには印象も含まれます。


一方、少し前に「クオリア」という言葉が流行ったことがあります。クオリアとは例えば赤いものを「赤い」と感じ他者と共有できる感覚的体験で、これもまた抽象的推論なしに感じることのできる共感覚認知です。


この二つは似て非なるもので、クオリアは持って生まれた共感覚として各人に共通する脳の働きなのに対して、パーセプションは、多分に経験や社会的な体験、文化、時代背景に影響を受けます。そしてそれは常に変革されます。


アートは、この二つの感覚的認知を繋げて、パーセプションに新しい視野を広げていく(変革を起こす)プロセスに他ならないと思っています。


それが具象であろうと抽象であろうと関係なく、クオリアを通して表現がなされ、それを作者が昇華させて作品とする、最終的に作者と鑑賞者がパーセプションを共有しその変革を共に紡いでいけるのはとても刺激的で楽しく、深遠なる叡智に深い感謝を感じる瞬間なのです。


そういう意味で、アートには鑑賞者の存在は欠かせません。


しかしながら作者のコンセプトには、言語化出来るところとできないところが厳然としてあります。


実感として、作者側において事物事象を高度に抽象化して捉え直し、制作過程においてパーセプションの変化を自分自身に起こすことが、重要な課題と感じています。

抽象化した概念をいかに作品に落とし込んで、クオリアとパーセプションを表現できるか、いつも問われながら描いています。


アートが発展するたび、また自作もまた進化すればするほど、パーセプションへの期待、要求は高くなり、その作品の言語化は日々抽象化していきます。


独りよがりのアイデアや恣意的「エイヤッ」はもはや通用しない時代となりつつあります。

僕も半可通なアイデアで描き進めて潰した作品は数知れず。

最終的に作者自身の経験、知性、広い知見、知識の醸成が不可欠と痛感するのであります。