2012年2月29日水曜日

ショパン24の練習曲/ウラジミール・アシュケナージ


ショパン24の練習曲/ウラジミール・アシュケナージ/LONDON/1972年録音/LP


一言で言えば、若き日のアシュケナージの、驚嘆のショパン。
僕は誰のショパンも聴かなくていいが、アシュケナージだけは聴いていたい。




と、そういうことを言うと、というかショパンを聴く度、思い出すことがある。
苦い思い出だ。
ショパンが原因で、あるブーニンファンの年下の女の子を泣かせてしまったのだ。


話は簡単で、要するに僕が大人げなかっただけだ。
あんまりブーニンブーニン言うから、ブーニンを思い切り否定しちゃったのだ。


別に本気で否定していた訳ではない。
ブーニンは天才的ピアニストだ。
なんといったって、史上最年少でショパン・コンクールに優勝している人だ。

ブーニンの演奏は1〜2度テレビで見ただけだったが、あまり好みとは言えなかった。
単純に、好みでなかっただけだ。


折しもブーニンブームが日本中に吹き荒れていた。
ブーニンを知らない事はクラシックを知らないに等しく、ブーニン以外にピアニストはいないと言ってもいいぐらいの勢いだった。

テニス、ラグビー、スキーの次にブーニンという女の子のブーム。ブーニンの次辺りがF1。かならず象徴的なアイドルがいる。
で、アイドル無き後、あるいは彼女達が飽きた時、通った跡には草も生えない。
日本におけるF1の終焉日とはすなわちセナの亡くなった日である。




もちろん彼女もその例にもれなかった。
そして僕はそんなミーハーな風潮に辟易していた。



「ブーニンのショパンは、他のピアニストとは全く世界が違う。ダイナミックで情熱的で、こんなショパンは今まで体験したことがない。これこそがショパンだ。」

という、彼女のブーニン評は決して間違っている訳ではない。
ブーニンの解釈は、おそらくロマン派、特にロシア人の気質でのロマン派の解釈の一つの主流であるような気がする。
チャイコフスキーならそれでもいいかもしれない。

だが、そのぐらいでブーニン礼賛に与するわけにはいかない。

だから
「ふーん、ブーニンよく知らない。ピアニストでそんなに違わないでしょ。ショパンは誰が弾いたってショパンだし、ベートーベンは誰が弾いたってベートーベンだし。」
と言った。(恣意的)

逆鱗に触れた。
「かっわっるっよおー!!!」
それから彼女は、僕のことを「音楽の事を何も分かってない人だ」と言った。


ブーニン…。
情熱的か?情熱的だと思う。
ダイナミックか?ダイナミックだと思う。
自由か?もちろん自由だと思う。

確かに中村紘子に比べれば、より情熱的でダイナミックで自由かもしれない。
けれども、ブーニンの当時のパワーや自由さは
若さと引換えに手にしているものも、かなり大きかったように思う。

それは単純に好みの問題だ。
ブーニン以外にもたくさんピアニストはいる。
要するにブーニン以外も聴いたことあって、ブーニン言ってるのかと。
単にステージで金髪を振り乱している眼鏡男子に見とれてるだけじゃないのかと。
完全にヤキモチですね。


ウラジミール・アシュケナージという同じソ連出身の天才ピアニストがいる。
彼もまた、ダイナミックな演奏で知られる。
しかもアシュケナージは、ブーニンをはるかに超えるダイナミックさに加えて
完璧なテクニックと緻密さと美しさでしっかりとコントロールされている。
だからエネルギーがまっすぐ飛んでくる。
ブーニンのように、ロマンチックにあっちに行ったりこっちに行ったりしない。

今も昔も、当時のブーニンのような奇抜な演奏をするピアニストはいた。
ただ、ブーニンの自由奔放さは、際立っていた。
けれども僕にとっては、そのことが決して目新しいものとは思わなかった。
ロマン派って、いつかはきっと、そうなるよね。
それはそれでいい。

ブーニンがダメなのではなく、ブーニンだけが偉いのでもなくて
好き好きでいいのだ。

けれども、あまりのブーニン礼賛と、僕を音痴扱いした事への腹いせに
皮肉を込めてこんなことを言ってしまった。

「楽譜通り弾け、作曲家の意図を汲め。ブーニンが弾いただけでそれほどまでに価値が変わるのなら、それはもはやショパンの曲ではなく、ブーニン作曲だ。」


いや大人げない。


ブーニンは天才的ピアニストであると同時に、彼女らにとってはピアノを弾く貴公子、アイドルなのだ。アイドルを否定してはいけない。
あの頃、日本の女の子にとって、ブーニンのショパンは天の調べであり、雨音はショパンの調べ(小林麻美)だった。




で、そんな僕がアシュケナージ礼賛である。
他人のことなんか言えないのである。

アシュケナージのショパンのエチュード。練習曲という名前だけれど、内容はスゴイ。ショパン自身が、「誰にも弾けないだろう」と言いながら作ってた曲集なくらいだから。


1曲目(Etude op.10 No.1)からぶっ飛ぶ。テクニックもスゴイけど、アシュケナージの表現力が素晴らしい。パワーと繊細さが涼しい顔で同居している。


Youtubeで、若い頃のアシュケナージの演奏と、だいたい同世代ぐらい(もう少し上かな)の時のブーニンの演奏を聞き比べてみよう。


アシュケナージ
http://youtu.be/WpZr_cbYbXo
ちょっとこれはライブで音質も悪くやや粗さが目立つものの、音の粒ははっきりしていて、十分パワフルで強弱がはっきりしている。こんなに速く強いのに、コントロールが全くブレない。要するにドライブしている。ちなみにレコード(スタジオ録音)では、これよりももっと速く、繊細さとパワフルさが高度にマッチしている。ペダルの使い方が本当に絶妙だ。

ブーニン
http://youtu.be/X46CEMEZB-0
若い時に比べて、ずっと柔らかくてたおやかな演奏になっているが、彼独特の緩急は健在。というか、極端になってる?彼ならではのショパンは情緒性に富んでいてとてもナイーブな魅力がある。

好き嫌いは分かれると思う。
僕は圧倒的にアシュケナージの方が好きだ。
そして、女性がブーニンが好きだというのもよく分かる。

ただ、この曲は、運指の難しさ故か、多くのピアニストの場合、ペダル多用やテンポ変化でリズムの乱れをごまかすような演奏が多い気がする。良く言えば緩急。悪く言えば千鳥足。使い過ぎるとバターみたいに胸焼けがしてくる。

ショパンがロマン派のピアニストだからといって、やけにナイーブにロマンチックに弾くのはなぜ?
ベートーベンが、繊細な曲も叩きつけるような曲も書いているのに、ショパンだけなぜナイーブで物言いたげに終始するのか。僕がロマン派ピアニストの気持ちが分からないのは、そこなのだ。

残念ながら、ブーニンのそれもそのように聴こえる。

超速弾きのピアニストの場合だと、今度は強弱がなくて、繊細なだけの音になるか、シーケンサーみたいになってしまっているのもある。
でもどちらにせよ音の粒が見えない。リヒテルやルービンシュタインでさえ、音が濁っている。

アシュケナージのような演奏をするピアニストを探すのはとても難しい。アシュケナージの場合、次の様な特徴がある。超絶技巧を要する曲にも関わらず、非常に強いフォルテ。それでも音が潰れない、濁らない。アンビエントの縦横無尽さ。サスティンペダルを使っても音の粒が全部聴ける。ピアノの音が踊っている。ドライブしている。拍が正確で忠実。その上に豊かな感情表現が乗っかっている。だから気持ちがいいのだ。

『アシュケナージだからって、そんなに変わるものかなあ。』と思うかどうかは、もちろん自由です。







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