2014年5月17日土曜日

蔵王2014春




蔵王は相変わらず美しかった。

認知症の父と、介護疲れの母
二人がもう何十年も通っている場所。


蔵王連峰は震災後、福島第一原子力発電所からの風を
奥羽山脈の中で一番最初に受けとめた場所だ。

けれど、蔵王は相変わらず美しい。
空気も木々も変わらず命を謳歌し、虫が飛び、花が咲き乱れていた。



この数年間、私達の親族もまた、津波と原発事故に翻弄された。
命を拾った。

二人が住む塩竈市は仙台湾に面している。
家は残った。
海産物も、農産物も、もう二度と子供達に食べされられないのではないかと
不安になったこともある。

でも、もう私達は「それ」と向き合って生きることを決心している。
慣れたのではない。

まだ帰れない人たちがいる。
もうすっかり日常に戻った人たちもいる。
帰れたのも人生、帰れないのも人生。
僕の住む森と田畑に囲まれた豊かなこの地にも、たくさんの帰れない人たちがいる。

僕は、ただ感謝している。
家も流されず、家族もみんな生きて
今、こうして残された時間を
平穏に生きていられる事に感謝している。

みんな一所懸命に生きている。
だから僕も一所懸命生きる。

たかがマンガの内容に噛み付く人たちがいる。
いやそれが真実だと言い張る人たちがいる。
僕にはどちらも同じく卑しく醜く見える。

(あんなもの、30年前から嘘と悪口ばっかり描いてるじゃないか)

騒ぎ立てる人たちは、父のこの数年間の闘病生活をつぶさに知ったら
「放射能の影響だ」「いや関係ない」と言うに違いないだろう。
どっちの立場で何かを言っても、必ず誰かに攻撃されるだろう。

父の最初の病気のきっかけが、数キロ離れた海岸の
仙台火力発電所の排気が原因だと言ったら?

関係ない場所にいる人ほど、騒ぎ立てる。
自分に累が及んでいないから、及びそうになることが怖いのだ。

「自分が怖いんじゃない、福島の人たちの事を思っているのだ」と言うのなら
政治家に「福島に住め」というのではなく
自分が福島や宮城に住むといい。
それが一番被災地の人たちを励まし、復興を助けてくれるだろう。

そんなに命が惜しいか。
そんなに命が惜しいなら僕の命をくれてやろう。
それであなたの命が延びるのなら
こんなものいくらでもくれてやる。

命や健康に執着して他人を攻撃したり寛容さを失っていく人たちを見たくない。
文明に浴し、自分のケツももはや紙で拭けなくなった人たちが
文明に文句をつけ、政治家や電気屋のせいにするのも
意見が違うからといって罵倒したり貶めあうのを見るのももうたくさんだ。
誰かを貶めるのは、日本人の仕事ではない。

原発が悪いとか悪くないとか、どうでもいいことだ。
女川では避難所になって多くの命を救ってくれた原発
大熊や双葉では多くの人たちが帰れなくなってしまった原発
日本の経済と夜間電力を支えてくれた原発
多くの人たちのふるさとを奪ってしまった原発

本当は誰にも非なんかないのに
何かのせい、誰かのせいにしてそんなに楽しいのだろうか。
いや、誰かのせいにしていれば安心なのだろう。

安心したいなら、僕のせいにすればいい。
せいにすることで、放射線が消え、政治が良くなり
日本や経済がよくなるのならそうすればいい。いや、ぜひそうして欲しい。


それでも山は変わらない。
木々も変わらない。
花も変わらない。
動物たちも、虫も、温泉も
何一つ変わってはいない。
何も変わらず
でも、一つ残らず変わってゆく。

生まれ、生き、死んでいく。
放射線があってもなくても、人も動物も木々も全て、生まれ、生き、死ぬ。
山も海も地球も宇宙も、生まれ、生き、死ぬ。



生まれて初めて、父の背中を流した。

父は前を向いたまま
「お世話になりますねえ」
と何度も頭を下げた。

僕はずっと前から、これからも、僕だ。


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