2016年12月11日日曜日

コンセプトとは解釈のための入り口である

絵で、言いたいこと、描きたいことが表現できた時は、たいてい言葉を発したくない。
何かを説明したいとも思わない。

「絵は絵でしか表現できない」
とは、マーラーの名言のもじりである。

東洋の美術はだいたいそうだ。

「見たままです」
「見る人の自由です」

という作者は多い。

まあ、そうなんだけど。

けれども、それは解釈を見る人に丸投げする姿でもある。

丸投げでいいのか?

そういう疑問がいつもある。

ヨーロッパに出品すると、作品の要旨やコンセプトをかなり細かく要求される。

これもまためんどくさいんだけど、彼らの鑑賞は分析的で、抽象芸術を解釈するのにかなりアンテナが立っているから、仕方がない。一所懸命、何か書く。

それも一理ある。

作者のコンセプトと、絵そのものと、鑑賞者の解釈が入り混じったところで「感動」がより深くなるという相乗効果を、僕自身も体験している。

例えば下の絵を見て欲しい。



これは僕の制作途上の作品の一例だけれど、何に見えるだろう。

黄色い風船のようなものが5つほど、下に向かって膨らんでいるのかしぼんでいるのか
まあ、そういう画面。
これを、何の説明もなしに解釈できてしまう人は、よほどの精通者であるに違いない。

では、題名を付けたとしたらどうだろう。

例えば「放出」とか「解放」とか。

そうすると、この黄色い風船が、風船ではなく、液体や気体に見えてくるかもしれない。

題名によって一つの「コンセプト」を与えたことで
その方向性、とっかかりは、単なるしぼんだ黄色い風船から
風船もしくは物体が物語る「何か」にレベルアップする。

「一体、何が放出されているか」
「何が解放されたのか」

「では、なぜそれは黄色いのだろうか」

実はここからが鑑賞、解釈の始まりである。
鑑賞、解釈は人によって千差万別だ。そして自由だ。
見る人の人生や体験によって全く異なるものとなる。

同時に作者の言う「放出」「解放」もとても気になってくる。

世の中には、作者が意味を持たせないで描いている絵はたくさんある。
それでも、見る者にとっては「意味のない絵」では困るのだ。

実際のところ鑑賞者の立場としては「意味のない絵」は僕は好きではない。

だから制作者として、知恵を振り絞って絵に魂を吹き込もうとする。

意味というよりは、魂と呼びたい。

僕はいつも魂のエネルギーを描いているから。

人やもののカタチそのものより、そこから発する魂のエネルギー。


さて、この作品にはどんな魂が込められるのだろうか。

それこそが、言葉にはできない、衝動と閃きと感性のみが支配する過程となる。

「絵でしか表現できない世界」である。








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