2016年12月14日水曜日

憑依が創作を生む

10代の頃の静物画

まだまだ若造だった頃、僕が自分の将来の方向を決めるのに、3つの選択肢がありました。
それは音楽、絵画、デザインの3つです。

どれも子供の頃から真剣に取り組んできたことであり、どれを選択しても悔いはないと思っていました。

最終的に20代〜30代はデザインを選び、そして今は絵を描いているという訳です。

自分の創作を後から振り返った時に、必ず「あ、これはなかなかの傑作だな」とか、逆に「これは駄作だなあ」「あ、もうこれは才能ないなあ」というような感想を抱きます。

ここまではよくある自己評価、反省です。

で、その中には「これは一体誰がどうやって作ったんだ?」というような、まるで他人事のような、手放しの絶賛がたまにあったりするのです。

何ヶ月も何年も経つと、本当にどうやって作ったのか思い出せないものもあります。

しかし、プロセスは説明できても、本当の意味で「なぜそうなったのか」分からないものがある。

そういう作品ほど、感心するほど素晴らしいのです。
もしかして自分が描いたのではないのではないか?と思うほど。

自分に何かが憑依して描かせてるとしか思えないほど、創作時の記憶がない。


で、だいぶ後から気づいた事なのですが、この「憑依現象」は絵画が一番多く、デザインが一番少ないのです。

デザインは頼まれて作ることが多いので理詰めや制約が多いということもありますが、自分自身で省みるにデザイン特有の「一般ウケ」を意識したものほど憑依は起きてないように思います。

実際、憑依なんかには頼れないルーチンがデザインワークにはたくさんあります。
理論や経験値や流行というものを常に身につけておかないとデザイナーは務まりません。

音楽はシロウトの域を超えてはいませんが、それでも真剣に演奏したり作曲していた頃は憑依は時々ありました。しかしそれはもうオーディエンス不在を前提にしたものであり、売れたいとかそういうウケを狙うとロクなものはできませんでした。

そういう過去の録音を聴き直しても、「やり直したい」と思うものはあっても「時を超えて良い」と自信を持って言えるものは殆ど無いようにも思います。

やはり自由きままに作った方が面白い音が出来上がっています。


絵は、ハッとするような作品があるので、正直嬉しいです。


ほぼ常に誰の目も気にせずに「自分の世界をたった一人で表現する」のですから、憑依も起きやすいのでしょう。

なんでこんな題材を選べたのか、過去の自分スゴイなあとか、この陰影の感じ、天才的!とか。

まさに自画自賛。

僕自身瞑想や祈りやそういったものに若干のたしなみがあり、祈りから入ればそれが込められる途上でやはり意識が別のものに変わるという現象を何度も体験しています。

自分で描いておきながら、自分じゃない者が描いているというのは、なんというか創作当事者としても鑑賞者としても自分が存在している訳で、なんとも不思議な感覚です。

そして確実に、二度美味しい。

単純に、潜在的に、僕は絵が好きなんでしょうね。


0 件のコメント:

コメントを投稿