2016年6月1日水曜日

「景色」というものの絵画的解釈及び企図

平面美術には「景色」がもっと必要だ。
対象をそのままなぞるだけなら写真で良いとまでは言わないが、イマジネーションは作者の意図を越えることが難しい。

だからといって抽象が具象に勝るわけではない。

もしも心象や偶然に頼っているばかりなら、その絵は個性的とは言えない。誰が描いても同じになるか、作者の超個人的な体験だけを掘り下げなければ解釈はとてもむずかしい。

焼き物には「景色」という表現がある。

これは作者の意図ではない。
見る者、使うものにとっての見立ての世界である。

しかし、焼き物の景色は、釉薬をかけただけでは全くその仕上がりは想像できない。
窯の中での神の一手、いや、ほぼ全権が必要である。

焼き上がった時に、景色が出来上がるのを、作者も鑑賞者も心待ちにする。
そういう意味においては非常に他力本願的であるとも言える。
こういう自然法則に委ねることのできる芸術は幸福である。

絵画はそうはいかない。

と、思われている。

筆を使おうがナイフを使おうが、ドリッピングしようがスパッタリングしようが、人の手にどうしてもその結果が追従してしまうと。

で、そこから脱却するために、様々な人が様々な試行錯誤をしてきた。

思うにどれも「潜在意識」の部分で留まっているように思える。
素晴らしい作品ほど、鍛え上げてきた手わざの範疇は越えない。

で、僕の途中結果。

意図(手わざ)と潜在意識の他に、神の意識がどうしても必要だ。

精神を研ぎ澄ませ、宇宙と一体になった時、作り手はシャマンとして媒介として、画面にそのメッセージを写し取ることができるのだ。

その神の意識こそが、鑑賞者と作者を結ぶ、景色になる。




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