2016年3月3日木曜日

芸術的魂柱

絵に、具象も抽象もない。

ただ残念ながら現在の抽象や現代美術の多くの手法には限界がある。
鑑賞を人間の理性か無意識という、幅の狭い無個性なものに頼りきっているからだ。
抽象の鑑賞は簡単だ。
ほぼ一種類しかない。
それが純粋に「成り立つものである」とするか否かである。

だがそれは現代音楽にも似ていて、数見ているうちに、段々個々の区別がつかなくなってくる。

おそらく抽象を描いている多くの作家は、無意識というものに頼りきって線を描いているのではないだろうか。
それを補完するように分析的コンセプトを付け足しながら。

ただ「だから絵には説明は要らない」と勘違いしてもらっては困る。
説明がなければ、さらに鑑賞者は途方にくれ、無意識でしかその絵を見ることができなくなる。

無意識でしか見ることのできない絵はつきつめれば無個性であり、共感性がなければゴミになってしまう。

丸を描くだけではダメだし、丸に見えるだけでもダメだ。
一体全体、なぜそこに丸があって、その丸はなぜ丸で、なぜその色をしているのかを、描き手は説明できないといけない。

実際に説明するかどうかは別としてだ。説明のための手稿は準備しておくべきだ。

禅画は禅の思想があるから禅画なのであって、それだけでは存立しないのと同じである。

故に抽象の理論的構造は、絵の中ではかなり重要性が高い。
高いが故に絵の独立性の限界が低い。

その限界を破った時、抽象はもっと新しい芸術の世界を切り拓けるだろう。


絵が立つためには、神の意志がどうしても必要だ。
神の意志が宿るには、理性的コンセプトや無意識に訴えるものだけでは不十分である。

それ以外に「芸術的魂柱」がどうしても必要である。
芸術的魂柱によって初めて「響き」という目に見えない神の意志が高らかに奏でられる。

芸術的魂柱とは、魂の共感である。

例えば具象の場合、緑色の筆跡が葉っぱに見えれば人は安心する。
かなりデタラメな線でも、その中に目や鼻があれば人はそれを人として認識して安心する。表層的共感である。

そしてその中に自己本来の共感の何かを見つけようとする。
表層の共感から深層の共感へ。
その橋渡しをするのが「芸術的魂柱」である。

この場合、葉っぱそのものが魂柱として機能するのではない。
葉っぱであると認識した鑑賞者が、共感によってそこに隠されたものが「確実にある」と信ずるに値するファクターである。

葉っぱに意味があると思うからその意味を探る。
意味の分からない線に「意味がある」と強制的に思うのは理屈であって、共感はそこにはない。共感のないものに意味を探るのは非常に難しく、また苦痛である。

それは別に高尚なものでなくてもよい。モラルに則ってなくても良い。
もちろん高尚でもよい。しかし高尚かそうでないか、モラルかインモラルかは人間の決め事であり、神の意志とは関係ない。

優れた絵、つまり神の意志が宿った絵には、共感がたくさん詰まっている。


現代の抽象は得体のしれないフォルム、またはアンチフォルムを「こう読み取る」という説明を強制されるか、完全に丸投げかの双極のために、自己の体験や深層心理に重ね合わせた鑑賞ができず、理性もしくは無個性の潜在意識によってのみ理解せざるを得ない。
つまりはどちらにせよ解釈は結局のところ受け手に丸投げなのだ。

丸投げということは、見る者の神へのアプローチも相当に難解になる。というか響く確率は非常に低くなる。

魂柱を自分で用意しなければならない芸術は芸術としてかなり片手落ちである。


葉っぱの形の訳には、描き手が強烈に込めた意味と、描き手も気づいていない真実がたくさん隠されている。そこに神の意志が宿っている。
つまり、絵は二重構造なのだ。

書き手の強烈な意志による、描画の動機と筆跡。そしてそのコンセプト。
これはハッキリしている。
見る者は見ることによって絵を鑑賞する。
作者のコンセプトを知って理解を深める。
共感が深まる。
さらに絵に宿る描き手のコンセプトを超えた絵の本当の意味、つまり神の意志がある。
見る者は直感や潜在意識、そして更にその奥にある魂によってそれを感じ取り、作者のコンセプトを超えた理解や解釈をする。

それを結ぶのが、芸術的魂柱である。



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